第4話 言語学トーク
「友になってくれるのはありがたいが、お前たちの時間を奪うわけにはいかない。十日に一度でなくてもいい。来られるときに来てくれればそれでワシは満足じゃ」
おじいさんは目に涙を浮かべながらそう言う。
「そういえばおじいさん、名前はなんていうの?」
「クガネと言う。お前たちは何と言うんじゃ?」
「オレはショウ」
「私はレイよ」
「ソ?レ?」
昔の人には発音が難しかったようだ。
「ああ、まあ、ソでもいいよ」
「私もレでいいわよ」
「上手く言えなくてすまないな」
申し訳なさそうに言うおじいさん。
「いやあ、オレらの時代、じゃなくて、オレらの故郷では変な名前が多いんだ」
「言葉というのは地によっても時によっても変わるものじゃからのう」
「え、おじいさん今何て?」
レイが身を乗り出しておじいさんに質問する。
「言葉は地によっても変わるし時によっても変わると言ったんじゃ」
「どうして時によっても変わるって分かったの?」
「ワシの子どものころとは話し方が変わったからじゃ」
「具体的にどういうふうに変わったの?」
レイの質問攻めに若干引き気味になりながらも答えてくれるおじいさん。
「そうじゃのう、ワシが小さい頃の年寄りは、たしか『となり』の『と』と『とり』の『と』を違う音で言っておった」
「どんな音だったか覚えてる?」
「うーむ……よく覚えとらんが、たしかに違う音じゃった」
目をキラキラさせながら話を聞くレイにオレは話しかける。
「あの、これはそんなに面白い話なの?」
「当然でしょう、忘れたの?私たちは言葉の歴史を記録しに来たのよ。これだけ貴重な音変化の歴史の証言を興奮せずに聞いていられるわけがないわ!」
レイの喜びようは、新しいおもちゃを手にした子どものように見えた。
その晩は当時の日本語のことも含め、おじいさんといろいろな話をした。ずっとひとりだったおじいさんは、久々に誰かと話すことができてとても嬉しそうだった。言葉は人と人とをつなぐもの。話し相手がいなければ言葉が話せても意味がないのだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翌朝、背中の痛みで目が覚めた。
「いててて、普段からやわらかいベッドで寝ている現代人に、土の上で寝ろと言うのはずいぶん厳しい話なんだ」
愚痴を言っているとレイも目覚めた。
「それじゃあ、私たちは出発しますので」
「おう、またいつでも遊びに来てくれ」
オレたちはおじいさんに別れを告げ、藤原京へと向かった。
「これまでの通説では、この日本語の母音の変化が起きたのは奈良時代に入ってからなんだけど、このおじいさんはすでに区別してないわ。でも、昔は区別していたと言っている。それなら、少なくとも庶民の間では600年代には消滅が始まっていたと言っていいわね」
道中レイが詳しく解説してくれる。
「へえ、どうしてそんなことが分かるんだ?」
「文献に書かれた記録を見れば分かるのよ」
「文献?だって、文献は音を記録することができないじゃないか」
「音の区別があったかどうかは分かるわ。例えば、昨日おじいさんが言っていた『となり』と『とり』の区別。『となり』の『と』と『とり』の『と』は昔の文献を見ると違う文字で書かれているの。文字が違うということは発音も違っただろうと推定されるわけ」
「じゃあ、昔はひらがなが五十文字以上あったってこと?」
「そうね、正確に言えばひらがなではなく当時は漢字を用いた万葉仮名と呼ばれるものが使われていたわ」
万葉仮名、名前は聞いたことがある。しかしどんなものだかは全く知らなかった。
「じゃあ、その音の区別がなくなると文字にはどう反映されるの?」
「だんだんと二つの文字の間に区別がなくなってきて、混同して使われるようになるわ」
このときオレはピンときた。
「もしかして、今のひらがなも『ジ』の音を表す文字が『じ』と『ぢ』で二つあるけど、これも昔は音の区別だったってこと??」
「そうよ、だから昔の文献を見ると『じ』で書くべきところを誤って『ぢ』と書いている例はひとつもないわ」
「それが、だんだんと現代に至るまでに書き間違いが増えてきたってこと?」
「そうね、その理解で完璧よ」
鳥肌が立った。なんとオレたちが普段使っている日本語にこんな歴史があったとは……
「じゃあ昔の人は耳がよかったのかな?いろんな音を区別して」
「いいえ、必ずしもそうとは限らないわ。音は減ることもあるし増えることだってあるの」
「へぇ」
「例えば昨日あなたがおじいさんに自己紹介したとき、おじいさんはあなたの名前を『ソ』と言ったでしょう?」
「ああ、そうだったな」
「あれも、昔の日本語には『ショ』の音がなかったからそう聞こえたってことなのよ」
「なるほどねえ、言葉ってのは奥が深いな……」
「でしょう?」
レイはやさしく微笑んだ。
オレたちは言語学トークで盛り上がりながら藤原京を目指した。




