第5話 「第1章 2:あの子とのお楽しみのために」
玉座の広間で一人、アデルは思案に暮れていた。
肘を立てて軽く握った拳を頬に当てた姿勢で、目は開いてはいるものの、その瞳は何も見てはいない。
身じろぎ一つせず、ただただ考え事に没頭していた。
「……そうか、それがあったな」
ようやく思索の迷路を踏破し、アデルは呟いた。
「考え事はまとまりましたか」
「どぅおっ、お前、いつの間に来たんだ」
唐突に声をかけられ、驚いて少し飛び上がり、アデルは玉座の上でバランスを崩した。
カナリアが盆を差し出すと、それに乗せられたグラスを手に取り、アデルは注がれた水を飲み干す。十分に冷やされたその水が、動きまわって熱を放ち始めた頭をいくらか冷やしてくれた。
グラスをカナリアの持つ盆に戻すと、カナリアに問われる。
「それで、何を考えていたのです?」
「ん? 次のミランダとのデートはどこへ行くべきか、という史上の命題だ」
「……」
「そろそろいい季節だからな、陽気を確認する必要はあるが、少し遠出をして湖へ行くのがいいだろうと考えたのだ」
「……」
「ふふふ、水遊びだからな、うっかりシャツが透けてしまってもそれは仕方のないことに違いない」
その光景を想像しているのか、アデルの鼻の下は伸びに伸び、だらしない表情をしていた。
それを見たカナリアは目を細める。
「それはさておき、報告がありますが、聞きますか?」
「……いい報告か?」
「良い報告もありますが、悪い報告もあります」
「そうか、聞かせてくれ」
「今晩の私は、イエスですよ」
「そうか、それはとても悪い報告だな」
「そうですか、それではもっと悪い報告をしましょうか」
カナリアは盆とグラスとをスカートの中にしまい込むと、玉座の横のいつもの立ち位置に移動した。
「件の勇者によって、ハインケル将軍が墜ちたそうです」
「……そうか、アンサム爺さんが逝ったか」
しみじみとアデルは言った。
先代の魔界統一戦争において、第一線で活躍していたアンサム・ハインケル将軍は老齢を理由に族長の座を息子へ譲った後、戦争が終わるまでは城の守りを託され、その後は正式に引退して集落へと引き上げた。
その折に魔王の子であるアデルを貧弱だとさんざん笑われた挙句に徹底的にシゴカれたが、剣を振ることすら身につかなかった。
育て甲斐がないな、と大笑いされたことを今でも覚えている。
豪放磊落とはまさに、彼の事を言うに違いないと、アデルは考えていた。
「かなりお年でしたからね。単独で勇者に挑んだそうで、まさにあの方らしい最期ではないでしょうか。ただ、それはそれとして龍の氏族は敵討ちを目論んでいるようです」
「そうだろうなあ、望んで墜ちに行ったからと言って、あの氏族が許すわけないだろうしな」
「ついでに、勇者はその後、この城に向かって進み始めたそうですよ」
「さらに悪いニュースがあったか」
「悪いですか?」
「だって、俺死んじゃうじゃないか!」
「ああ、そう言われてみればそうかもしれませんね。きっと大丈夫ですよ?」
「疑問形で言われてもな」
なんだかんだ言って、こういう時にカナリアはこっそり手を回す。アデルはそんなカナリアを知っているし、信用もしていた。だから、慌てたりはしなかった。
「どれくらいで来そうだ?」
「海を越えて来ますからね、まっすぐにこの城までたどり着くとしたとしても、どう見積もっても一月はかかるでしょう」
事前に得ていた情報から、カナリアは頭の中で素早く試算した。よほどのことがなければ、大きくズレることはないはずだ。地理に明るくはないだろうから、迷子になったり海の越え方に悩んだりすると、大きくズレることはあるだろうが。
「しばらく時間があるな。では気にせずミランダに会いに行くか」
「……危機感の全くないロリコンですね」
「危機感は常にあるが、それ以上にミランダに会いたいだけだ」
「おや、ついにロリコンを否定しなくなりましたね」
「言わせておけばいい、と閃いたんだ」
「それはロリコン、画期的ですねロリコン」
「無理やりその言葉を使うな……」
げんなりとするアデル。だがしかし、それくらいでへこたれない程度に、アデルは開き直っていた。
カナリアの冷え込んだ視線にも気付かないふりをして、アデルは玉座から立ち上がった。
「せっかくなので、今から行ってくる。留守は任せるぞカナリア」
「ちょっと待って下さい」
「何かあるのか」
「裏の畑に、水を撒くのを忘れてますよ」
魔王の城における最大の補給ポイントを、アデルはその脳裏に描き出した。
様々な野菜がたわわに実り、食事を豊かにする、この城のもっとも重要な拠点である。
「……なあカナリア。食事の支度の時に、合わせて撒いたほうがよくないか?」
「アデルがお腹を空かせて待っているというのに、そんなことをする余裕はありませんよ」
「子どもじゃないんだから、それくらいは待つぞ」
「そもそも、水撒きはアデルの仕事ですよ。魔王なんですから、きちんとやってください」
「魔王の仕事が水撒きみたいに言わないでくれ」
「とても重要な、魔王にしかできないお仕事です。やりたくないと言うなら、私が食べているのをただ水だけ飲みながら見学することになりますよ」
「──そうだな、水撒きは魔王の仕事だよな!」
速やかに前言を撤回して、アデルはいそいそと裏庭の畑へと向かっていった。
甲高い音を立てて広間の扉が閉まるのを待って、カナリアはゆっくりと玉座へと座る。
いつものようにアデルの体温が残ったそれは、カナリアにとって至福の時間である。誰にも邪魔の許されない、カナリアだけの時間だった。
「ふふふふ、アデルの体温……温かい」
アデルとカナリアの体温が溶け合ってから、カナリアは指を弾いて音を鳴らす。
だが、現れるべき影が現れることはなかった。
「……ミランダ・コーネル……煩わしいガキだ。どれだけ、私の邪魔をする気だ」
苛立たしく、カナリアは吐き捨てた。
アデルがいつ戻ってもいいように、自分は城を離れるわけにはいかない。だからこそ闇の氏族に伝わる術で魔物を使役している。ミランダも、魔物も、アデルとカナリアを邪魔する全てが、煩わしくて仕方がなかった。
カナリアは改めて指を鳴らし、別の魔物を呼び出した。
前に使っていた魔物よりは小型の、より人間に近い姿をした魔物であった。
「お呼びでしょうか」
恭しく胸に手を当て、頭を下げながら魔物は主に答える。
「貴様は、我が命を果たせるか?」
「もちろんでございます。前任のような情けない者を超える働きをご覧に入れましょう」
「良かろう。ならばすぐに地上へ向かい、ガキを一人、始末してこい」
「かしこまりました。吉報をお待ちください」
頭を下げた姿勢のまま、魔物は影の中に消えていった。
「手駒がずいぶんと減ってしまったか。仕方がない──アデルがいない間に、補充しておきましょう」
アデルの名を口にした瞬間、凍りついた表情を溶かし、カナリアはゆっくりと玉座から立ち上がった。