金魚鉢の金魚は外の世界を知らない
不器用シリーズ。今回で短編は一体何作目なんだろう。
ぽつん。ぽつん。今日も、水槽にその茶色くて丸いものを落とす。ゆっくりと沈んでいった玉たちの、数個は途中で小さな闇に飲み込まれる。俺はもう、何ヶ月もその闇に生かされ続けている。俺は、この教室でたった一人の金魚の飼育係だった。
将来に対する保証も無いのに、周囲の期待にこたえる程度には頑張らなくてはいけなくて、そのくせ何の変化も無い日常が嫌いだった。普通に教室で過ごしているのに普通に100点が取れてしまう、しかもそれが出来るのは自分だけと言う、そんな世界が気味が悪かった。たいしたことない人間と話しても楽しく無いだろうに、笑顔を貼り付けて話かけようとする同級生が怖かった。高校生と言う中途半端な身分では、俺が確かなものとして手の中に持てるものは、金魚の世話という役割だけだった。一日一回餌をやるだけの、小さな仕事だ。
誰が決めたわけでもない。はじめは誰と決まっていたわけでも無い。ただ、自然な流れでみんな真新しい、小さな命と言うおもちゃに飽き離れていっただけの話で。俺は、何となくその小さな闇に茶色の玉が吸い込まれて行く光景が好きだったから餌をやる頻度が高かったのかもしれない。いつのまにか、教室の中では金魚の餌やりは俺の仕事のようになっていた。いつしか、毎日学校に行く理由がそれになった。俺は中学までは出席日数ギリギリを走り続けるタイプだったのだが。
金魚の世話をするようになって、別段普段の生活に色がついたわけでもなかった。ただ、やっぱり金魚たちが餌を食べるという光景を水槽の上から眺めているのは好きだった。そんな色の無い日々が三ヶ月続き、夏休みに入った。俺は、変わらず毎日金魚に餌をやりに学校に来ていた。
彼女――三森円という――が教室の花に水をあげるために毎日学校に来ていると知ったのは、夏休みに入って一週間たった日のことであった。俺はその日、金魚鉢の掃除を行っていたため普段よりも長く学校に留まっていた。
「あれ、武本君」
またこの人も笑顔を貼り付けてくるのか、そう思っていた。ところが、予想していた表情とは違いその瞳は見開かれ、口はだらしなく開いていて僕は少し驚いた。おまけに走って来たのか、少し髪も乱れている。けれど不思議と不快感はなかった。その瞳がにサッと逸らせれると、頬を真っ赤にしてポツリと言葉をつむぎだす。
「誰かいるなんて思わなかったから……ヤダ」
そういって乱れて落ちた後れ毛を耳にかける。どくん、どくん。なぜだろう、いつもより少しワクワクしていた。もっと会話したい。俺が不快な気持になどなっていない事を伝えたい。気がつくと俺は三森に、自然に声をかけていた。
「言うほど酷くない。三森さんも、役割?」
「役割?」
「花に水、あげてた。俺は、金魚鉢の掃除」
三森は何かを考えているようだった。そして、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始める。
「役割って言うか。夏休み明けに学校に来たときにこの花が枯れてたらやだなって思って」
俺は驚いた。たったそれだけのために、彼女は汗をかいて、髪を振り乱してここまで来たのだろうか?
「たぶんね、私が来なくてもきっと誰かがここに毎日来ていたと思うんだ。武本君もいたし。金魚のついでに水あげててくれたんでしょう」
それは俺ではなかった。きっとそれは、夏休みに部活のある野球部員だったかもしれないし、補習の残っている女子生徒だったかもしれないのだった。だが俺ではなかった。その事実を伝える勇気が、言葉が出なかった。金魚しか見えていなかった自分が恥ずしかった。三森は沈黙を肯定受け取ったらしい。
「こんな小さな命でも、誰かが気にかけている。でも、誰かが気にかけてるんなら特別に自分がしなくてもいいからしないだけで。世の中ってそんなものだと思うんだよね。って、何か変なこと言っちゃてる」
そういってはは、と笑った三森はその後すこし赤くなって何も言わなくなってしまった。俺は三森の言葉に驚いていた。教室での自分の役割など誰でもできるものであったと、そう自覚させられた気がしていた。そう、金魚の餌やりなんて誰でも出来る。ただ、俺が勝手に自分の仕事にしていただけで。
「俺さ、こいつらに生かされてたんだ」
金魚鉢を洗う手と連動するように俺の口は動きはじめ、気が付くとそんなことを話していた。
「毎日つまんなくてさ。中学まではあんま、学校とかもサボりがちだった。でもこいつらいるって思ったら何か毎日学校来てたんだよな」
三森は花の葉の枯れた部分を取り除く作業をしていたが、手を止めてこちらを見る。その表情は読めないが、俺の話に耳を傾けてくれているらしい。今まで、他人と話すときにちゃんと伝わっているかとか、そいつが興味を持てる内容であるかばかり気になって、焦りや不安ばかり生まれていたのに、俺は今とても自然な状態で会話しているように思えた。
「つまんないとか。武本君とは縁遠いと思ってたな」
俺を見つめていた視線を落とし、三森はポツリとそう言った。そうだろうか? 俺はむしろ、その感情とともに長く生活してきたせいで馴染み深いのだが。三森が一度下ろした視線を上げると、もうその眼は先程とは違う色を宿していた。
「だって、私から見たら羨ましい。テストはいつも満点、クラスの人に慕われるほど人当たりもよくて、顔もよくて、スポーツもそれなりにできて、その癖皆が面倒くさがる金魚の世話もしてて、さ。そんな仏みたいな人がいるんだって、そう思ってたの。私はそう、思ってたんだよ……」
三森の声は始めは嫉妬の色、そして徐々に寂しそうな声へ変化した。ああ、これはあれだ。何度か同じ状況に遭遇した事があったため、俺はすぐにわかった。またうっかりクラスメイトの夢を壊してしまったようだ。
俺は、俺をとりまく環境はとにかく恵まれていたらしい。幼い頃から、両親に愛され、友達に恵まれ、常に他人の目に晒されながらも高い評価を得続けていた。三森の言うことは、他人からの俺への評価の全てだった。だが、それは特別な努力をして得たものではなかったためか、俺にはどうして愛されるのか、どうして好かれるのか、どうして評価されるのかが全くわからなかった。それを他人に言ってしまうと、顰蹙を買う事実であることもわかっていた。三森も、俺にがっかりしたのだろうか。そう思っているのに、何故か次に三森がどういう反応を示してくるのかワクワクしている自分がいた。
「ごめん」
ただし、三森の気持を裏切ったのは間違いない。俺が今ワクワクしている事と、これは別の話だ。俺は素直に謝った。すると三森はまた表情を変えて、今度は少し焦っているようだ。
「ちがうの。そうじゃなくて。えと、私が言いたいのは、武本君のこと思ってる人は沢山いるんだよって、そういうこと……」
どういう意味だろうか。どうやら三森は言葉を選んでいるようなので、俺は待つことにした。
「この花も、金魚もね。私とか武本君に気にかけてもらえるでしょ。それと同じなの。ううん、ちょっと違うな。そう、誰でも誰かが気にかけてくれてる。武本君も。むしろ、武本君は沢山の人が気にかけてくれてるんだよ。自分ではわかんないかもしれないけど、武本君って凄い人なんだよ」
「でも俺はただ、餌をあげるだけの行動を自分の役割にしていただけで」
「ちがうよ! だって、じゃあなんでそれ洗ってるの。放っておいたら金魚が死んじゃうって、それは悲しいってそう思うからでしょう」
水槽はいつも先生が洗っていた。俺の役割ではなかった。ああそうか、俺は金魚たちが死ぬのは嫌なのだ。毎日見ていたこの小さくていつも口をパクパクさせている生き物がいなくなってしまうと考えると、寂しいのだ。知らぬ間に、俺は金魚たちに執着が生まれていたのだ。
「そうみたいだ」
何だか泣きそうになるのをこらえて、微笑んでみる。三森は、はっとしたように弁解を始めた。
「ごめん、また変なこと言ってる。ただ、皆武本君のこと好きだから、つまんないとか言わないで欲しいなってそう思って」
三森も俺を好きでいてくれるのだろうか。そう考えると、何となく気分が落ち着かなくなった。手元を見ると、金魚鉢は綺麗になっていた。前日から用意していた日光に当ててカルキを抜いた水を入れ、金魚たちを放ってやる。気持良さそうに泳ぐ姿に愛しさがわいてくる。三森も、花の手入れが終わっていた。
「三森はさ。部活とかしてないの」
「してないよ」
「じゃあ夏休みはずっと花の世話?」
「そう」
「そっか。毎日会えるな」
そういった瞬間、三森は赤面した。俺はなぜ赤面するのかわからず、今のやり取りを遡ってみる。何故か、首から上が熱くなるのをかんじた。いかん、このままではのぼせてしまう。人を好きになるのなんて初めてだったので、セーブが利かなかったようだ。
「火照った頭を冷やしたいので、白熊を食べに行きませんか、三森さん」
もうこの際だ、恥ずかしいことを言っても状況は変わらないだろう。恥ずかしさに耐え切れず目線は逸らしたけれど、俺は素直な気持を吐き出す。
「武本君って……。いや、何でもない」
そういって、また顔を伏せた三森の耳が赤い事に俺は気づいていたが、何も言わなかった。俺が歩き始めると、三森はその後ろに黙って付いてきた。俺たちは綺麗になった住みかで泳ぐ金魚たちに餌を与え、教室を後にした。
人は自分で思ってるより、他人に思われて生きています。
当たり前の事過ぎて、時に見失いますが、必ず誰かが気にかけてくれているのです。
三森は、ここではあまり明らかにしてないですが教室では浮いてる感じの子です。物語の中でもその深い思考パターンが表現されているように、ちょっと“変な”ことを口走ってしまうので…。
でも、いいこなんですよ!