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酒蔵の娘

作者: 津村舞
掲載日:2025/11/07

現代

短編 or ショートショート

ヒューマンドラマ

ダーク

どんでん返し

その女性はある酒蔵の娘として産まれ、大切に育てられた。


その女性というのは私の「母」である。「母」は幼き頃からたくさんの大人と接する機会にあった。酒蔵の主人は臨時的にやってくる多くの者や長く蔵で苦楽を共にしている者、様々な人間を束ねる事になるからだ。


主人、つまり祖父は朝も早ければ夜も遅いので家庭には居ない事が多い。もっとも職場の蔵は家なので、物理的には近くにいるが家庭には居ない。その矛盾を従業員が埋める事になる。酒蔵の子は従業員という大人が面倒をみる事になる。そして従業員の子もまた。


移り変わりの激しい簡易幼稚園の子は、同年代の子供より大人と多く接する。いついなくなるかわからない同年代の子供よりも自然と大人との接点を求めるようになる。


そうやって子供たち、特に酒蔵の子は大人との接点で、大人の束ね方、接し方を学んでいく。


「母」の人格形成が終わるであろう十代の後半まで、酒蔵は揺りかごとして続いた。


そして、潰れた。


祖父が倒れたのだと聞いた。後継ぎもなく、酒蔵は廃業した。それまで蔵にいた大人達は次々と職を失い、生活に困窮し、家族が離散していったらしい。「母」は彼らを一人ずつ訪ね歩いたという。


「この可哀想な人達を見てられない。私は可哀想な人達を見ると居ても立っても居られない。どうしても助けたいんだ」


「母」はそう言って、福祉の道に進んだと聞いている。


私が物心ついた頃には、「母」の名前は既に知られていた。地域紙に載った。困窮する人々への支援活動が評価され、「母」の写真と共に記事が掲載された。やがて全国紙でも取り上げられるようになった。テレビのニュース番組で「母」を見た事もある。画面の中の「母」は柔らかく微笑んで、困っている人々に寄り添う活動について語っていた。近所の人達は「立派なお母さんで」と言った。学校の先生も「お母さん素晴らしいわね」と言った。


家のリビングには感謝状が飾られていた。表彰状も増えていった。「母」宛の礼状が毎週のように届いた。「母」はいつも忙しく、家に居る事は殆どなかった。


私は「母」が夕食を一緒に食べられない事を、仕方ないと思っていた。学校行事に来られなくても、誕生日を忘れられても、それは「母」が大切な仕事をしているからだと理解していた。私は困ってはいなかった。淋しくても我慢できた。だって「母」は立派な事をしていると信じていたから。


ある日の午後、玄関のチャイムが鳴った。私が高校生になった年の春だった。


ドアを開けると、四十代くらいの男性が立っていた。小柄で、少し猫背で、申し訳なさそうに頭を下げている。


「あの、こちらに津村さんという方がいらっしゃいますでしょうか」


「母」の旧姓だ。仕事では今もその名前を使っている。


「はい、母ですが」


「実は十年ほど前に、お世話になりまして」


男性は深々と頭を下げた。目に涙を浮かべている。


「あの時、仕事を失って本当にどうしようもなくて。でも津村さんが手を差し伸べてくださって。今は仕事も見つかりまして、家族とも暮らせています。本当に感謝していると、お伝えいただけますでしょうか」


男性は長谷川と名乗り、丁寧に包装された菓子折りを渡して帰った。私は少し温かい気持ちになった。「母」は本当にたくさんの人を助けているんだ。


その日の夜、珍しく「母」が帰宅した。書類の束を抱えて玄関に入ってきた。疲れた様子だった。


「お帰りなさい」


「ただいま」


「母」は書類をテーブルに置いて、ソファに座った。


「お母さん、今日長谷川さんっていう人が来たんだよ」


「長谷川?」


「母」は書類を見たまま答えた。


「十年前にお母さんに助けてもらったって。すごく感謝してて、わざわざお礼を言いに来たの」


「母」は顔を上げて、少し首を傾げた。眉を寄せて記憶を探るような仕草をしたが、すぐに諦めたように首を振った。


「ごめん、覚えてないわ」


まぁたくさん助けてきたから仕方ない。私はそう思った。


「仕方ないよね」


私は笑って言った。


「ソレよりその人、なんか言ってなかった?」


「母」が聞いた。


「え?」


「困ってるとか」


「いや、特には。今は仕事も順調だって言ってたよ」


「そう」


「母」の声のトーンが少し落ちた。


「本当に?」


声が変わった。少し高くなった。


「生活面とか」


「うん」


「家族関係とか」


矢継ぎ早に聞いてくる。


「健康面とか、何か」


さっきまでの疲れた様子はどこかに消えていた。身を乗り出すようにして、私を見ている。


「言ってなかったよ。本当に幸せそうだった」


「...そう」


「母」は再び書類に目を落とした。もう興味を失ったように。


私は気づいた。


「困ってるとか」と聞いた時の「母」の声の変化に。矢継ぎ早に質問を重ねた時の、あの身を乗り出すような態度に。そして「幸せそうだった」と答えた瞬間の、あの落胆に。


本来なら、かつて助けた人が訪ねてくるということは、また何か困っている可能性を考慮するのは当然の事だった。だから「母」の質問は自然なものだったはずだ。


でも「母」の目は、期待で輝いていた。深刻な話かもしれないのに。人が困っているかもしれない話なのに。


「母」が言ってる「困ってる人を助けたい」の意味は、「困ってる人」を助けたい、だったんだ。


「困ってる人」じゃなくなったら、もう見えない。「母」の目から消える。

だから長谷川さんの名前も知らない。

そして、「母」は私を一度も見ない。


私は人助けする「母」を信じていたから、淋しくても我慢できた。困ってはいなかった。だって「母」は立派な事をしていると信じていたから。


でも。

きっとこれからは私は「母」の目にうつるんだろう。

だって私はもう「母」を知ってるのだから。

読んでくれてありがとうございます✨

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