第6話 「第1章 3:わたし、いらない子なのかな」
地上で手に入れた衣服に着替え、アデルは堂々と歩いてミランダの村に入った。
これまで何度も村を訪れているアデルに、村人は笑顔で会釈してくる。よく通りかかる行商にでも思われているようだと、ミランダに聞いたことがあった。
闇の精霊の代行をする氏族として生み出された闇の氏族は、普通にしていれば地上の住人と見分けがつきにくい。
アデルのくすんだ金の髪や、カナリアの輝くような銀の髪は、地上で見かけない色であるが、田舎の村にそんな知識がないことが幸いした。珍しい色、という程度で村人は気にもとめないでいた。
アデルはゆっくりと村の中央にある広場へ向けて歩きながら、ミランダの姿を探した。
広場に人だかりが出来ていて、そこで耳を立てれば色々な話が聞こえてくる。そこで得た話は、ミランダとの会話のタネとして重要だ。魔界のことを話せない以上、こういった情報収集こそが大切だった。
村人が集まっているのは、村で唯一の掲示板の前だった。
その掲示板には村の中での連絡や国からの連絡等が張り出されるが、村人の大半が文字を読めないため、その横にはたいてい文字の読める者が立っていたり、連れてこられたりしている。
今は、村人と思われる男が、掲示の内容について語っているようだった。張り上げている声がときどき掠れるのは、ずっと叫び続けているからだろうか。
とりあえず話のタネにと、アデルはその話に耳を向けた。
「勇者として覚醒したマルス・アントーク、魔界で大活躍!」
それは魔界へと入り込んだ勇者についてであった。
「魔界で多くの魔物を倒し続ける勇者マルスが、もはや新たな魔王を倒すのも時間の問題である!」
勇者の名はマルスと言うのか。それを知ったアデルは、すぐさまその名前を忘却の彼方へと消し去った。どうでもいい人間の男の名前のためを、アデルは記憶する必要がなかった。
ミランダの姿を探そうとして歩き出しながら、勇者の話であればミランダとの会話に役立つかな、とアデルは脳内で会話をシミュレートを試みようとして──その足をピタリと止めた。
村人の会話に、ミランダの名が出てきたからだ。
「やはり勇者様はすごいんだな。もし勇者様が魔王を倒したら、ミランダはいらなくないか?」
「そうだな、魔王なんか何匹出てきたとしても、勇者マルス様がいるんだから、ずっと安心だもんな」
「ああ、そうだそうだ。星降る夜の子が、みんな勇者になれるわけじゃないんだから、ミランダはさっさと王都にでも送ってしまったほうがいいかもしれないな」
そんな会話を聞きながら、アデルは拳を固く握りしめた。
あの、愛らしいミランダを不要だと村人は言った。ミランダを悲しませるようなことを言う者を、アデルは許しておけなかった。
いくらアデルが魔王であっても、貧弱さはどうしようもなく、殴りかかってもむしろボコボコにされてしまうかもしれない。だがそれでも、アデルは許すことはできなかった。
抗議に向かおうと踏み出したアデルは、視界の端にミランダの姿を捉えた。
そんなことをしてはミランダを取り囲む状況を悪化させるだけかもしれないと、アデルは歯を食いしばって耐え、ミランダに向かって走りだした。
いつも笑顔で、楽しそうなミランダが──今日は違って見えた。
シャツは泥に塗れて元の色が分からず、その上袖が破れていた。顔や手足も泥だらけで傷だらけだった。
「──ミランダ!」
「……あ、お兄ちゃん……」
アデルが声をかけると、ミランダは力なく反応して顔を上げた
ミランダのその目は悲しみに染まっていたが、アデルを見て笑顔を頑張って作ろうとしていたが、出来なかった。
「あはは、ミランダね、いらない子なんだって。新しい勇者様が魔王を倒すから、もうミランダはいらない、って」
顔をくしゃくしゃにしたミランダが、大粒の涙をこぼし始める。
アデルはそんなミランダの前に膝をついて屈むと、そっと抱きしめると、そのままミランダが落ち着くまで、後頭部をゆっくりと撫で続けた。
「ミランダ。ミランダはいらない子なんかじゃない。俺にとってミランダはとても必要で、そして大切な子だよ。だから、いらない子だなんて言わないでくれ」
「……ありがとう、お兄ちゃん」
アデルは、ミランダが落ち着きを取り戻したのを確認すると、ゆっくりと離れた。そのまま手を取ると、少し離れた場所にある池へ向かう。
地下から湧き出るその池はいつも澄んでいて、村の重要な水源だった。
羽織っていたシャツを脱ぐと、アデルはそれを池に浸して濡らすと、それでミランダの顔を、腕を、足を拭ってやる。
何度かそれを繰り返して、ミランダの汚れを綺麗にしてやった。
「なあミランダ。俺と行くか? 俺が、ずっと守ってやる……ここにいても、辛いだけだろう」
アデルがそう提案するが、ミランダは少しだけ考えてから首を振った。
「……ありがとう、お兄ちゃん。でも、わたしはここにいる……」
ミランダは顔を上げると、アデルもそれに習って見上げた。まばらに雲が漂う、青々とした空が広がっていた。
「だって、この村はパパとママが生まれて、ずっといた村で、そしてお墓もあるの……わたしがいなくなったら、大切にする人がいなくなっちゃうよ」
「……」
「だから、ごめんね。わたしは、大丈夫だよ……」
ハッキリとした口調で言うミランダが、少し大人びて見えた。十歳とは思えないほど、ミランダはしっかりしている、とアデルは思った。
「そうか。分かったよミランダ。俺は、ずっとミランダの味方だよ。だから、何かあったらすぐに言ってくれよな。ミランダのためなら、何でもするからな」
「うん」
「本当につらそうなら、無理やり連れて行っちゃうからな?」
ちょっと意地悪に、アデルはそう言った。
「あはは、うん、分かったよ、お兄ちゃん……」
ミランダを抱きしめながら柵によりかかり、アデルはミランダの境遇を悲嘆した。
魔界の空がいつも薄暗いことを、アデルは最近知った。
魔界には太陽がなく、ただどこかにある光源が、わずかに全土を照らしている。それは闇の精霊によるものであるが、その光源がどこにあるのかは、魔界の住人の誰もが知り得ないことだった。
初めて地上に出た時、アデルは目が潰れるかと思った。薄暗さに慣れた目には、照りつける太陽の明かりは眩しすぎて、とても目を開けていられる状態ではなかった。
目をつぶりながらアデルは空を飛び、そして高い木にぶつかって落下した。ミランダとの、初めての出会いだった。
アデルの私室に設えられたバルコニーは城の中でも高い位置にあり、広かった。
生まれてから六七年見続けてきた魔界は、その様子を変えることがなかった。
目の前には荒野があり、海が横たわり、その向こうには森があり、山がある。遥か遠くの空が、赤くなっていたのが、唯一いつもと違う点だった。
手すりに腕を置き、その上に顎を乗せて、アデルは景色を見ているようでまったく別のことを考えていた。
ミランダのことであった。
なぜ、あの愛らしい少女を、地上の人間たちは蔑ろに出来るのだろう。もしかすると、光の精霊が人間を創りだした際、そういった心を付与しなかったのではないか、とさえ思ってしまう。
魔王が地上を攻めたことはほとんど無いが、地上の連中は何かと魔界を敵視し、勇者を討伐の代表として送り込んでくる。
時折、魔物やら各氏族の者たちが地上に行くことがあるらしいが、何か大きなことをしたという話は聞いたことがない。
一方的な話である。
「ここにいたのですね」
アデルの私室の窓扉を開き、カナリアがバルコニーに姿を現した。
「どうかしたのか」
カナリアはアデルの横に立つと、柵を背に寄りかかる。頭ごと背を逸らして、顔をアデルに向ける。
「アデルったら、夕飯の時間になっても食堂に来なかったじゃないですか」
死んで戻ってきたから、いつもより多く作ったんですよ、とカナリアは言う。
「ああ、そうか、そんな時間になっていたのか」
「死んで戻ってきてから、ずっと浮かない様子でしたからね。話くらいは聞いてあげますよ」
「顔には出してないつもりだったんだけどな」
「そう思ってるのは本人だけなんですよ。生まれてからずっと見てきてるのに、気が付かないわけがないじゃないですか」
そんなもんか、とアデルが言えば、そんなもんです、とカナリアが返す。
そんなやり取りが、今のアデルには心地よかった。
カナリアの母ネージュは先代の御代から魔王の侍女を勤め、そしてアデルの誕生後は乳母も務めていた。わずかに年上のカナリアは、アデルに自意識が目覚めるより前からずっと隣にいた。
アデルにとって、カナリアは姉のようにも思っていたが、カナリアにとってはそうではなかったりもする。
「ついでに言うと、愛のなせる技です」
「愛ってのは便利な言葉だな」
「違いますよ。私の愛が特別なんです」
そう言うカナリアの笑顔を見ると、なんでこいつはこんなに成長してしまったのか、とアデルは嘆くしかない。成長さえしなければ、理想の相手の一人だったに違いないのに、返す返す残念でならない。
身体を反らしているためか、女性らしい体つきの胸部が、より一層にそれを強調する。アデルにとってそれは、もはや凶器でしかなく、その膨らみが極小であれば、もしかしたらこのサイズのカナリアでも興奮出来たかもしれない、と思った。
とはいえ、そんなカナリアを想像するのが難しくて、アデルは想像してみることすら断念した。
「気は、紛れましたか?」
「そうだな、だいぶ楽になったよ」
「そうですか、それは良かった」
アデルは柵から身を起こすと、カナリアを促して私室へと向かう。
「おや、寝室へのお誘いでしたか。突然ですが、準備は出来ているので大丈夫です」
「違うよ? お腹すいたから夕飯食べたいよ、ってことだよ?」
「せっかくですから、ちょっと運動しておきましょう」
「せっかくじゃないし通り過ぎるだけだよ」
「私としては、早い所アデルの子を産みたいのですが」
「……その話はなかったことにしてくれ」
「それは母さんに言ってください。言って、納得させられるのであれば、ですが」
アデルはそう言われるとなんとも言えなくなってしまった。
魔界のどこかには、まだ闇の氏族の血縁がいるはずではあるが、それが本当にいるのか、そしてどれだけいるのかは、全くわからない。
それを危惧しているのは魔王の血族ではなく、傍流であるフィルディア家であった。
先代の魔王がいつまでも子をなそうとしないのを、その魔王に仕えた侍女であるカナリアの母ネージュが延々と説いてきた結果がアデルであるが、その轍を繰り返さないようにと、娘であるカナリアにアデルの子を産むようにと申し付けた。
アデルの育ての親でもあるネージュは、事あるごとにアデルへもずっとそう言い続けてきた。
のらりくらりとかわしつつ、きっとこの血縁はそういうことを考えないんだろうな、とさえ思い続けている。
蛙の子は蛙であり、そういう考え方をする部分が、きっと子であることの証でもあった。
「大丈夫ですよ、目を閉じて、我慢していれば終わりますから」
「それ、立場逆じゃね?」
「別に逆でもいいですよ?」
「さあ、立ち止まらずに通り抜けよう!」
アデルはベッドの前を華麗に通過しようするが、カナリアが腕をとって静止させる。
「大丈夫です、少し泣きそうなアデルを、ちょっとだけ慰めるだけですよ」
「……それを、ミランダに言われたのなら、喜んでベッドへダイブするんだがなあ」
「幼い少女に、ベッドの上で慰めを求めるとは、どれだけ変態なんですか。ああ、変態ここに極まれり、という感じですね」
「カンガエスギデスヨ?」
なんとか抑揚を殺したアデルは、カナリアを振り切ることに成功して、私室を飛び出した。
その様子を見て、カナリアは軽く微笑みを浮かべた。