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当世書生九相観絵巻

作者: 斎藤慶次

一、

 数段階の腐食を経て、傷つき痛んだ彼女の肌は、皮膚は死後硬直により強張り、ところどころ蒼くなったり、緑色を帯びていたり、紫の班が網目状にはしっていたりした。その色素は濃さが生前は白く透きとおるようであった彼女のその肌の内側から滲み出るようにして染まっており、しかし、それでも彼女の肌をタオルでよく拭いてやりながら、僕は「美」について考えた。生前の彼女は、顔かたちから肌、髪に至るまで外形に関しては、ほぼ完璧と言って良いほど均整のとれた容姿を有していた。しかし、「美」がもしも〈乱調〉に宿るとすれば、生前の均整のとれた白い肌に人体の腐食を示す症状が刻々と浮かび、彼女の「美」が崩れゆく今こそ、彼女は美的に完成されていると言わなければならなかった。死んでからすらも、いやむしろ死後数日たって腐敗がある程度進んだ今の状態の方が、彼女は「美しい」と僕は自信を持って断言した。紫の死班はあたかも華のように咲き、彼女の肌を彩っていた。それは僕に彼女の「美」の一回性について思い起こさせた。彼女のこの「美」は、腐敗の進行により、数日後にすら彼女の身体から消え去ってしまうかもしれない。その事を考えた時、僕はそれを愛でたいような、それとも生前の彼女の美を惜しみ、怨みがましいという感情を抱くべきであるような、複雑な気持ちになるのだった。

 浴槽に横たわった彼女の顔は生前とほぼ変わらなかった。しかし、死は彼女から生前の表情筋の収縮を奪い取っており、僕は「死んだ人間はこういう表情をするのか」と生物学的興味を抱いた。いや、これはもう化け学の分野だろうか。彼女の魂はもはや地上の呪縛から逃れてしまっているのだから。しかし、その表情も僕の見ようによっては穏やかでたおやかな笑みを浮かべているようにさえ見える。死体然とした血の気の失せた表情、彼女の皮膚の全てを土気色にしていった死後硬直から、何故か彼女の頭部だけは逃れられており、僕の記憶映像の中にある彼女とほぼ変わりはなかった。むしろ彼女は機嫌の良い時でなければ僕にさえ滅多に触る事を許さなかった、柔らかいその頬、彼女の美しい黒髪、小ぶりな眉などを好きなだけ愛でる事ができて、僕は満足だった。僕は彼女の顔も丁寧に清めた。僕は自分の手つきに十分な愛情が含まれている事を自分で確認した。我々は確かに愛し合っているのだ。

 最後に僕は彼女の脚部を持ち上げ、その肉づきの良いふくらはぎをタオルで優しく撫でさすった。特にその部分は腐敗がひどく、その皮膚は土気色になり、死後硬直による強張りから関節は曲げるのに苦労した。もとの静脈の場所には凝固した血液が網目状にはしっているのが、皮膚の上からでも確認できた。この時、僕は彼女が横たわっている浴槽に彼女の茶色い体液らしきものがひたひたと零れ落ちているのを発見したが、その事実すら僕の美的陶酔を妨げるわけではなく、むしろ専一にし、僕はひざが彼女の液やら水滴やらで濡れるにまかせておいた。彼女の身体を愛撫しながら、僕は何とも言えない陶酔と罪悪感、零れ落ちてしまいそうな彼女の身体の脆さとかなしさを思った。

 しかし、僕は彼女の死から数日の倒錯した日々、彼女の屍体をひたすら愛でつづけた数日間の忘我から目覚めつつあった。そもそも僕は自分の趣味の快楽に溺れつつも、冷静に自分を眺めつづける事のできるたちの男であり、彼女の死を警察に通報せず、こうして浴槽で彼女と二人きりの時間を過ごしている事じたいが、犯罪に問われるであろうという事を理解していた。

 〈彼女〉(これより今現在の生命活動が完全に停止した状態の彼女を「〈彼女〉」と表現する事にし、生前の彼女を「彼女」と表記する事にする。)は、僕の下宿の夏場――京都の夏はそれはひどいものだ――の蒸し風呂のようになった幾日間を乗り越えてきており、どう考えてもそろそろ本格的な腐敗が始まろうとしていたし、僕としても夏場ということもあり〈彼女〉に占領されて風呂を使えないといった事態はそれなりに困った事だった。

 そもそも僕には人体の腐敗に関する知識が根本的に欠如していると言わざるを得なかった。僕はその事、つまり〈彼女〉の腐敗と〈彼女〉の腐敗が進行して〈彼女〉のアイデンテティが完全に〈彼女〉の身体から過ぎ去ってしまう可能性について、はやく気付き、その対策を早急に取るべきだった、と忘我の数日の後で反省した。僕は今の美的な〈彼女〉を腐敗という化学現象から守る方策を考え始めた。僕は人生の中で死に直面する機会も人並み以下でしかなく、親族の葬式などにも積極的に関わる歳でもなかったから、人間の死というものが綺麗に不可視化されてしまっており、彼女の死にさしあたって、はじめて人間の死というものの、大仰に言えば、その哲学的意味について考えはじめる始末だった。

 彼女の死と〈彼女〉としての再生はおよそ二日前の事だった。いつものようにコンビニに寄り、大学から帰宅した僕は、青白く光るナイフを片手に持ち、部屋の浴槽にぽつんと立つ、顔面蒼白な彼女を発見した。僕は自分の同棲相手が帰宅した僕を温かく迎えてくれるものとばかり考えていたので(彼女の自殺の予感は全くなかった。)、彼女の行為を制止するのにいささか役不足を感じざるを得なかった。僕は場違いですらあった。彼女は着衣していたが、シャワーは出しっぱなしになっており、流水がとめどなく彼女の服を濡らしていた。

「何してるの?

 風邪ひくよ。」

 彼女の意を決した姿は僕を空間的に圧倒するのに十分であり、僕はふるえる声でそう言うのがやっとだった。

「死ぬの。」

「死ぬ?

 君が僕をおいて死ぬというのか。」

「私は私自身の自己決定で死に方を選び、その死後の状況まで想定、支配して死ぬの。

 だから、あなたは責任を感じなくていいのよ。」

「何も、今死ぬ事はないじゃないか。」

「さよなら。

 あなたは多分、私を忘れられなくなると思う。」

 彼女は振り向くと僕をうつろに見、しかし確かにそう言った。僕は彼女の言葉を忘れない。彼女の視点は僕で焦点を結んでおらず、いつもは気丈な彼女もこんな時には緊張するのだな、と僕は妙なところで感心した。

 事件は実にあっけなく終始した。次の瞬間、彼女は、手に持ったナイフを、自分の、そのささやかなふくらみの間の谷間に突き立て、苦悶とも快楽の絶頂ともつかぬ表情を浮かべた。彼女の眼は最後にぐっと見開かれると、僕で焦点を結び、僕に忘れられない感覚を残し、重力に従ってずるずると浴槽へ崩れ落ちた。まるで自分の顔から足にかけての皮膚の上を死にゆく女性が同じ速度でなでさすりながら崩れ落ちたような、そういう肉感的な目線を感じた。彼女は自分の心臓を一突きにし、ほとんど即死であった。そして、僕は彼女を次の瞬間から「まるで別の生き物みたいだ」と考えた。彼女がもう助からないであろう事は既に明らかだったので、僕は警察もしくは救急車を呼ぼうとは考えなかった。それよりも、彼女の死に対する、それによる自らの思考の「転回」の方が今のところ急務であった。そもそも彼女は何故自殺したのか?一体どのような理由があって、僕の家の風呂場で排水溝をくれないに染めつつ、今〈彼女〉は生命を失って浴槽に横たわっているのか?相変わらず、〈彼女〉の胸の傷口からはどくどくと鮮血が流れ出ていた。

 そして同時に、僕は温かい新鮮な女の死体に興奮しはじめていた。僕は自分にそのような性癖があるのをはじめて発見した。僕は潜在的に死体愛好者ネクロ・フィリアだったのだろうか。それとも彼女を永遠の姿にとっておきたいという生前の彼女に対する愛情のなせるわざだろうか。僕は彼女が死ぬと同時に残念だと思ったが、しかし同時にこれほど魅力的な女が死体になってくれ、そしてそれを好きに愛でられる機会が自分に訪れようとは思いもよらなかったため、自分は恐ろしく幸運だと思った。ほとんど天佑だと思った。人生のうちでこのような機会に恵まれようとは思わなかった。しかし、もっと言えば僕の、この彼女の死による「高揚」それ自体をもっと詳細に自己分析すべきであり、それこそ急務であった。僕はこのような事態に接した事は人生のうちで勿論なく、この事件じたいが僕という一個の自己を捻じ曲げ、アイデンテティを不確かにし、僕の部屋と風呂場という日常空間を破壊した。もはや僕は以前の僕ではなく、彼女もまた以前の彼女ではなかった。彼女と僕の物語がこういう形で終結すると共に、しかし僕はそれがまた新しい物語のはじまりである事を唐突に理解した。もはや僕はこれまでの彼女に対する態度を改めるべきであった。

 僕は一瞬の忘我と以上のような種々の感情の到来ののち、〈彼女〉の身体を浴槽に横たえ、〈彼女〉の身辺を整理しはじめた。〈彼女〉は自殺にしてはやすらかな死に顔と言うべきであったが、険しい眉間と蒼褪めはじめた頬だけは如何ともしがたかった。だから僕は、〈彼女〉のカッと見開いた眼、最後に僕で焦点を結んだまま硬直したままの眼を、優しく閉じさせてやった。僕はさながら神官のごとく、丁寧に〈彼女〉を一個のご神体に仕立て上げた。僕は一息つくと、改めて〈彼女〉のため息をつきたくなるような「美」に陶酔を覚えた。〈彼女〉はほとんど特権的存在であった。僕はこんな女性を見た事がなかった。〈彼女〉の「美」は死をもって完成された。僕はその〈新生〉に立ち会ったのだ、と思った。

 そしてそれから三日ほどの間、僕は血まみれの〈彼女〉と浴槽の中で抱き合って寝た。


二、

 それから数日たって、僕は〈彼女〉のための物語を創造しはじめた。僕にとってはまず〈彼女〉という現象を解釈する事が重要であった。そして、腐敗、死、屍への愛を物語として構造化する必要性があった。そのため僕が手段として選んだのは、ネットによる情報収集であった。結局、根本的な学にかけ、今まで死を不可視化してきた、稚拙な僕にとってインターネットは安易ではあるが、やはり確かな情報源であった。そこには実際安易に腐敗死体、野ざらしにされた死体、いわゆるグロ画像というようなものが散見された。また、ゲームやB級映画などの世界にも、もっと露骨に言ってしまえば「ゾンビ」のようなものがありふれており、僕は簡単に人の死体を眺める事ができた。(僕はその簡便さにまた苛立った。)しかし、僕は「ゾンビ」のような言葉で僕と〈彼女〉の腐敗した関係を言い表すのは嫌だった。〈彼女〉はそれだけで特権的であり、好奇の目線にさらされる浮浪者や登山事故犠牲者の死体といったようなものではなく、数奇者の大量消費にさらされるゾンビのようなものでもなかった。そんなお粗末なものと一緒にされるのは僕には耐えがたかった。だいたい僕は死体であれなんであれ、それが銃撃され、肉片が飛び散るのを見、それにグロテスクな快感を覚えると言ったような人間の倫理性の決定的な欠如には嫌気がさしていた。

 よしんばそれに快感を覚えるのはいい。しかし、それを消費財としてしか扱わず、人間の死というものの中に一回性も神秘性も官能性も見出せないといったような輩は、僕には理解できなかった。また、それに何の感慨も覚えず、その現象を斜めから見て、喜んでいるような人間もまた理解不能だった。

 しかし、僕は幸いにも日本古典の中に格好の素材を見つける事ができた。「九相図」と呼ばれる絵画作品群がある。端的に言い表せば、それは歴史上美人と名高い女性が野ざらしにされ、朽ちていく様子を克明に描いた絵巻物であり、壇林皇后や小野小町などが恰好の素材として描かれた。壇林皇后とは橘嘉智子の別名であり、嵯峨天皇の皇后だった女性である。伝説によれば生前多くの男性の欲望を見に受け、苦悩した彼女は死後、帷子の辻に自らをさらさせ、九相図が描かれたと言う。そもそも「九相観」とは、中国、インドの僧たちが人体が腐敗していくのを眺め、この世の無常を悟ると言った修行の一種である。しかし、日本に伝わるにつれ、「九相」の意味が変容していき、生存時数多くの男性を迷わせた絶世の美女が、人体の美の無常を悟らせるため、あえて死体を野にさらせる行為、またはそれを描いた絵巻を指すようになった。僕は〈彼女〉はそれだと思った。

 壇林皇后、ぴったりではないか。僕は六道の西福寺に保存されてある、この絵を見に行った。実物は地獄絵図と共に展示され、日本古典絵画においては独特の画風とでも言うべき自然主義描写と平面的技法で、独特のリアリティを以て僕に迫った。それは「九相」つまり段階を追った死体の腐乱描写からなる。(僕はそれを図書館で借りた資料で詳しく研究した。)まずはじめに、生前であろう平安風の美女が息を引きとる描写、次に脹相と呼ばれる死体が膨張し、肉が黒ずんでいく描写。この時点でもはや美女に面影はないと言うべきであるが、しかし白い肌が野ざらしにされている様子は不思議なエロティズムを感じさせる。次に壊相。この段階では黒ずんだ皮膚がさけ、中から赤黒い血や肉が噴き出す。次に血塗相。皮膚はさけ、中から血が滲み出、地面に染み込んでいく描写。次に膿爛相。ついに肉は腐り、蝋のように流れ、一部が白骨化していく。次に噉相。野犬、狐、鴉などに女性が捕食される様子。(僕はこれは野ざらしの場合順番が前後するのではないか、と考えた。どうやら「九相」は腐食死体の自然描写というより、仏教的な観念のものらしい。)肉は引き千切られ、おぞましさを感じる。しかし、野犬の一匹はあからさまに女性の陰部に咬みついており、女性の肉が引き千切られる様子は淫靡である。次に骨相。文字通り白骨化した死体が散らばる。長い黒髪が白骨の上に散らばり、下顎の欠けた髑髏が地面からこちらを向いている。最後に、野草の生い茂る、あとかたもない野が描かれ、九相図は終りとなる。

 僕は「九相図」という観念、日本中世人の感性に感動した。しかし、僕は同時にこの「九相図」にまつわる伝説を鵜のみにはできず、独自の論理を展開する事にした。まず、壇林皇后は帷子の辻で晒された事になっているが、「九相図」伝わるのは六道が辻である。帷子の辻、六道の辻双方風葬の伝説があるが、位置自体は京都の西端と東端であり、これに大きな矛盾がある。どうやら壇林皇后は風葬されたというのは史実ではないらしく、壇林皇后、小野小町ら絶世の美女に仮託された伝説であるらしい。しかし、僕は歴史的存在である壇林皇后それ自体より、六道が辻という場所の磁場に〈彼女〉的なものの本質が宿ると信じた。結局それは京都における異界、被差別部落とも関わる問題であった。六道が辻はその名の通り、昔から六道より向うはあの世であると言われ、数多くの伝説と寺院を有する。それは鴨川で市街地に対し被差別部落と共に隔てられており、中世の人びとはハレケ的感覚によって、川を使って死にまつわるものを不可視化したのであろう。埋葬や処刑が単純に衛生的問題を孕んでいるという事情もあったろうが。それは仏教説話(僕自身は風葬に仏教というより渡来したゾロアスター教の影響を感じたが。)というより、地獄絵や水子供養と深く関わった自然発生的な宗教感覚の磁場を強く感じた。

 また、僕は「美」を禁忌として扱う中世的感覚も素直に受け取るわけにはいかなかった。結局「九相図」の本質は「美」とは無常なものであり、ゆえに執着してはならないと言う仏教的結論に達するものでなくてはならなかった。壇林皇后は自らの「美」に執着する男たちにその無常を悟らせるために、自らをさらさせたのであり、それに劣情をもよおす事は本末転倒であった。しかし、前述したように「九相図」という存在は、真に仏教的なものであろうか。

 そこには日常性の中の「異物」を扱う論理が働いている事に注視しなければならない。そこには丁度、能における「源氏物語」の主題のような抑圧が働いている。紫式部は能において抑圧された主題として立ち現れる。つまり、紫式部は「源氏物語」というあまりに官能的な小説を書いてしまったゆえ、地獄に堕ちたのだ、と。ゆえに、仏教に沿った読書行為によって「供養」する必要がある、と。小野小町、壇林皇后における「美」も同様に解釈される必要がある。つまり壇林皇后は美人でありすぎたゆえに、「九相」を通じて供養される必要がある、と読むのがここでは正しいのだ。そこでは女性における「美」、または現実ではない「虚構」の官能を与える小説は一見抑圧されているように見える。一見、身勝手な論理としか言いようがない。

 しかし、男性教養人や宮廷人たちも「供養」という名目で物語の官能を味わっており、「九相図」、地獄絵図の異物性を存分に利用しているのだから、これは中世日本の「宮廷的言い回し」と言わなければならないのではないか。実は「供養」の名目で「美」、「虚構」、「異」を味わうのが本来の隠された目的なのである。よって、腐敗する女性は仏教的な禁忌における無常やはかなさを表象しているのではない。〈彼女〉は、日常性の中で男性的権威の元で抑圧されてしまう、過剰な「美」を体現しているのである。〈彼女〉らは殉教者ではけっしてない。死によって過剰なまでの「美」を体現し、さらに数多くの男たちの欲望の目線にさらされる者、異空間をそのまま体現するものなのではないか。

 だから中世においては、被差別部落などの「死」を表象する異空間は、宮廷などの中央権力と隠れた共犯関係にあったと言える。象徴の三角形の頂点である「王」と象徴の三角形の外部である欲動は、実は裏でつながっており、緊密なホメオスタシスを構成しているのである。中世京都では、普段立ち入れない部落の寺院にある「九相図」が盆において開帳され、そこをおっかなびっくり見学する。そういった日常性のなかで不可視化された死を確認する巡礼。これはヨーロッパ中世的な言い方をすれば、「死を思え(メメント・モリ)」の日本における貴重な例ではないか。「九相図」巡礼によって日常によって不可視化され、抑圧された「異」的なもの、普段仏教的抑圧を通してでしか触れえない「美」が、日常性の象徴シニフィアンの殻を内部から破って、外部から直接流れ込む。それは一種、宗教的、神秘的体験であったに違いない。

 と、古典引用までして、ここまで〈彼女〉の物語化、神話化に成功した僕は、満足だった。相変わらず僕の頭脳は稚拙ではあるが、それなりに鋭敏なままであるらしい。僕は〈彼女〉を解釈可能な存在にしたと確信した。しかし同時に僕のこの教義を誰かに認めてもらう必要性を感じた。であるならば、僕は客観的に見て、僕と〈彼女〉のこの関係を誰か第三者に伝えたいと思った。そのため僕が駆使したのは、またしてもネットであった。できるなら同様の趣味の人間が好ましかった。


三、

 〈博士〉が下宿に来たいと伝えてきたのは、二日前の事だった。〈博士〉は僕がネットで自分の彼女の腐乱死体を愛でている事を伝え、下宿に誘った人間の中でまともに反応を返したただ一人の人間であった。大抵の人はそれをどうせいつもの「釣り」であるか、ゴシック好きのカップルの痴話程度にしか受け取らなかった。確かに一般に考えてみれば、疑わしい話ではあると僕は反省した。また腐乱死体云々の眉つばものの話の後の、僕の語る「九相図」を引用した〈彼女〉の神話化にいたっては、精神的に荒廃した大学生の戯言としてほとんど相手にされなかった。まさに〈彼女〉がげんに存在し、僕の前に全く以前とは別の物として現れ、僕の日常を明確に改変した、この宗教体験を理解できた人間はほぼ皆無であった。

 〈博士〉と名乗ったその人物は(実際に博士号をとっているのかは不明だが)、確かに僕のこの不審な話に乗って来たわりには、社会常識を備えた様子であり、知的な雰囲気を感じさせた。〈博士〉はまず「私は警察などとは一切関係ありませんし、あなたの行為を咎めるつもりもありません。」とことわった上で、僕の話を懇切丁寧に聞き、別段からかう風でもなかった。〈博士〉は、メールでのやりとりの中で自分も妻と僕と〈彼女〉のような関係を一時期築き、そしてその関係は実は今も続いているのだとこっそり告げた。これは僕にとっては、衝撃であった。しかし、僕は同時になるほどと考えた。彼は僕に同類の臭いを敏感に感じとったらしい。そして、であるならばそれは僕にとっても有益であるはずだった。もし僕と〈彼女〉と同様な関係がこの狭い世界に存在しているとすれば、またそれが持続可能なものであるとすれば、その経験から学べる部分は大であるはずだった。僕は〈博士〉とならば、この神秘的な〈彼女〉の「美」を共有できるような気がしていた。

 僕の貧相な下宿の玄関の前に立った〈博士〉は、あからさまに場違いであった。彼はバリっとした黒いコートを着込み、社会的地位も財産もあるという風の好事家の紳士に見えた。〈博士〉は僕の下宿――それはいかにも男子大学生的無秩序と無頓着に満ちていた――に入るなり、辺りを一瞥してさも軽蔑したように、

「汚いですねえ。」

と呟いた。実際、僕の下宿は汚かった。僕は渋々その事実を認めた。僕にとっては彼女が死んでからのここ数週間、〈彼女〉の解釈と神話化が急務だったので、日々の雑務はほったらかしてあった。そもそも大学にはまだ籍はあるが、彼女の存命当時から行っていない。しかし、僕は〈彼女〉の神官であった。僕はあくまでうやうやしく〈博士〉を〈彼女〉の場所へ案内した。彼は僕の言うままに〈彼女〉を安置してある浴室へゆっくり踏み込んだ。浴室は彼女の死後ほとんどそのままにしてあり、〈彼女〉は垢と黒黴のこびりついた白いプラスチックの浴槽に横たわっていた。辺りは〈彼女〉の死臭が香っており、鼻をつくその臭いを如何に僕とて意識せざるをえなかった。しかし、〈彼女〉はやはり死んで間もないように美しかった。しかし、〈博士〉は物凄い嫌悪感をその中性的な美しさをもった眉間に浮かべた後、吐き捨てるように、言った。

「どうせ、こんな事だろうと思いましたよ。」

 僕はメールでの彼とのやりとりが好感触であったので、僕と〈彼女〉の関係を目撃した彼の軽蔑した様子に少し落胆して、尋ねた。

「それは、どういうことでしょうか?

 僕と〈彼女〉の関係は理想的なものであり、自分で言っては何ですが、僕は腐乱死体の愛し方として、これ以上のものを知りません。」

 〈博士〉はさも汚らしい物を見たように、〈彼女〉の周辺を物色し始めた。〈彼女〉の胸にはまだ彼女の命を絶ったナイフが刺さっており、もう傷跡は乾いて、そこから血は流れ出てはいなかったが、〈彼女〉の死の様子をありありと伝えた。僕は自分の御神体である〈彼女〉をぞんざいに触られたので、少し腹をたて〈博士〉に話しかけ、彼の行為を制止した。彼の〈彼女〉の周囲を探る様子はまるで「探偵」のようであったのだ。

「〈博士〉……?

 失礼ですが、僕にも説明していただけないでしょうか?」

 そして、〈博士〉はそれからの数分あまりで、僕のたゆまず築き上げた「神域」を壊した。

「あなたの死体愛好の態度は明確に間違っていると言わざるを得ません。

 少なくとも私は、あなたのような人に私と妻のような関係の美学が理解できるようには思えません。

 確かに私はあなたの話を人づてに聞いて、大変興味を持ちました。

 何故ならそれは私と私の妻の関係にひどく似通っているものだったからであり、私はその手の話をほとんど血眼になって追い求めていたからです。

 いえ、私は親切心と老婆心から、それから人生の残りの時間をそのような関係の擁護に振り向けるという決意のもと、こうした活動を続けているわけです。

 ああ御心配なく、私は約束通り警察などに言ったりしません。

 私はああいう無粋な国家権力は心底うんざりしているのです。」

 そう言うと、〈博士〉は私を見、露骨な愛想笑いを浮かべた。しかし、それでも僕は彼の警察には言わないという言葉にどうしようもない安堵感を覚え、そのような自分自身に情けなさを覚えた。僕はもはや自分自身の人生などどうでもいいと考えていたのではなかったか。彼女の死んだ今、それらは全て価値を失ったのではなかったか。僕は完全に〈博士〉の前で一個の被告になり果て、彼の判決を待つような気持ちがした。今までの認識は簡単に歪み、僕は自分の基盤をひどく不確かなものに感じた。それはまるで不条理な情景であり、僕は自棄を起こしそうになった。

「しかし、私はあなたが相応の報いを受けるべきではあると思いますがね……。

 ああ、しかしこれもまた別の話です。

 私はこの死体状況、〈彼女〉――そもそもあなたはこの妙齢の女性の名前すら御存知ないのではないですか?――の状況を見る限り、誰が見ても瞭然だと思いますが、はっきり私はあなたに二重の意味で失望しました。

 まず一般的な意味で。

 あなたは〈彼女〉がつまりあなたと交際関係があり、先日自殺した女性だと言いましたが、本当ですか?

 大方、どこかから無理矢理連れてきて、あなたが猟奇目的で殺害した女性ではありませんか。

 外傷は胸の傷のみです。

 血の痕は流されてしまっていますが、――風呂場というのも、本来後始末がしやすいため選んだ場所ではないですか?――自殺というより他殺の方がしっくりくる状況ではあります。」

 そうだったかなあ。そうだったような気もする、と僕は考えた。愛しい彼女は僕が殺したのかなあ。彼女の名前は何だったろうか。

「そして、次に個人的な意味で。

 個人的な意味、つまり我々「死体愛好」的な意味で、ということです。

 あなたはまるで全然、死体を丁寧に扱っていませんね。

 温度や湿度調整にも気を使っていない、湿気の多い風呂場にいつまでも死体を放置しているという事も感心しません。

 そこには決定的に愛が欠如しています。

 これは全く計画的に行われたものではなく、突発的に女の死があり、実に考えなしにこういった状況になし崩し的に持ち込んだというのが正しいのではないですか。

 だから、今ぼろがでて、死後数週間の死体が決定的に形が崩れ、腐臭を発し、汚物を垂れ流しているのではないですか?

 これが世にも「美」しい死体ですか?」

 僕は彼の指す死体を見た。するとそれまで生前の美しい形を保ち、神々しい存在であった〈彼女〉は、ドロドロと融解し、途端に内肉が腐り、上面の表皮だけ剥け、状態の悪化した白骨と筋だけ残して、上滑りを起こしているのを見た。そこにあるのは単なる即物的な、数週間経過した死体に過ぎなかった。僕は視界がねじ曲がり、〈彼女〉の安置されている辺りを中心にして、深い暗い穴が空き、それに全てが引きずられ、深淵に落ちていくのを感じた。偏頭痛がする。

「よく今まで捕まらずにいたものですよ。

 だいたいあなたはロジックを重視しすぎて、観念的な〈死体〉を膨らませてきたに過ぎません。

 〈死体〉そのものは全く見ず、ほとんど思索に耽ってきただけだったのです。

 「死」は相変わらず不可視化されたままであったのです。

 はじめ、話を聞いた時からその傾向は強く感じていましたが、しかしそれも若いからだろうと考えにも留めなかったのが間違いでした。

 いえ、むしろ、その観念的で、アクロバットなロジックに魅力を感じたのも確かでした。

 しかし、それは全く、テクスチュアルな操作でしかないのです。」

 最初の衝撃からいくらか立ち直りはじめた僕は、半ば自棄になって〈博士〉に逆襲を試みた。ここ数週間、伊達に観念のみ膨らませてきたつもりはなかった。

「では、あなたはどうなんです?

 ええ、確かに、僕と彼女の関係が先ほどあなたの言った通り、陳腐なものであったとしましょう。

 ええ、陳腐な「変質者」の観念的な妄想と、誤った殺害の結果が原因であったとしましょう。

 あなたは先ほど、自分と妻もそのような関係を築いた、とおっしゃった。

 ぜひ、後学のために、どのような関係が、その「死体愛好家」とやらの主義にそぐうのか教えて貰いたいのです。」

〈博士〉は相変わらず自信たっぷりな態度で微笑んだ。僕は彼の異様な雰囲気に恐怖を覚えた。

「私と〈彼女〉の関係はこの通りですよ。」

 そう言うと、彼は着込んでいた黒いコートをはだけ、その白い乳房を露出させた。彼は、いや〈彼女〉だろうか、コートの下に何も着ていなかった。彼のその肉感的な女性の身体はその髭面の中年風の顔に全くそぐわなかった。露わになった彼の痩せたのどぼとけの下の辺りに古い手術痕を僕は認めた。僕は、それらに恐怖した。そのアンドロギュノス的な「美」を以て〈彼女〉は僕を威圧した。それは女性として完璧な肉体だった。白い柔らかそうな肌には肋骨がうき、気味が悪かった。

「私は死んでしまった〈彼女〉の肉体と、僕の喉から上の頭部を繋ぎ、一身として生きていく事に決めたのです。

 手術は難しかったのですが、医者に多額の謝礼をつかませ、うやむやにしました。

 こと細かな神経、骨髄もきれいに繋ぎあわされています。

 脳も正常に機能しています。

 これが私と〈彼女〉の愛の形なのです。」

「ああ、あなたはまるでSFだ!」

 僕はもうわけが分からなかった。ただ、僕はもう、この人に一刻も早く、部屋から出ていって欲しかった。僕は埃の浮くフローリングの廊下に倒れこんだ。立っていられなかった。尻が冷たかった。〈博士〉の声だけががんがんと頭の中でハウリングのかかったまま、響いていた。

「そして、あなたはその〈彼女〉とあなたの関係に、我々を介在させたかったのですね。

 あなたの論理は確かに観念的であり、完璧に閉鎖されていたが、しかし同時に他者によって、瓦解されたがっていた。

 あなたは特権的な、僕=〈彼女〉の関係を破壊したかったのですね。

 そして、私に〈彼女〉を犯されたかったのですね。

 そのような未来を深層無意識に望んでいたのですね。」

 でも、あんたも〈彼女〉じゃないか、と僕は思った。僕はもう限界だった。言い返す気力も残っていなかった。また、この化け物じみた両性具有者が、僕の妄想でない理由もどこにある?彼の存在は、どだいSF的だった。僕が〈彼女〉を都合よく自分の同棲相手に観念の妄想の中で仕立て上げ、自らの理性に誤認させたように、〈博士〉もまた僕の都合の良い妄想の産物でない保証がどこにある?僕はしばらく眼を瞑って高ぶった神経を落ち着かせようとした。

 気付くと〈博士〉はもう僕の部屋には居なかった。帰ったのだろうか、最初からそこに居なかったのだろうか?あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。僕は憔悴しきっていた。僕は風呂場に入り、〈彼女〉の横たわっている浴槽に入り、〈彼女〉の姿を確かめた。自分の足元、〈彼女〉の浴槽の底に何だかよく分からない腐敗したぶよぶよの半液体の層を認めた。

 僕の御神体たる〈彼女〉は〈博士〉の言った通り、腐敗しきっていた。現実の〈彼女〉にはもはや生前の面影はなく、僕が比較的生前の様子を留めていると描写した顔面は以前の愛らしさを全く失っていた。いつから?ずっとそうだったのだろうか。今、何月くらいなのだろう?

 〈彼女〉の汚らしく腐敗した顔面は重力に従って、ずるずると崩れ落ちようとしていた。パサパサとした黒い髪がしなだれかかり、頬は茶色に突っ張り、乾燥して緊張した筋の数本が浮き出ていた。その落ち窪んだ眼窩からは、黄白色のどろりとした半液体の眼球が今にも溶け出そうとしていた。僕は〈彼女〉の右眼孔に急いでくちづけると、今にも流れ落ちようとするそれを、こみ上げる嗚咽と嘔吐感を押さえながら、音をたててすすった。


四、

 目の前がチカチカするので、何だろうと思ったら、ちょうど部屋の中央の蛍光灯が切れかけて、0・5秒速くらいで延々点滅しているのを僕は見つけた。それは神経質になった僕をさらに追いつめ、苛立たせた。蛍光灯にはどこからか迷い込んだのであろう、羽もボロボロになった小さな粉っぽい蛾が、何度も衝突を繰り返していたが、やがてその音もしなくなった。僕はこのままでは駄目だと分かってはいたが、かと言って消耗しきっており、ただただ怠惰に精神が狂気と癒着していくのを覚えるのだった。ろくに食事もしていない。

 しかし、僕は奇跡的にまだ捕まってもいなかった。部屋の異臭はひどい事になり、一度大家が僕の部屋を訪れたが、その異臭も学生の不衛生くらいにしか思われていないらしかった。

 僕は死ぬのだろうか。多分僕はこれで死ぬんだろう。当然の報いかもしれない。死ぬのはいい。しかし、只で死んでやるのはごめんだった。

 死体はまだほったらかしにしなっていた。久々に僕は死体を眺めに風呂場に入った。死後数か月たった死体は、異臭を放ち、風呂場を惨状に変えていた。風呂場のタイルには赤茶けたよく分からない汁が点々とこびり付いていた。僕は死体の横にしゃがみ、その腐りきった下腹部をいつかのようにゆっくり撫でてやった。死体は変わり果てており、僕はそれに何の愛着も湧かなかった。すると僕は、下腹部を撫でる掌の下に何やら蠢くものを発見したのだった。それはどこから湧いて出たのだろうか、大型のうじ虫だった。うじ虫は僕の掌の下の、死体の腐った横隔膜の下で、死体の腐肉をあさり、糞をひり出しているのであった。一匹だけではなかった。数は少ないが、確実に数匹が蠢いているのを認めた。それはちょうど掌に収まるほどの大型の昆虫で、僕は手の感触で、死体の皮膚の下に、その存在が息づいているのを感じる事ができた。そしてそういったうじ虫やら腐敗ガスやらで死体の腹はぱんぱんに膨れ上がっているのであった。

 そして僕は、ああこいつらは僕なんだ、と考えた。この死体の中の無数のうじ虫ども。汚らわしい死体の腐肉を恥知らずにも食み、糞をひり出して、人体に彼ら自身の坑道を築く彼ら。自らの欲望にのみ忠実で、暗い穴倉でぬくぬくとしているうじ虫。この、糞のような、全存在が、僕だった。

 彼らは死体の中で繁殖するだろう。彼らは数世代を経て死体の腹の中にいっぱいにコミュニティを広げるだろう。いずれそれらは死体の腹に腐敗ガスと共に満ち、やがてぱつんと音を立てて、女の腹からはじけるだろう。

 それは言わば、僕の〈新生〉の瞬間だ。そこからは雲霞のように虫どもが溢れ出る。死体の腹を割って出たそれは、この世の報われなかった怨念の全てを集めたような汚物だ。恐ろしい飢えた群れとなったそれらは、もはやその頃には餓死しているであろう、僕の死肉を見つけ、彼女の次の獲物としてまた貪るだろう。では、僕の死体をさえ、貪りきり、消費しきったら?彼らはまた新たな獲物を求めて、外の世界に出るのだろう。そうして、無慈悲に、残酷に、安心している人びと、安穏に自分たちだけは無関係だと思っている人びとの身体を引き裂くのだ。それは僕がこの世に残す只一つの恐ろしい観念そのものだ。僕の死後も、そう言う風な僕の後ろ暗い観念だけが、独り歩きして行けばいい。

〈了〉


 なお資料としては山本聡美編『九相図資料集成』(二〇〇九年 岩田書院)を参考にしました。


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