第7話 「第2章 1:空を支配した将の落日」
アンセム・ハインケルは、かつては魔界の空に君臨する王であった。
魔界の空はいくつかの氏族が覇権を争ってきたが、その最たる氏族が龍の氏族であった。龍に乗り、空を駆け抜ける龍の氏族は魔王の信頼の厚い氏族であり、比類なき戦士であり、そして一番槍として魔王の敵を討つ部隊だった。
そして族長であったアンセムは、龍の氏族に在って最高の武人であった。
空の氏族は龍に近づかず、宙を舞う氏族は龍を見かけると空を開く、その様はまさに魔界の空の王の名に相応しいと言われた。
ハインケル将軍と言えば、ここ何代かの世代において魔王に並び立つとされた屈指の将で、魔王が信頼を置く数少ない男であった。
どんな者でも、ハインケル将軍の駆る真紅の龍、空駆ける灼熱のアドルフに畏怖の念を抱く。
だがそんな男も齢四百を越える頃には、ついには老いを見せ始めた。
息子のディードリヒに族長の座を明け渡すと、未練を欠片も見せずに戦場を去った。
そんな男が最期にと選んだのは、数年振りに魔界へと入り込んだ勇者だった。
「父上……」
病床から起き上がった父に、族長を継いだディードリヒが声を掛けた。
ハインケル将軍は現役の頃に愛用していた軽鎧を、黙々と身につけていた。
「いかんな。現役を退くと、こうも体がなまるとは思っても見なかったわ」
その言葉どおり、かつては丸太もかくやと言わんばかりの腕も、今ではディードリヒのほうが太く見えた。体つきもだいぶやせ細っており、龍を操ることさえ難しそうにも見える。
「本気、なのですね」
「戦士の死に場所は、戦場にしか無く、龍の死に場所は空にしか無い。お前も、龍の氏族に生まれたからには、分かるだろう」
族長としての矜持か、常に鎧を纏う息子が若さと力に満ち溢れて、とても眩しく見えた。幼い頃、父に見た憧れにも似た感情を、息子に抱いてしまい、ハインケル将軍は何も言わずに苦笑した。
まったく、体ばかりか、精神まで衰えてしまったようだ。
そのみっともなさが、笑えて仕方がなかった。
「ディードリヒよ。族長として、止めるか?」
「……なんとも困った父だ。そう言われては、止めることも出来ませぬ」
二人は顔を見合わせると、笑いあった。
「今の魔王殿と袂を分かったのは、あくまでお前。それについては何も聞かんし、何も言わん。ただ、ワシはワシが仕えた魔王の将として、そして一人の戦士として、勇者を止める。それが、亡き魔王殿への忠誠よ」
「はい」
ディードリヒが族長を継いで以降、この父から何かを言われたことは一度足りともなかった。それは族長として自身で考えろ、という父の愛情であり、また信頼であることは分かっていた。
だが将軍の忠誠が、今でもずっと、亡き先代魔王へと向けられたままであったことをディードリヒは知った。
「なあディードリヒよ。ワシは幸運だと、そうは思わんか」
「幸運、ですか?」
「ああ、そうだ。このまま老いと病に殺されるのを待つ身であったが、まさに闇の精霊の天佑よ。勇者との戦いを、こうして用意してくださったのだからな」
「なるほど」
「もはや、思い残すことはない。お前も、立派な族長となった。氏族の皆は、お前を良く助けているか?」
「ええ。父上が作り上げた龍の氏族という家族は、族長である私を助け、そして自らの足で立つ、立派な戦士たちです」
「そうかそうか」
満足そうに頷いたハインケル将軍は、立てかけられて埃の積もった二本の槍を両手に持つと、天幕を出た。
その天幕の前には、真紅の鱗で体を覆い尽くした長年の相棒、空駆ける灼熱のアドルフがその首を地につけて、主が背に乗るのを今か今かと待ちわびていた。
「アドルフよ、お主には世話になったな」
ハインケル将軍がその鼻の頭を撫でてやると、真紅の龍は気持ちよさそうな声を上げた。
アドルフもまた、老いと戦っていた。ハインケル将軍の幼い頃よりの相棒は、主と添い遂げるためだけに生きながらえていた。全盛期の威容は既に失っているが、それでも見事な鱗は、今でも健在だった。
そのアドルフの周囲には、氏族の民がこぞって集まっていた。
真紅の龍が広場に降り立った、ただそれだけのことで、ハインケル将軍の最期を悟ったのである。
最期の戦いに出る戦士を見送るために、こうして待ち続けていた。
「じじ!」
その中から、背の高い女が一人、飛び出してきた。顔は土に汚れ、腕や足に傷を作り、そして纏う鎧は至る所に破損の跡が残っている。
「おおフラン。相変わらずヤンチャしているようだな」
飛びついてきた孫娘を、愛おしく抱きしめながら、ハインケル将軍はそう尋ねた。
「えっへへー」
「お前は幾つになったんだったかな」
「八八だよ、じじ」
「そうかそうか。随分と大きくなったんだな。しかし、曾孫の顔が見れんのは残念だ」
「仕方ないよ。だってさ、あたしより強い奴がいないんだ」
「はっはっは、そうかそうか。こりゃ、どれだけ長生きしても見れないのかもしれんな」
「あたしより強い奴がいたら、すぐにでも見せてやるのにね!」
久しぶりに会った祖父と触れ合えたことが嬉しいフランは、満開の笑顔を祖父に見せた。
「父親に似ず、これだけ素直な娘なのに、残念だ」
「悪かったですね、ひねくれ息子で」
父親の背後から、息子がそう悪態をつく。
「女らしさを母親の胎内に忘れてきた娘です、子が生まれたらどうなっていたことか」
「何さ! 胸なんて槍振るのに邪魔なだけだからちょうどいいじゃん!」
「別に胸のサイズの話はしてないぞ」
フランが反応するのも無理はなかった。何しろ、男用に設えた鎧でも十分に収まってしまうのだ。本人としてはかなり気にしているようで、武人としては有用であることを強調することによって、矜持を保っていた。
「はっはっは、胸のサイズなど、大した問題ではないわ。女は愛らしさがあればそれで十分だ。のうフラン」
「えへへ、さっすがじじ! 分かってるぅ。パパンとは男の器が違うね!」
「当たり前じゃい。ディードリヒなぞ、ワシから見ればまだまだだからな」
父と娘に言いたい放題にされるディードリヒは顔をしかめつつ、後でしっかりと説教が必要だと思いながら、最期の会話を邪魔しないことにした。
祖父がそっと身を剥がしてくるのを、フランはじっと受け入れた。
「さて、いつまでもこうしていると、未練が残ってしまうでの」
そう言って最期にフランの頭を撫で、ハインケル将軍は待たせていた龍の背にまたがり、手綱をしっかりと手に巻きつけた。
周囲に集まる氏族を見回すと、別れを口にする。
「愛すべき我が氏族の民たちよ。一足先に旅立つワシを許せ。魔王殿とゆっくりと暴れ回っておく故、十分に生きながらえてから追いつくといい」
氏族の者たちは、誰一人として涙を見せなかった。戦士の旅立ちに涙を見せるのは、戦士に対する無礼であり、龍の氏族の生き様である。
「世話になった」
そう言って将軍は頭を深々と下げた。
いってらっしゃいませ、と民が口の端に載せる。それが、旅立つ戦士へ掛けるべき言葉だった。
「いってらっしゃい、じじ!」
「ご武運を」
フランとディードリヒも、別れを口にする。
「ディードリヒよ、壮健でな」
「はい」
「フラン、父の言うことをよく聞き、よく補佐するのだぞ」
「任せて!」
二人のハッキリとした返事を聞き、ハインケル将軍は満足そうに頷く。
「では行こうかアドルフよ。我らの力、勇者に見せつけてやろう」
龍は身を起こすと、高らかに嘶き、ゆっくりと翼を広げた。後ろ足で地面を蹴ると、ゆっくりとその身を空に浮かび上がらせる。広げた翼で風を掴み、すぐさまその身体を風に乗せた。
集落の上空を数度旋回すると、勇者が来たはずの大穴へ向けてアドルフは空を駆けた。
「ふはははは、戦場はいいな! 血が滾るわ!」
体中にいくつもの矢を受けながら、龍の背でハインケル将軍はそう笑った。
滑空しつつ二本の槍を振るってはいたが、すでに槍を一本失い、もう一本は中程で折られていた。もはやハインケル自身が攻撃する術を失っていたが、それでも灼熱のアドルフを駆り、空を駆け巡った。
勇者たち一行は空舞うハインケルとアドルフの攻撃に多くの仲間を失いながらも、諦めずに攻撃を続けている。
「まさに! ここがワシの死に場所よ!」
一人群れから離れた者を見出すと、ハインケルはアドルフにその者を狙うように指示を出し、龍はそれに従って急降下した。
アドルフは腔内に熱を貯めながらその者に急接近すると、大きく口を開けて灼熱の炎を吐き出す。それが、間違いだった。
その者は炎に身体を焼きつくされたが、龍が地上に近づいたところへ、全方位から放たれた矢が空を覆い尽くした。
アドルフの開いた腔内にいくつもの矢が飛び込み、体内からアドルフの鱗を突き破った。鱗にも翼にもたくさんの矢に貫かれ、そしてハインケル将軍も無数の矢をその身体で受け止めた。
アドルフは主の指令を受けずに空へと駆け昇った。
「ぐふっ……ふはは! まさか仲間を見殺して囮にするとは見抜けなかったわ」
ハインケル将軍は口から血を吐きながら、それでもなお、笑った。
「アドルフよ、お主もそろそろキツイか。だが、まだまだ終わらんよな」
背中からハインケル将軍が声をかけると、龍は当然だ、と雄叫びを上げる。
「行くぞアドルフ、せめて勇者だけでも落とすぞ!」
その夜、一条の炎が空から森へと墜ち、空を真紅に染め上げた。