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1 ネクローシス、キャラメル、猫

 家は細胞に似ている。屋上の縁に腰掛けながら、彼女は思う。

 いつも白衣を身にまとっている先生から聞いたことがあった。人の細胞には寿命があり、役割を終えると死に絶えて、新しい細胞として再生するそうだ。建造物も同様に、一定の周期で取り壊され、新しく生まれ変わる。家の死骸である廃墟は差し詰め、死んだ細胞の痕跡――つまり、ネクローシスと同義かもしれない。

「まあ、この街にあるのはネクローシスばかりだけど……」水に沈む家々を見下ろしながら、彼女は呟いた。

 水底には様々な建物が眠っていた。鉄骨を剥き出しにしたマンション……紅色の藻で賑わうコンビニエンスストア……遊具に漂着物が絡みついている公園……電車の往来がない無人の駅……彼女はそれらの亡骸を、海上からしっかりと目視することができた。

 街を満たしている水は、冬の夜空のように澄んでいた。こんなに美しい水がなぜ街を飲み込んでしまったのか、詳しいことは彼女には分からない。月の公転軌道が狂い、高潮が街を襲ったためだと母から聞いたことがあった。しかし、生まれてからずっとこの街を見てきた彼女は半信半疑だった。世界が始まった瞬間から、水は街を満たしていたような気がするし、水が世界を満たした後、雨後の筍のように家が林立したようにも思えた。


「おーい、ユカリちゃーん」

 両足を屋上から投げ出したまま眼前の海を眺めていると、女性の声が聞こえた。春の昼下がりを思わせる柔らかな声色だった。逆光のため判然としなかったが、黄色のゴムボートに乗っている人が、ユカリの元へオールを漕ぎ出していた。

 ユカリは立ち上がり、スカートに付いた埃を叩いてから女性に向けて手を振った。女性はボートを漕ぐ手を止めて立ち上がると、ユカリに向けて手を振り返した。ボートが揺らいで海面に波紋が広がり、バランスを崩した彼女は慌ててしゃがみこんだ。自分の枕を嗅いだような充足感が、温かな湯になってユカリの心を満たした。

 合成皮革の鞄を持つと、ユカリは慣れた足取りで階段を降り、先にある仄暗い部屋に向かった。ここは主にOA機器を扱う商社のオフィスビルだったらしいが、今は壁のあちこちに老人の静脈のような亀裂が走っていた。ユカリはここで人間が働いていた光景を、上手く思い浮かべることができなかった。

 横倒しになったロッカーや錆びた椅子を踏み越えて、部屋の北側まで歩を進めた。ガラスのはめられていない窓から上半身を乗り出すと、黄色いボートが彼女のすぐ近くまで来ていた。

「アカネ、おはよう」弾みをつけて窓の縁に飛び乗る。「悪いわね、いつも乗せてもらって」

 アカネはユカリから鞄を受け取り、「良いよ、いつものことじゃん」と微笑みながら、「それに安心するんだ。毎朝、こうやってユカリちゃんと一緒に登校できて」

「煽てたって、サツマイモくらいしかあげられるものは無いよ」

「もう、本心なのに……」祭壇に供物を置くような素振りで、ユカリの手を取りボートへ導いた。「あと、どうせ貰うならお菓子のほうが良いな」

「今日も学校の帰りに寄るの? 製菓会社の倉庫」ユカリが鞄を自分の背後に置き、オールを握る。

「もちろん。だって宝の山だよ?」

「確かに、あそこは夢の空間だったかも。知らないお菓子が山積みで……」フィルターを通して滴るコーヒーのような、緩やかなスピードでボートが動き始める。

「昨日初めて食べたけど、キャラメルってあんなに美味しいんだね。舌で転がすと、甘みがじんわり染み出してきて……」味を思い返すとき特有の、軟口蓋のひきつり。

「今度はダンボール箱ごと持って帰らなきゃね」

「でも、独り占めは良くないでしょ? クラスの皆にも分けてあげなきゃ」


 池を悠々と動くアメンボのように、ボートは海面を滑っていく。時折、ユカリがアカネの手元を見て、オールを漕ぐペースを調整する。気を抜いていると、比較的小柄なアカネのほうへボートが曲がってしまうからだ。

 二つ目の信号を左に曲がり、電柱や漂着するゴミを避けながら進む。特に漂着ゴミには細心の注意が必要だ。一度、ビニール袋の中に入っていたプラスチック片が、ボートに穴を空けたことがあった。ゴムボートを失った彼女たちは、骨折をした競走馬のようなものだった。ウレタン接着剤で修繕して事なきを得たが、その出来事以来、二人はゴミがボートに近づく前にオールの先で引っ掛け、後方に放り捨てるようにしている。

 生温い風が吹き、ビルに絡みついた植物の葉がざわざわと音を立てた。アカネの細い首筋を風が撫でて、アカクラゲの触手に似たユカリの長い髪が揺れた。

「なんだろう、あれ」葉が揺れた辺りに視線を向けながら、アカネが指をさした。「ほら、あのビルの屋上に……」

 屋上に視線を注ぐと、ラグビーボールほどの影が周りの風景から浮き出ていた。目を凝らすと、影にはアーモンド型の目がついており、それは石炭のような真っ黒な毛並みを持つ猫だった。

「猫だ」オールを漕ぐ手を止めて、ユカリが言った。「頭の先から尻尾まで、真っ黒……」

「珍しいね、どこから来たのかな……」

「餌を探してるっぽいね」

「何を食べて生きているんだろう」

「自分で魚を捕ってるのかも」

「猫って泳げるのかな?」

「うーん、どうだろう」ユカリが宙を見つめたまま、考えを巡らせる。「犬は犬かきをするけど、猫かきなんて聞いたことが無いし……」

 風に舞う綿毛の身軽さで、コンクリートの足場を猫が歩いていく。雑貨店らしき建物の屋根に飛び乗ると、身体を反らせながら欠伸をして、二人の顔を交互に見た。一つ一つの仕草は愛らしいが、その瞳には海底から組み上げたばかりの水を思わせる、神秘的な輝きが宿っていた。

 猫の目に吸い寄せられるように、二人はボートをゆっくりと屋根まで横付けした。手近な木の幹にロープを巻きつけてボートを固定し、屋根に上ると、視線を猫と同じ高さまで下げて近づいた。お互いの呼吸の音が聞こえそうなほど、二人は猫の間近に迫っていた。

「猫ってサツマイモ、食べるのかな」ユカリが鞄の中を探りながら言った。

 猫に尋ねたことはないけど、とアカネが笑い、「食べるよ、きっと。ユカリちゃんの干し芋が嫌いな生き物なんていないよ」

 ユカリは長方形のタッパーを鞄から取り出した。蓋を開けて、中から乾燥したサツマイモを摘むと、ゆっくりと猫の鼻先に近づけた。

 猫は見知らぬ国の看板の文字を読むような表情を浮かべていたが、ユカリの顔と芋を交互に見て、何度か鼻をひくつかせると、俊敏な動作で芋に齧り付いた。

「食べてる……」咀嚼する猫をまじまじと眺めながら、アカネが呟いた。「やっぱりお腹が空いてたんだね」

 ユカリの指先にあった干し芋はあっという間に食べつくされた。猫は口の周りを舌で舐めると、ややトーンの低い濁声で鳴いた。ユカリはゆっくりと手を伸ばし、猫の頭を毛並みに沿って撫でた。猫は目を細めながら、再び濁った鳴き声をあげた。

「猫って、本当にニャアって鳴くんだね」掌に伝わる温もりと毛の感触を楽しみながら、ユカリが言った。

「でも、意外と渋い声だね」

「もっと高い声で鳴くと思ってたよ」

「変声期があったのかも」アカネはしゃがみ込み、猫の背中をそっと撫でた。「わ、温かい……」

「この子も気持ちよさそう。とろけた顔をしてるし」

「ユカリちゃんも同じ表情になってるよ」

「アカネだってそうだよ」ユカリがからかうと、隙間風のようにさりげない笑い声が二人の間で上がった。


 猫を優しく擦っていると、時間がとても緩やかに流れているように感じられた。しばらくの間、二人は猫の毛並みと表情と温もりを楽しんでいた。黒猫は大きな欠伸をして、サーモンピンク色の舌をちらりと覗かせた。その舌を見たユカリはふいに干し芋のことを思い出し、続いて学校のことを思い出した。

 ユカリはやおら立ち上がると、視線だけでアカネに出発の合図を出した。三呼吸分ほどの間、アカネは名残惜しげに猫を撫でていたが、唾を飲み込むと同時に立って、「またね」と猫に手を振った。

 留めていたロープを解いて、二人はボートに乗り込んだ。猫は寂しげな二人の顔を見て、ボートを注視し、濁声でニャアと鳴くとボートに飛び乗った。

「君も来るの?」驚きの中に喜びのニュアンスを滲ませた声色で、ユカリが猫に訊いた。

「来るみたいだね」唇の両端を窪ませながらアカネが微笑む。「一番前に座って、まるでこのボートの船長みたい……」

 猫はボートに右前足を掛けて、前方を眺めていた。ただ前を見つめているのではなく、明後日の天気まで見抜いているような雰囲気が漂っていた。

 この街は案外、ネクローシスばかりじゃないのかも、とユカリは呟いた。ネクロー? とアカネは首を傾げた。

 二人はオールを握り締めると、学校に向けてボートを漕ぎ出した。空は清潔なシーツのように澄み渡り、二人と一匹を乗せたボートが水を切る音と、咽頭を鳴らした猫のゴロゴロという声だけが辺りに響いていた。船は少しずつ速度を上げていき、群青色の海の上を滑っていった。

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