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『お前のような感情のない令嬢を妻にした覚えはない』──婚約破棄された私は、願いを叶えるたび命を削る公爵様に、最後の願いを贈りに参ります

作者: 夜摩 高嶺
掲載日:2026/05/19

「ノエル・ヴェルディエ嬢、貴様との婚約はここに破棄する」


 王城の大広間。婚約者であるアルベール・ボワローの声が、白い天井に反響した。


 私は静かにスカートの裾を持ち上げ、礼の形を整えた。


 彼の周囲には、いつも通り、暗い赤の靄が滲んでいる。憎悪と侮蔑が綯い交ぜになった、私のよく見知った色。三年前、十四歳の婚約発表の日からずっと、彼の色はこれだった。


「理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」


 何の感情も滲ませないまま、たずねた。


「貴様には心がない。氷の人形のような顔で、夜会でも一切笑わぬ。そんな女を妻にするなど、私の格に関わる」


 アルベールの背後で、令嬢が一人、勝ち誇った微笑を浮かべている。彼女の周りは、燃え盛るような橙色――欲望と、勝利の確信の色だ。


 私は、ふと、左手の薬指の婚約指輪に目を落とした。


 なぜ笑わないのかと、彼は問うた。三年間。


 私が、知っていたからだ。


 彼の本当の願いが、最初から最後まで、私の処分を求めて止まなかったことを。



 ヴェルディエ侯爵家には、代々一人だけ「色を視る者」が生まれる。


 人の願いが、その背に色となって現れる。喜びは金。慈愛は薄青。憎悪は赤。欲望は橙。哀しみは群青。色は嘘をつかない。どれほど美しい微笑の裏でも、どれほど慇懃な礼の最中でも、その人間が本当に望んでいるものを、私は色として見てしまう。


 幼い頃、私はよく笑う娘だった。


 それを覚えているのは、たぶん、私自身ではなく乳母だけだ。能力が芽吹いた七つの冬、屋敷を訪れる者たちの色を見て――私は笑うことを忘れた。優しく菓子を差し出す侯爵夫人の背に滲む紫の色。賛辞を述べる老紳士の背に揺れる濁った緑の色。世界は、口元と背後で別の言語を話していた。


 笑えば、見えていることを知られる。


 知られれば、私は道具になる。


 侯爵家の末娘は、十歳で表情を捨てた。氷の人形と呼ばれるようになるまで、そう時間はかからなかった。


 婚約者となったアルベール・ボワロー伯爵令息の背に、最初から赤が滲んでいたことを、私は誰にも言わなかった。言ったところで、誰も信じない。両親でさえ、私の能力を「便利な眼」としか思っていなかった。


 だから、断罪の場で粛々と頭を垂れたとき、私は不思議なほど凪いだ気持ちだった。


 三年間、毎日見ていた赤が、ようやく形になっただけのこと。


「異議はございません」


 私はそう告げて、優雅に踵を返した。背後で、橙の令嬢がくすくすと笑う声がした。


 大広間を出る扉の手前で、ふと、足が止まった。


 人垣の一番後ろに、一人だけ、色を持たない人間が立っていた。



 無色。


 それは、私がこの十年で一度も見たことのない現象だった。


 人は必ず何かを願う。生きていれば願う。眠っていてさえ、夢のなかで何かを求める。色がないということは、その人間が、何ひとつ望んでいないということだ。


 私はその人物を、しばらく見つめてしまった。


 黒の正装に身を包んだ、痩せた若い男性だった。年の頃は二十代半ばだろうか。淡い銀の髪が、シャンデリアの光を弱く返している。顔色は紙のように白く、頬は削げ、目の下には深い隈があった。彼は壁に背を預けるようにして立ち、けれど誰の視線も集めていなかった。誰も、彼を見ていないようだった。


 その目が、ふと、私に向いた。


 灰青の瞳と目が合った瞬間、彼はわずかに眉を上げた。


 驚いた、というふうだった。


 何に。


 私は彼から視線を外し、何事もなかったかのように大広間を辞した。


 その夜、屋敷に戻った私は、書庫の隅で父からの呼び出しを待った。


 ボワロー家からの婚約破棄は侯爵家にとって痛手だ。父は私を責めるだろう。覚悟はしていた。けれど、父が現れる前に、屋敷の執事が一通の封蝋を持ってきた。封蝋の紋章は、見覚えがあった。


 レヴァリエ公爵家。


 王家に次ぐ名門。当代の当主は、若くして爵位を継いだばかりの、噂ばかりが先行する人物。


 開いた手紙には、たった一文だけ書かれていた。


『あなたは、何を視ましたか』



 レヴァリエ公爵家の別邸は、王都の外れの、樫の森に囲まれた静かな館だった。


 応接間に通された私は、暖炉の前に立つ当主と対面した。


 エリオ・レヴァリエ公爵。


 昼の光の下で見ても、彼の周囲は無色のままだった。


「お招きいただき、光栄に存じます」


 私は型通りに礼を述べた。公爵はゆっくりと振り返り、私に椅子を勧めた。動作のひとつひとつが、ひどく緩慢だった。


「単刀直入に伺います、ヴェルディエ嬢」


 声は、思いがけず澄んでいた。


「あなたは昨夜、私を見て、足を止めた。あの広間で私を直視した人間は、十年ぶりです」


「直視、でございますか」


「ええ。私はね、ヴェルディエ嬢――他人から、見られない呪いを持っているのですよ」


 私は、初めて瞬きをした。


「正確には、見ても、誰の記憶にも残らない。私が部屋にいると、皆そこに気配を感じない。声をかけても、すぐに忘れる。私の存在は、人にとって、霧のようなものなのです」


 なぜ、と問おうとして、彼が先に答えた。


「願いを叶える呪いです」


 暖炉の薪が、低く爆ぜた。


「私の家系には、代々、人の願いを叶える呪いが流れています。誰かが心の底から何かを願うと、私の命を削って、それが叶う。私自身の意思は関係ない。だから、長く生きた当主はいません。父も、祖父も、三十を待たずに亡くなりました」


「……それと、見られないことと、何の関わりが」


「皆が、私に願ったのですよ」


 公爵は薄く笑った。痛ましい笑いだった。


「『この方の前で失敗したくない』『この方に煩わせたくない』『この方に、見られたくない』。社交界で交わされた数えきれない願いが、すべて私から人を遠ざける方向に作用した。気がつけば、私は誰の目にも映らなくなっていた」


 私は、彼を見つめた。


 無色の意味が、ようやく分かった。


 彼が何も願っていないのではない。


 彼の願いは、彼自身に許されていないのだ。願えば、誰かの命でなく自分の命が削れる。だから彼は、何ひとつ望まないことで、辛うじて生き延びていた。


「では、なぜ私を呼ばれたのですか」


 公爵は、ゆっくりと答えた。


「あなただけが、私を見たからです」



 それから三月のあいだ、私はレヴァリエ公爵家に通った。


 口実は、能力研究の共同調査ということになっていた。父は乗り気だった。婚約破棄で傷ついた娘が、公爵家に拾われる――父にとっては、これ以上ない好機だった。


 私は、公爵に色のことを話した。


「あなたの周りには、本当に、何の色もありません」


 茶器を挟んで、私はそう告げた。


「願ってはならぬと、長く己を律してこられたのですね」


「そう言われたのは、初めてです」


 エリオは、わずかに目を伏せた。


「私はただ、自分の願いが他人の願いと等しく重いことを、認められなかったのですよ」


 私は、その横顔を見た。


 頬の削げた、若い男性の横顔。生家の呪いを背負わされ、誰にも顧みられぬまま命を削られてきた人。彼の手首は、私の手首よりも細かった。


 不意に、自分のなかに、見覚えのない感情が立ち上がるのを感じた。


 それが何の色をしているのか、自分のものだから、私には視えなかった。



 三月のあいだに、私はいくつかのことを知った。


 エリオは、咳をするひとだった。


 ある日の午後、私が訪ねたとき、彼は応接間の窓辺で背を丸めて咳き込んでいた。手巾を口元に当てた指のあいだから、薄く血の色が覗いていた。私は無言で歩み寄り、彼の隣に立った。


「お見苦しいところを」


 エリオは慌てて手巾を懐に仕舞い、いつもの薄い笑いに戻った。


「どなたかが、今、何かを願われたのですか」


 私は、たずねた。


「ええ。下働きの娘の一人が、母の病が癒えますように、と。叶ったでしょう、たぶん」


 それで彼の命が、また削れた。


 私は、自分でも思いがけない動作で、彼の袖口に指を触れた。布越しに伝わる手首の細さに、初めて、私の指が震えた。


 エリオは、その指を見下ろし、それから私の顔を見た。


「ノエル嬢、ひとつ伺っても?」


「はい」


「あなたの背には、今、どんな色が?」


 私は、答えに詰まった。


「視えません。自分の色は、自分には」


「では、私には視えるのでしょうか」


「あなたには、もしかすると」


 エリオは、しばらく私の背の向こうの空間を見つめていた。やがて、彼は静かに首を振った。


「私には、色を視る眼はありません。けれど――もしも、いつか、私にあなたの色が視える日が来るのなら、それはきっと、あなたが何かを願ってくださった日なのでしょうね」


 私は、答えなかった。


 答えれば、それが願いになってしまう気がした。


 別の日、私たちは樫の森を歩いた。


 エリオは長くは歩けなかった。途中で何度も足を止め、息を整えた。そのたびに、私も足を止めた。森のなかは、静かだった。鳥さえも、彼の周りでは囀ることをやめているように思えた。


「呪いを、解こうとは思われなかったのですか」


 私は、たずねた。


「思いました。父も、祖父も、解こうとして、果たせませんでした」


「解く条件は」


「家伝書には、こう記されています。『誰かが当主のために、心の底から願ったとき』。そして、その願い手は、当主を本当に視ている者でなければならない、と」


 エリオは、樫の幹に片手をついて、私を振り返った。


「十年、私は誰の眼にも映らずに生きてきました。条件は、永遠に満たされぬものだと、私は諦めておりました」


 その目を、私は受け止めた。


 森の木漏れ日のなかで、彼の周囲は、やはり無色のままだった。



 ボワロー家の動きが慌ただしくなり始めたのは、その頃のことだった。


 社交界の噂は、私の耳にも入っていた。アルベール・ボワロー伯爵令息と、彼の新しい婚約者となった令嬢が、王太子殿下のお気に入りに取り入ろうと躍起になっている、と。けれどそれは、表向きの噂に過ぎなかった。


 私は、断罪の場でひとつだけ、忘れずに視ていたものがある。


 王太子殿下付きの侍従の背に滲んでいた、深い深い群青。


 哀しみと、長年の屈辱の色。


 群青はあの夜、アルベールが私を罵る声に同調するように、わずかに揺れていた。あの侍従は、ボワロー伯爵令息の長年の悪行を、知っていた。証拠を持っていたのかもしれない。けれど立場上、口にできなかった。


 私は、その侍従に、たった一通の手紙を出した。


『あなたが本当に告発したい相手の、不正の証拠の在り処を、私は偶然知っております』


 それだけ。


 証拠の在り処は、ボワロー家の最後の夜会で、橙の令嬢が一度だけ口を滑らせた場所だった。彼女は自分の勝利を誇示したくて、私の眼の前で、それを言った。氷の人形は何も聞いていないと、信じていたから。


 ひと月後、王太子殿下の私室から、機密文書を持ち出そうとした現場が押さえられた。


 裁定の日、私は王城の控えの間にいた。父に同行を命じられたのだった。広間に通じる扉が一度だけ開いたとき、私は遠目に、捕縛されたアルベールの背を視た。


 赤が、消えていた。


 赤の代わりに、暗い緑が滲んでいた。


 恐怖と、遅すぎる後悔の色。


 私は、何の感慨も覚えなかった。三年間、毎日見ていた赤が、ようやく別の色に変わった、それだけのこと。


 橙の令嬢は、修道院送りになった。死罪を免れたのは、若年と、家の取り潰しを理由とした寛大な裁定によるものだった。馬車で連行されていく彼女の背を、私は屋敷の二階の窓から見送った。


 橙は、灰色に変わっていた。


 望みを失った者の色だった。


 私の指は、もう震えていなかった。


「あなたは、恐ろしい人だ」


 その夕暮れ、公爵邸の応接間で、エリオは静かに言った。けれどその声に、咎める色はなかった。


「あなたは、ひとつも願わないまま、人を動かす」


「願えば、誰かが傷つきますもの」


 私は微笑まずに答えた。


「あなたと、同じです」


 エリオは、しばらく私を見つめていた。それから、彼は、初めて私の手を取った。


「ノエル嬢。私は、あなたと同じ場所に立っている人間に、初めて会いました」


 その手は、冷たかった。


 けれど、十年ぶりに、誰かの手が、私を視ているものとして触れていた。



 その月の終わりに、私は別の家に嫁ぐことが決まった。


 ヴェルディエ家は、ボワロー家の取り潰しで生じた領地の調整に巻き込まれ、北方の辺境伯家との婚姻同盟が必要になった。父が私の前で頭を下げることはなかったが、母は一度だけ、私の自室を訪れた。


「ノエル」


 母は、寝台の縁に腰を下ろし、私の手を握った。


「お前は、笑わぬ娘だったね」


「ええ、母上」


「あちらの家では、笑えるように、なるかもしれない」


 母の背には、淡い薄青が滲んでいた。慈愛の色。


 私は、その薄青を、長いあいだ見つめた。


 十年前、七つの私が能力を得て、最初に視たもののひとつが、母の薄青だった。あのとき、母の薄青は、今よりずっと淡かった。それは慈愛というには、頼りなく、遠かった。


 私は、十歳のある夜のことを、不意に思い出した。


 その夜、私は自室で泣いていた。誰の色も視たくないと、寝台に潜って泣いていた。そこに、母が来た。母は、私の頭を撫でた。何も言わずに、ただ撫でた。


 そのとき、母の背の薄青が、初めて少しだけ濃くなったのを、私は視た。


 母は、たぶん、知っていた。


 私が「視ている」ことを。


 知りながら、何も言わなかった。何もできなかった。母自身もまた、侯爵家の妻として、口にできない言葉をいくつも抱えていたのだから。


「母上」


 私は、十年ぶりに、母を、母として呼んだ。


「わたくしは、十年前、母上の薄青を、本当はきれいだと思っておりました」


 母は、息を呑んだ。


 それから、私の手をきつく握って、ゆっくりと頷いた。母の薄青は、その夜、私が視た中で、いちばん濃かった。


 ひとつだけ、私が叶えられなかった願いがあるとすれば、母をもっと早く、こうして見つめ返すことだったのだろう。


 母が部屋を辞してから、私は、最後にレヴァリエ公爵邸を訪れることにした。



 別邸の応接間で、エリオは私を待っていた。


 私の婚姻のことは、すでに伝えてあった。彼は、何も言わなかった。引き留めることも、惜しむことも、しなかった。


 それが、彼の優しさだと、私は知っていた。


 彼が私を引き留めたいと願えば、彼の命が削れる。あるいは私の縁談が、不自然な形で破談する。彼は、私のために、自分の願いを封じていた。


 茶を、二杯。会話は、ほとんど天気のことだった。


 日が暮れ始めた頃、私は立ち上がった。


「では、公爵様。長らくの、ご厚情に」


 礼をした。エリオも、立ち上がった。


 無色の彼を、私は最後に一度、まっすぐに見た。


「ひとつだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


 私は、声を、ほんの少しだけ落とした。三年間アルベールの前で保ち続けた、感情のない声から、ほんの一段だけ。


「あなたが、いつか、初めてご自分のためにお願いになる日が来ることを――わたくし、ずっと、お祈り申し上げておりました」


 エリオの灰青の瞳が、揺れた。


「それが、わたくしの、生涯ただ一つの願いでございます」


 言ってしまった、と思った。


 私は、生まれて初めて、自分のために何かを願った。


 私の能力は、自分の色を視ない。けれど、その瞬間、応接間の窓硝子に、私の背後がうつった。


 私の背に、白い色が、滲んでいた。


 無色ではない。すべての色を、その奥に抱えた、白。


 エリオが、息を呑むのが分かった。


 そして、彼の周囲にも、ゆっくりと――それまで一度も視たことのなかった色が、ひと筋、立ち昇った。


 淡い、暁の金色。


 喜びの色だった。


「ノエル」


 彼が、私の名を呼んだ。十年ぶりに、誰かに私の名前を呼ばれた気がした。


「私は今、生まれて初めて、自分のために願いました」


 灰青の瞳から、一筋、雫が落ちた。


「あなたを、私の妻にと」


 その瞬間、私の薬指の指輪――三月前、形だけの婚約者として、エリオが渡してくれた銀の指輪が、ひどく温かくなった。


 呪いが、反転したのだと、私は後で知った。


 レヴァリエ公爵家の呪いは、誰かが当主のために心の底から願ったとき、初めて当主自身の願いを叶える形へと裏返る。けれど、その「誰か」は、当主を本当に視ている人間でなければならなかった。十年ものあいだ、それは現れなかった。


 辺境伯家との縁談は、その夜のうちに白紙となった。父からの抗議の書状は、公爵家の権力の前にあえなく退けられた。半年後、私は正式にレヴァリエ公爵夫人となった。


 笑うことを、私は少しずつ思い出していった。


 最初に笑ったのは、結婚式の朝。


 夫の背に立ち昇る、まばゆい暁の金を見たときだった。


 その日、母は、わたくしの嫁ぐ姿を見て、初めて涙を流した。母の薄青は、ついにわたくしが見たことのない、深い空の色になっていた。



 人の願いは、色を持つ。


 それは時に醜く、時に哀しく、時に救いがたい。


 けれど、たったひとつ、自分の願いを言葉にしたあの夕暮れに――


 わたくしは、初めて、自分の色を、白く視たのです。

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