表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

七周目の令嬢は献身する

作者: 北雪 舞

10/4 誤字報告ありがとうございます! 反映済みです。

「お怪我はありませんか、王女殿下」

「え、ええ……ありがとうございます、エリオット様」


 人が恋に落ちる瞬間を、間近で見た。

 六回目までと寸分違わぬその光景に、マリエッタ・セルヴィスは誰にも気付かれぬように奥歯を噛みしめたのだった。


***


「婚約を解消いたしましょう、エリオット様」


 淡々と告げられたマリエッタの言葉は、広い応接室に存外大きく響く。

 茶の準備をしていた侍女が、手元のポットを震わせ音を立てる。控えた侍従が息を呑み、ピンと空気が張り詰めた。

 そして向き合って座っているエリオットは、言葉の意味が理解できないと言いたげに二三度瞬き、「マリエッタ?」と戸惑った声音で彼女の――最愛である婚約者の名を呼んだ。

 エリオットの紅玉髄(カーネリアン)のような赤い瞳が、困惑に揺れている。言葉少ない唇よりもよほど雄弁な瞳が、何故、どうしてと訴える。

 つい先ほどまで己への愛だけを湛えて満ち足りていた双眸が悲しい色を帯びるのを、マリエッタは暗澹とした心地で受け止めることしか出来ず。

 そんな顔をさせたいわけではないのに。これしか出来ぬ己が呪わしく、恨めしい。

 彼を幸福にすると、幼い頃に立てた誓いは今も褪せてはいない。それでももはや自分に残された手札はこれしかなく。


「わたくし、飽きてしまいましたの。お互いもっといい人がいるのではないかと思います」

「待ってくれ、マリエッタ。急にどうしたんだ? 私に至らないところがあったのだろうか。だとすれば直すから、そんなことを言わないでくれ」

「……ああ、もう。そういうところです」


 手にした扇を広げて、口元を隠す。目元は冷ややかに見えるように(すが)めて、大仰に肩を揺らしてため息などついて見せて。

 己を誰よりも知っている彼が、真意を見抜けぬように。とびきり嫌な女に見えますようにと胸中で祈りながら、マリエッタは首を横に振った。


「何故わたくしがこんなことを言い出すのか、見当もつかないのでしょう? そのようなお方と一緒になるなんて、ぞっとします」

「マリエッタ、俺のマリー! 君を傷つけてしまったのだとしたら、本当にすまない。どうか挽回の機会を与えて欲しい」

「いいえ、エリオット様。もううんざりです。あなたの顔も見たくない」


 そう言い切って、マリエッタは席を立つ。顔を背けたのはこれ以上彼の傷ついた表情を見たくなかったからだが、言葉の通り嫌悪からだと受け取ってもらえただろうか。

 心臓が嫌な音を立ててきしんでいる。「お客様のお帰りよ」と無理矢理話を打ち切った己の背中に縋ろうとする愛しい人の気配を感じるが、決して振り向くことはせず。優秀な侍従は事前に言い含めていたとおり、マリエッタを追わぬようエリオットを押しとどめてくれていた。

 マリエッタ様、と気遣わしげに声をかけてくれる侍女に一人にしてくれと頼み、自室に飛び込んだマリエッタはドレスもそのままに寝台へと顔を埋める。そうしていないと、悲鳴が喉から迸ってしまいそうだったから。心にもないことを発した唇が、屋敷に響く慟哭(どうこく)を漏らしてしまいそうだったから。

 ひどく愕然としたエリオットの表情が、マリエッタのまぶたに焼き付いていた。あれだけひどい言葉を投げつけてなお、その奥にはマリエッタへの深い愛があったように思う。それがあまりにも苦しくて切なくて、マリエッタは寝具をかき抱いてひたすらに涙をこぼす。


 それでも。どれだけ辛くてもしかし、マリエッタに残された手段はこれしかなかった。

 誰よりも大事な、ただ一人。エリオットの命を救うためには、これしかなかったのだ。




 神の恩寵を受ける国(ラ・スヴェーラ)。己の暮らす国がそう呼ばれているのは、この国に生を受けるもの全てが神の加護を身近に感じられるが故だ。

 世界を創りたもうた創世神一柱、命や大地を造りたもうた創造神二柱、大いなる自然から生まれし大神六柱、そして人間の営みから生まれし神々三十八柱。

 この国に生まれ出生の洗礼を受けた人間は、必ずいずれかの神から加護を受ける。そしてその神が持つ権能の一部も授かるのだ。

 洗礼時にどの神の加護を受けたかは神託があるが、権能までは明かされない。土の女神の加護を受けた人間が《植物の成長促進》の権能を授かったり、芸術の神の加護を受けた人間が《絵画》や《舞踏》の権能を授かったり。まるで魔法のように能動的に使用できるものから無意識に発揮されていてなかなか気付けないものまで様々で、また加護を受けた神の格が高いほど権能も大きなものになる傾向がある。そのため、人々は自分を加護してくれる神への理解を深め、若いうちに自分が授かった権能を探ることが多い。

 マリエッタは、大神六柱のうち「月の女神」の加護を授かっている。大神の中でも特に格の高いのは「太陽」と「月」。その片割れの加護を得たとあって、セルヴィス伯爵家は大層盛大にそれを祝った。マリエッタもまた、両親親族の期待に応えるべく、自分が得た権能を確定しようと努力した。

 「月の女神」の加護を持つものの権能は、例えば力持つ言葉によって魔法のような奇跡を起こす「言魂(ことだま)」や、ごく短期間の「未来予知」や「豊穣」など、得られれば治める土地を豊かに出来るものも多い。

 だが、マリエッタにはそうした意識して発動する権能は見つからなかった。気落ちしたマリエッタに、けれど父は「頂戴した権能はきっと美貌だ、こんなに可愛いのだから」とマリエッタを可愛がり、母も「きっと幸福の権能ですよ、だってマリエッタがいるだけでわたくしたちはこんなに幸せなんですもの」と笑った。信仰の中心である教会であれば権能を調べることも出来るそうだが、王族でもない一個人が教会に依頼をする権限は持たず。故にマリエッタはデビュタントの頃には自分の権能を探ることは諦め、それでも幸福に生きていた。

 

 そんなマリエッタが婚約者であるエリオットと出会ったのは、彼が十六歳、マリエッタが十四歳の頃のこと。

 きっかけは家同士の業務提携。セルヴィス伯爵領で見つかった新しい原石を、マーシアル侯爵領で加工して販売する。その事業を興すにあたってそういえば両家には年回りのいい子息がいたではないかと設けられた場は、お互いの相性がよければ婚約を考えてもいいのでは無いか、程度の温度感のものだった。つまり、政略結婚のためというほど重くなく、されどただのお茶会というほどにはぬるくなく。

 セルヴィス家で催されたお茶会に現れたエリオットは、黒髪に赤い瞳が印象的な美青年。これからたくましい大人の男性に成長していくことが約束されたような貴公子に、マリエッタは大きく胸をときめかせた。

 そしてエリオットもまた頬を染め、マリエッタに跪くと「エリオット・マーシアルです」と涼やかな声で己の名を告げた。


「初めまして……と言いたいところですが、実は前から貴女を存じ上げておりました」

「え?」

「二年ほど前、トロイデン伯爵家で開かれた茶会を覚えていますか? 子供達ばかりが呼ばれたその会で、ご友人の令嬢を介抱されている貴女を見ておりました。彼女に付き添ってすぐに退出してしまわれましたが、なんて優しい方なのだろうと」


 エリオットが口にした茶会のことを、マリエッタももちろん記憶している。

 近隣領地の交友会と称された茶会は、似たような年頃の子供を集めて開かれた。そこでたまたま顔見知りの伯爵令嬢が体調を崩し、マリエッタが付き添ったのだ。

 それは彼女にとってまったく当たり前のことで、それをしないという選択肢は無かった。

 たとえそのお茶会に、普段は会話することも難しい高位貴族の子息が参加していようとも。

 彼は、それを見ていたという。思わぬ言葉に頬が赤くなっているのを自覚しながら、マリエッタは控えめに首を横に振った。


「そ、そんな。当然のことをしたまでです」

「ええ、誰に褒められるわけでも無く、当然のこととして善行を為す貴女の姿が美しいと思ったのです。今回はこのような機会を頂けて光栄です」

「こちらこそ、お目にかかれて光栄です……」


 そう言ってはにかんだマリエッタの手に、エリオットはまるで宝物に触れるような恭しさで触れた。

 それが二人の、恋の始まり。

 茶会の翌日に届けられた手紙には、誠実な挨拶とまたマリエッタに会いたい旨が書かれていた。その文面に心打たれたマリエッタもまた、当日の礼とまた機会を持ちたい旨を返信した。


 そうして始まった二人の交流は順調に進み、半年後には婚約が結ばれることとなった。

 その際にエリオットはマリエッタに跪き、ひどく幸福そうに微笑んで「マリー」とはじめて彼女を愛称で呼んだ。


「俺は太陽神の加護を受けている。権能はわからないままだったが、《最愛にして最上の伴侶を得る》だったのかもしれない」

「……わたくしは、月女神の加護を受けています。権能はわかりませんでしたが、わたくしも《何よりも愛することの出来る伴侶を得る》だったのかもしれません」


 神話で最も愛し合う二柱として描かれる太陽神と月女神になぞらえた、それは命尽きてもなお続く愛を約した言葉。

 たとえきっかけがなんであろうと、この結婚は恋によって結ばれ愛によって成されるのだとお互いに誓い合った二人は、まさしく幸福の中にいた。


 マリエッタとエリオットの婚姻には特に障害がなかったので、貴族の平均年齢頃に行われることになった。すなわち、マリエッタが十八歳、エリオットが二十歳になる頃をめどに、という約束で婚約が結ばれた。

 婚約期間中も、エリオットは変わらずに優しかった。パーティがあれば忙しい中でも必ずエスコートしてくれるし、節目の贈り物も手ずから選んでくれる。一月に一度以上は必ず逢瀬の時間を作り、会えない時にはまめに手紙をしたためる。

 その全てに、「愛おしいマリー、俺の輝ける月」と添えて。マリエッタもまた自ら図案を考えて刺繍をしたハンカチやささやかな贈り物をし、「最愛のお方、わたくしを照らす太陽」と添えた。そんな二人を周囲は仲睦まじい天空の一対(太陽と月)、と微笑ましく見守った。


 二人の婚姻を三ヶ月後に控えた、あの日が来るまで。


 エリオットはマーシアル侯爵家の跡取りであり、そしていずれは父の跡を継ぎ国の外務を担う職に就くと目されていた。故に、若年の今のうちから王宮で外交官として勤務している。

 その日の対応も、その業務の一環。――隣国・コルテリアの大使一行の接待という、普段であれば何事も無く終わるはずだったその役目は、しかしながら円満には終わらなかった。

 大使一行には、コルテリアの末王女が同行するとのこと。国王が溺愛する彼女の要望を断れなかったと言うことで通常のスケジュールから考えるとずいぶん急に決まったそれを、しかし国力差からラ・スヴェーラ側は受け入れた。その中心で動いていたのはエリオットで、婚姻を控えているというのにろくろく逢瀬も出来やしない、と落ち込むエリオットを、マリエッタは大事なお役目ですからと宥めながら疲労によく効く茶を差し入れてねぎらった。

 段取りは完璧で、コルテリア一行の来訪はつつがなく終わるはずだった。

 ――最終日の夜会に、王女を狙った不届き者が紛れ込まなければ。

 下手人はコルテリアの人間で、過去に末王女の機嫌を損ねたことが原因で失脚した男の差し金であったという。

 王女の希望でラ・スヴェーラの若い貴族も集められた盛大な夜会には、マリエッタも参加していた。仕事のためエリオットの代わりに父にエスコートされたマリエッタは、仕事に励むエリオットを誇らしい思いで見つめていた。

 給仕に紛れて入り込んだ不審者が王女に向かって駆けだしたのは、宴もたけなわのその瞬間。誰もが虚を突かれ反応できない中、大使一行に付き添っていたエリオットだけは違っていた。

 腰に佩いた剣を素早く抜き、その峰で男を打ち据える。それだけの動作だが、ひどく洗練されたそれはまるで演劇の一幕のよう。何が起こったのか周囲が気付いて悲鳴を上げる頃には、エリオットは男を拘束し終えていた。


「お怪我はありませんか、王女殿下」

「え、ええ……ありがとうございます、エリオット様」


 背に庇った王女に、エリオットはやや硬い表情のままそう聞いた。それに頷いた王女の顔は突然の襲撃に驚いたのだろう、青白いものであったが、しかしその目元に赤味が差していたと今になってマリエッタは思う。

 慌てて駆け寄ってきた騎士団の面々に下手人を引き渡すところまで、エリオットは完璧にその職務をまっとうした。その後慌てたように会場を見渡し無事なマリエッタと目が合って安堵の笑みを浮かべた彼に、マリエッタもエリオットに何もなくてよかったと息を吐いた。

 そこで終われば、婚姻を前にエリオットが功績を立てたというめでたい話で終わっただろう。

 けれど、事態はそうはならなかった。


 コルテリアの王女がエリオットと結婚したいと言って聞かないのだ、と、マリエッタの元にその報が飛び込んだのは事件から一週間後のこと。

 事件の翌日には帰国するはずだった王女が帰国を拒んでいる、という話は聞き及んでいたが、その理由がまさかエリオットとの結婚を望んでいるからなど思うはずもなく。セルヴィス伯爵家は騒然としたが、その日やってきたエリオットは焦って自分にそんなつもりはない、とマリエッタに告げた。

 先触れもそこそこに、身なりも仕事着のまま。普段であれば贈り物の一つも欠かさない彼が取るもの取らずという様子でセルヴィス家に駆け込んで、「誤解しないでくれ、マリー!」と聞いたことのないぐらい切迫した声音で叫び。


「王女殿下が何かおっしゃっているのは知っている。急に危険な目に遭って狼狽しているのだろう、マーシアル家としても国としてもお断りしているし、俺はマリー以外の誰かと婚姻するつもりもない!」

「え、エリオット様、落ち着いて……」

「伝えるのが遅くなってすまなかった、君の耳に入る前に終わらせるつもりだったのに……! すまない、ただでさえ婚姻を控えて不安定な時期だというのに、君に余計な心労を……」

「エリオット様、わたくしは大丈夫です」


いつになく早口で弁明するエリオットに、マリエッタは微笑みで応える。

決して疑ってはいないと伝わるように、マリエッタはゆっくりと首を横に振ってみせた。


「エリオット様の愛を、信じております。それに……エリオット様はとても素敵ですから、他の方が心を奪われても仕方ありません」

「マリー……」

「ひどいお顔をしていましてよ、わたくしの太陽神(だんなさま)。まともに食事をなさっておられませんね? 夕食はご一緒できますか?」


 そう言ってエリオットの顔を両手で包み穏やかに微笑んだマリエッタに、エリオットは一瞬だけ泣き出しそうに顔を歪めた。そして一拍おいて微笑むと、「もちろん、飛び込みの無作法を君が許してくれるなら」とその手に己のそれを重ねる。

 

 今思えば、その日の夕食の時間が二人にとって最後の憂いなき逢瀬であった。


 王女からの求婚は、予想に反して少しもその勢いが緩まなかった。それどころか、コルテリア側からの圧力さえかかり始める。

 コルテリアのような大国の王女が、ラ・スヴェーラのような小国の、それもいち侯爵令息と婚姻するメリットはない。だというのに、「命を助けてくれた運命の人」とのぼせ上がった王女は誰の説得も聞かず、また彼女を溺愛するコルテリアの王もそれが娘の望みならばとその行為を止めようとしなかった。

 コルテリアがそこまで強硬な態度に出れば、国内の人間にもそれに迎合(げいごう)するものが出てくる。――セルヴィス家にも、マリエッタとエリオット婚約を解消しないか、と持ちかけるものが複数あった。

 婚姻前の今ならば穏やかに解消できると。時にはマリエッタに新しい婚約者候補の釣書すら持って。

 もちろんマリエッタもエリオットも、それを承服などしなかった。婚約を解消する気などないと、予定通りに結婚するときっぱりと宣言したその態度が王女の逆鱗に触れたのだろうか。王女の命によって開かれた夜会で、次に命を狙われたのはマリエッタだった。

 王女をエスコートしろ、という命令を断って、エリオットはマリエッタをエスコートした。真摯に愛し合っていることを告げれば王女殿下も諦めてくださるだろうと、それは苦肉の策。けれど二人を見る王女の目は冷ややかで、まるで氷のよう。

 その視線に感じた嫌な予感は実現し、王女の差し向けた凶刃はマリエッタへと向けられた。けれどその刃が貫いたのは、マリエッタではなく。


「マリー!」

「!?」


 悲鳴のように名前を呼ばれ、エリオットに抱きすくめられたその瞬間。

 彼の身体ごしに感じた衝撃が何によるものなのか、マリエッタには判別できなかった。ただ、ドン、とこれまでに感じたことのない重みがあった。

 そして、つんざくような悲鳴。それは王女から発されていて、何故王女殿下はあのようなお声を出されているのだろう、とマリエッタはどこかぼんやりと考える。

 あたたかな、エリオットの腕。婚姻までは、と、これまでに抱きしめられたことは片手で数えるほどだったが、いつだってたくましく自分を守ってくれたはずの腕から、だんだん力が失われていく。

 エリオット様、と、呼んだ名前は声になっただろうか。ずるりと崩れ落ちた彼の身体からは、一目見て致死量とわかる血液が流れ出ていた。

 

 おそらく、王女を守った時のように冷静にいなすことは出来なかったのだろう。

 マリエッタに向けられた暗殺の刃に気付いたエリオットは、自分の身を挺してマリエッタを守った。エリオットの実力なら自分もマリエッタも傷つけずに不届き者を制することも出来ただろうに、愛が彼から冷静さを奪ってしまった。

 マリエッタは血まみれのエリオットを抱えて、何度も何度も彼の名前を呼んだ。

 ――エリオット様、エリオット様、目を開けてください、どうか、どうか。

 その絞り出すような懇願に応えるように、エリオットの目がうっすらと開く。

 「無事か」。彼の唇からこぼれたのは、マリエッタを案ずる言葉。

 「あなたが守ってくださいました」。マリエッタが応えると、彼は安堵したように微笑んで――そして、事切れた。

 瞬間、座り込んだその場所から世界が崩れていくような心地がした。いや、と叫ぶ王女の声も、周囲の喧噪も、何もかもが遠ざかっていき――気付けば、時間が遡っていた。


 最初は、自分が長い白昼夢を見ていたのかと思った。

 はっと明るくなった目の前で繰り広げられた光景が、王女が不届きものに襲撃された夜会の日と寸分違わなかったから。


「お怪我はありませんか、王女殿下」

「え、ええ……ありがとうございます、エリオット様」


 二人が交わす言葉まで、過ぎ去った日と同じもの。驚きと怯えが映った王女の瞳の奥に、確かな恋の炎を感じ取ったマリエッタは悲鳴をこらえるので精いっぱいだった。


 全て悪い夢だと思い込もうとした。隣国の王女がエリオットに横恋慕した挙げ句、自分を殺そうとしてエリオットが犠牲になるなど、何という悪夢であろうと。

 けれど事態は、前と同じように進んでいく。王女はエリオットとの婚姻を望み、隣国の王はそれを後押しし、国はセルヴィス家にまで圧力をかけてくる。エリオットの死のきっかけとなった夜会が開催されるに当たり、マリエッタはそれへの参加をかたくなに拒否した。夜会に参加さえしなければ、マリエッタへの暗殺を――すなわちエリオットの死を防ぐことが出来ると、そう考えた。

 マリエッタの判断を、両親は咎めなかった。そしてエリオットもまたマリーがつらい思いをするのなら、と参加を取りやめてセルヴィス家に来訪した。

 これで、死の運命から逃れられる。そう安堵したマリエッタであったが、けれど運命は願ったとおりに回ってはくれず。

 食後に淹れられた茶を、念のため、といってエリオットは自分のものとマリエッタのものを交換した。毒味はしておりますよと笑う両親に、もちろん信じておりますよ、と笑った彼の顔は、しかし数刻の後にその色を失った。

 マリエッタを狙って、遅効性の毒が盛られていた。毒味を担当してくれた侍従も巻き込んで、エリオットは再び死んでしまった。

 その冷たくなった手を強く握りしめた瞬間、再びマリエッタの意識はあの夜会の日に戻っていた。


 そこに至りようやくこの繰り返しが夢ではないと気付いたマリエッタは、一つの天啓を得た。

 ――すなわち、これが己の《権能》なのだと。


 月女神と太陽神の逸話に、「月女神は七度冥界に渡り、愛する夫を連れ帰った」というものがある。月女神に横恋慕した夜の王によって冥界へとその身を封じられた太陽神を、その知性と愛によって救いたもうた月女神。

 七度もの試練を乗り越えて救われた太陽神は妻の愛に心打たれて、「妻が我が隣にある限り、妻の愛するこの地あまねく全てに恵みを与えることを約束しよう」と告げた。以降、天災多きこの世界は太陽の恩恵に守られ平穏を得ている――という、二人の愛を示す神代の逸話。

 この神話が、そのまま権能になるならば。

 ――己には、七度までエリオットの命を救う機会を与えられているのではないか、と。

 根拠はなかったが、確信めいたものがあった。自分に与えられた力が愛する人を救うためのものだと思えば力が湧いて、マリエッタはどうすればエリオットを助けられるか思考を巡らせた。


 まず、時間が戻るのは王女が襲撃される夜会だから、そもそも王女がエリオットに恋をしないようにするという選択肢はとれない。

 そして、一度目は夜会で襲撃され二度目は毒殺。いずれもマリエッタを狙ったところを、エリオットが庇って死亡している。つまり、マリエッタが殺されそうになることがエリオットの死に繋がってしまう。

 ならば殺されないように立ち回ればよい、と、三度目は徹底的に家にこもることにした。エリオットの訪問も断って、ひたすらに事態が鎮火することを祈って。

 しかし、だめだった。婚約解消を受け入れないエリオットとマリエッタに業を煮やしたコルテリア側の使者とエリオットが揉め、不審な《事故》によってエリオットは死亡。その報を受けた瞬間、マリエッタの時間は巻き戻った。

 四度目は逆に、エリオットに張り付くようにした。仲睦まじい様子を周囲にアピールし、真摯に愛し合っているのだと理解してもらえば解決できるのではないかと期待して。

 けれど、やはりだめだった。自国の重鎮を前にどうか我らを引き裂かないで欲しいと、冷静に国同士の話し合いをして欲しいと訴える二人の姿を王女が見ていたらしい。かんしゃくを起こした彼女は父王へ泣きつき、愛する末娘の涙に激昂したコルテリア王はあろうことか戦争も辞さぬと言う勢いでラ・スヴェーラへと圧力をかけた。

 コルテリアは正気かとラ・スヴェーラ側は困惑したが、国力では圧倒的な差がある。戦争になれば勝ち目はなく、そもそも二人を婚姻させるためにコルテリアを敵に回す選択肢などない。

 王女のかんしゃくを宥めるためには、もはやマリエッタの首を送るしかないのでは、という極論が挙がるに至った頃、エリオットは自害した。「私の命と引き換えに、マリエッタの助命を願う」と遺言状をしたためて。

 ためらいもなく自分の首を掻き切ったのだろう遺骸を抱きしめて涙を流したマリエッタは、次に戻った五度目には衝動のまま自ら命を絶った。四度の愛しい人の死、それが全て自分を救うためにもたらされているのだと思えば、己の命など天秤に乗せるまでもなく軽かったから。

 けれど、だめだった。あっという間に六度目の夜会を迎えてしまい、マリエッタは己の《権能》の強さを思い知ることになる。

 おそらく、マリエッタの死後、その後を追ってエリオットも死んでしまったのだろう。その時点で《権能》が発動し、再びこの時点に戻ってきてしまったのだと推測できた。

 マリエッタはエリオットを愛している。そしてエリオットもまた、等しい重さでマリエッタを愛してくれている。故に、ただ(のこ)すだけではエリオットはその後一人で生きていってはくれないのだと、理解すればあまりの深い思いに胸が締め付けられるようで。

 六度目のやり直しで、ついにマリエッタは己の権能をエリオットに打ち明けた。

 時間が戻る権能など聞いたことがなかったし、やり直しの記憶があるなどと言ったら下手すれば正気を疑われる可能性があった。故になんとか自分で解決できればと思ったが、もはや八方塞がり。これほどに自分を想ってくれるエリオットであればきっと信じてくれると、その確信もあってマリエッタは全てをエリオットに告げた。

 そしてマリエッタが想定したとおり、エリオットはマリエッタの言葉を全て信じてくれた。己のために五度も死を乗り越えてくれたことを感謝し、その心痛を思ってマリエッタを抱きしめながら涙を流した。それだけで、全ての苦痛が溶けていくようで。

 けれど二人で知恵を出し合っても、事態の打開は容易ではないという結論しか出ず。

 問題はコルテリア側で、王女の願いに沿わないならば戦争も、などと言い出す相手にどう相対すればよいか見当もつかず。肝心の王女は恋に目がくらんでこちらの言い分に耳を貸す様子も見せないのだから、八方塞がりだ。

 マリエッタもエリオットも、母国や家族を愛している。自分たちの思いを貫いて国を巻き込むことは本意ではない。しかしながら、お互い以外を伴侶として生きていく未来は考えられぬのも事実。

 悩んだ末に、二人が選んだのは駆け落ちという選択肢だった。

 お互いの家に迷惑がかからぬよう、何も告げず。二人が将来を悲観して心中したと見せかけるような手紙を残して、家を出た。たとえ身分を失っても二人でならば生きていけると、若さ故の楽観はあったが全てを(なげう)つ覚悟を胸に。

 けれど、それすらも上手くいかなかった。

 夜陰に乗じて抜け出した二人を追い詰めたのは、王女の手のもの。エリオットが見抜けぬほどに巧妙に見張りをつけられていたのだと、気付いた時にはすでに遅く。

 どうしても手に入らぬのなら殺してしまえと、王女にそう命じられたという彼らの言葉を聞いて絶望に目の前が真っ暗になる。エリオットは奮戦したがあまりにも多勢に無勢、背にマリエッタを庇っている状態では消耗する一方で。

 わたくしを置いて逃げてください、というマリエッタの懇願はもちろん聞き遂げられることなく。ついには最初と同じように目の前で胸を貫かれるエリオットを見た瞬間、マリエッタは己の心が砕ける音を確かに聞いた。

 

 暗殺を避けようとしても叶わなかった。真心を尽くして説得しても通じなかった。マリエッタとエリオット、二人が自害しても願いは叶わない。そして全てを捨てて逃げようとしても、それすらも阻止された。

 そしてマリエッタの権能が神話に由来するものならば、もう次が最後だ。なによりこれ以上、エリオットの死を繰り返すことに耐えられない。

 エリオットに、この先を幸福に生きていて欲しい。自分が隣にいることでそれが叶わないならば、己の幸せなど全て捨ててしまってかまわない。

 マリエッタに残された選択肢は、一つ。これしかないと決意して、《七度目》の夜会の翌日、マリエッタはエリオットに婚約の解消を告げた。


 嫌な女を演じて、エリオットに嫌われる。そして王女の手を取ってもらうことが、この先エリオットが生きるために残された道。あの王女と結ばれることがエリオットにとっての幸せかはわからないが、それでも生きてさえいてくれれば得られるものがあるはずだ。

 マリエッタを愛し続ける限り、エリオットはマリエッタのために死んでしまう。六度の繰り返しでそれを突きつけられたマリエッタには、もはや選択肢などなく。


「マリー……本当にいいのかい?」

「ええ、お父様。本当に申し訳ないのですけれど、婚約解消を進めていただきたいの」

「後悔するんじゃなくて? あなた、あんなにエリオット様を想っていたじゃない」

「人の気持ちは変わるものですわ、お母様」


 夕食の席で、気遣わしげに声をかけてくる両親に淡々と答える。本来婚約は家同士のことだというのに先走って当人同士で解消を告げたマリエッタの行動を、両親は咎めるよりも先に心配してくれた。

 何があったのかと、どういう心境の変化なのかと。そんな言葉にもただ「あの方と生きていく未来が見えなくなった」としか答えぬ娘に、二人も当惑している様子であった。

 けれど、両親にも本心を悟られるわけにはいかない。六度目でコルテリアに監視をつけられていたことを鑑みれば、どこから本心が漏れてしまうかわからないのだから。

 硬い表情を崩さぬマリエッタに、両親はそれ以上何も言わなかった。焦らなくていいからゆっくり考えなさいと、驚くほどの寛容さで肩を撫でてくれたその優しさが申し訳なくて、自室に戻ったマリエッタは再び寝具を涙で濡らすことしか出来ず。

 愛する人と、幸せになりたい。そんなささやかな望みが叶わなかったことに苦しみながらも、これでいいのだとマリエッタは自分に言い聞かせ続けた。


***


 エリオットはその後も何度もマリエッタのもとに通ってきたが、それをことごとくはねのけて一月。

 マリエッタのもとに、夜会の招待状が届いた。

 主催は、コルテリアの王女。ついに来たかとマリエッタは誰にも見られぬようため息を吐く。

 マリエッタとエリオット、そして王女の動向を面白がって見守るお喋り雀たちは、ついに王女とエリオットが婚約するのだと囁いている。実際エリオットがこの屋敷を訪れる頻度も下がっており、マリエッタ自身も彼がついに諦めたのかと思っていた。

 自らが望んだことであるが、実際にそれを突きつけられればひどく胸が痛む。

 それでも、己がすべきことはただ一つ。

 マリエッタは心を決めて、その招待に応じる返事をしたためたのだった。




「本当にエリオットと婚約解消したのかい、マリー」

「ええ、そうよ。まだマーシアル家……エリオット様は承認されておられないようだけど、王女様に望まれているのだもの。時間の問題だわ」


 時間が戻る前、己の命を奪った夜会の会場にマリエッタは立っていた。

 纏うドレスはエリオットにエスコートされている時とは比すべくまでもなく、まるで未亡人のように質素なものだが、それでよかった。装ってもそれに目を細めてくれる愛しい人は、もう隣にいないのだから。

 常になく硬い表情のマリエッタの肩に、そっと男の手が触れる。

 ゆっくりとそちらに目をやったマリエッタに、男はにっこりと微笑んでみせた。


「ごめんなさい、ジョシュア。あなたも誰か一緒に来たい人がいたでしょうに」

「いいや、僕は気楽な独り身さ。かわいい幼馴染みの役に立てるならどこにでも行くとも」


 優しい彼の言葉に、マリエッタは眉を下げて笑みを返す。

 彼――ジョシュア・イゼット伯爵令息は、マリエッタとエリオットの共通の幼馴染み。今回の夜会ばかりは身内と参加するわけに行かず、マリエッタがエスコートを頼むことが出来たのは彼だけで。

 急な頼みにも嫌な顔一つせずに応じてくれた彼には感謝しかない。申し訳なさそうな表情をしたマリエッタを気遣ってか、おどけたように肩をすくめたジョシュアは「僕にもマリエッタみたいにかわいい婚約者がいれば、もちろんそちらを優先するけども」と片目をつぶってみせた。

 マリエッタがこの夜会に参加を決めたのは、コルテリアの王女にマリエッタには未練がないことを示すためだ。

 嫉妬深く狭量なあの王女は、マリエッタがまだエリオットに思いを残していると思えば必ず命を奪おうとする。そしてマリエッタが命を落とせば、エリオットは後を追ってしまう。

 もしこの婚約解消騒動でマリエッタに愛想をつかしてしまっていたとしても、心優しいエリオットのことだ。一度縁のあった自分が死んでしまったら、きっと心に重たいものを残してしまうだろうとマリエッタはわかっていた。

 だから今日この場で、王女にはマリエッタがもうエリオットと縁を切ったのだと理解してもらわなければならない。

 どんなに胸が痛くとも、エリオットの未来にはこれが必要なのだ、と。自分に言い聞かせながら、マリエッタはぎゅっと胸のあたりでこぶしを握った。

 その時、会場の奥からさざ波のように歓声が広がる。はっとしてそちらに目を向ければ、そこにいたのはやはりコルテリアの王女と、彼女をエスコートするエリオットだった。

 この夜会の主役は、彼女だ。エリオットの腕に手を置く彼女は、誇らしげに胸を張っている。恋した相手の隣を勝ち取ったことが嬉しいのだろう、上気した頬はその喜びを見るものに伝えるようだった。

 そして、その隣に立つエリオットは。


「――」


 マリエッタは、思わず息を呑む。

 少し、瘦せただろうか。最後に見た時よりも顔がやつれているように見えて、マリエッタは唇を引き結ぶ。いつも未来への希望で輝いていた紅玉の瞳は陰鬱に(かげ)り、取り繕ってはいるものの表情も硬い。

 マリエッタの隣にいる時の彼は、いつだって幸福そうに笑っていた。あの頃とは比べ物にならないほどにつらそうなエリオットに、マリエッタは剣で胸を突かれたような心地になる。

 彼の幸せを誰よりも願っているのに、それを叶えることが許されない。己の身の非力さに、泣き出したいのをこらえるので精いっぱいで。

 そんなマリエッタに、再びジョシュアの手が触れる。


「……ねぇ、マリー」

「……なぁに?」

「本当にエリオットと婚約解消するなら、僕と婚約しないか」


 ゆっくりとエリオットからジョシュアへと視線を戻したマリエッタに、彼は常の態度からは想像できぬほどに真剣な表情でそんなことを口にした。

 突然の申し出に目を丸くするマリエッタに、ジョシュアはしかし発言を撤回することはせず。

 ぐっと強く肩を抱かれ、マリエッタは息を詰める。気付けば、とても近くにジョシュアの顔があった。


「僕は婚約者もいない次男坊だし、君の家に婿入りしたっていい。君の家をもともとの予定通り叔父の子に継がせるなら、うちに余っている子爵位もある。エリオットほどではないが、財務部(勤め先)では十分な評価をもらっているし、君に苦労はさせないよ」

「ジョシュア、そんなに気を遣ってくれなくてもいいのよ」

「気を遣ってなんかいない」


 急に婚約解消などを言い出し、先行きが不透明になった幼馴染みを哀れんでくれているのだろう。

 そう考えたマリエッタは笑ってジョシュアの胸を押しやる。けれどその身体はびくともせず。

 はっとして彼を見上げれば、こちらを見つめるその瞳は驚くほどに真摯なもので。


「ねぇ、聞いて、マリー。僕は本当に……」


 冗談の色を含まない声音に、マリエッタは咄嗟にジョシュアから顔を逸らした。

 彼のことを、そんな風に考えたことはない。否、彼だけではなく、エリオット以外の男性を恋愛の対象として考えたことは一度もなく。

 断るにしてもどう答えればいいのかわからず視線をさまよわせたが、不意に己を見る気配を感じてそちらに顔を向ける。

 マリエッタを見ていたのは、エリオットだった。

 彼はその赤い瞳を見開いて、ひどく愕然とした顔をしている。

 エリオットからはまるでジョシュアに抱き寄せられているように見えるのだと、気付いた時には彼の顔はすっかり絶望に染まっていた。

 その表情に、胸が鋭く痛む。けれど、彼に自分への思いを断ち切ってもらう好機かもしれない。

 そう考えて、マリエッタは敢えてジョシュアを振り払わなかった。ジョシュアを利用するようで心苦しくはあったが、それでもエリオットの命には代えられない。

 遠目からでも、エリオットの顔から血の気が引いていくのがわかった。紙のような顔色になってしまった彼が見ていられなくて、マリエッタはそっと彼から視線を逸らす。

 会場に異変が起こったのは、その瞬間だった。 


「!」

「マリー!」


 世界が、揺れる。立っていられないほどの地面の鳴動にたたらを踏んだマリエッタを、ジョシュアが抱え込むようにして支える。

 その腕の中から慌てて周囲を見れば、そこかしこから悲鳴が上がっていた。慌てて会場から逃げ出そうとするものもあり、周囲は阿鼻叫喚の様相だ。

 加えて、外からは耳をつんざくような雷鳴が響いている。先ほどまでは晴れていたはずなのに、何が起こっているのか理解できず。

 混乱を深める中、しかしマリエッタの目が捉えたのはただ一点。


「――……!」


 見つめた先には、呆然としたように立ち尽くすエリオットがいた。

 コルテリアの王女が必死に彼の腕を引いて己を守るように訴えているが、そんな声がまるで耳に入っていないが如く。

 ただこちらだけを死人のように見つめる彼は、地が裂けそうな揺れを全く意に介する様子もなかった。

 会場の中心にいる彼らの頭上には、豪奢なシャンデリアが揺れている。揺れによって今にも落ちてきそうなそれから、コルテリアの王女はついに悲鳴を上げて逃げ出した。

 それでもなお動こうとしないエリオットは、ただマリエッタだけを見つめている。


「ごめんなさい、ジョシュア」

「マリー!? 早く逃げないと……」


 マリエッタは、そっとジョシュアの胸を押しやった。

 この場から出ようと、至極まっとうな彼の提案に首を横に振って、マリエッタは微笑む。

 

「わたくし、あの人のところへ行かなくちゃ」


 それだけを告げて、マリエッタは走り出す。背中に掛かる自分の名を呼ぶジョシュアの叫びに、振り向くこともなく。

 これまで、六度。こんなことが起こったことはなかった。けれどこんなに地面が揺れては、きっと大変なことになるだろう。己だって、生きていられるかわからない。

 それなら、せめて。

 愛しい人と、一緒に。

 邪魔なヒールを脱ぎ捨てる。シャンデリアが一層大きく揺れるのを見て、マリエッタは勢いよくエリオットに飛びついた。


「エリオット様!」

「!」


 常であれば、エリオットは軽々とマリエッタを受け止めただろう。けれど魂が抜けてしまったような顔をした彼は、あっさりとマリエッタとともに床に倒れる。

 すぐ横に、シャンデリアが落ちる。直撃は避けられたが、割れたガラスの破片が飛び散る。奇跡的に二人を傷つけはしなかったが、不用意に動けば肌が裂けてしまうだろう。

 けれど、そんなものは何でもなかった。

 だって、エリオットは生きている。そのぬくもりを、今感じている。

 押し倒した形になったエリオットは、驚いた顔をしてマリーの頬を両手で包んだ。まるで存在を確かめるように。

 マリエッタもまた、エリオットの頬に触れる。死人のように冷たい肌が悲しくて、マリエッタは己の体温を分け与えるようにゆっくりと彼の頬を撫でた。

 周囲は大騒ぎのはずなのに、マリエッタの耳には何も届かず。

 月のない夜のような静寂に、マリエッタは愛しい人にただ微笑んで見せた。

 

「ああ……仕方のない人」

「マリー……?」

「ええ、あなたのマリエッタです」


 エリオットの言葉に応えれば、その瞳に光が戻る。

 マリエッタが愛した紅玉髄(カーネリアン)の輝きに、マリエッタは笑みを深めた。

 互いの頬を撫でながら、お互いの名前をただ口にする。それだけが望みだというように。

 ああ、と。マリエッタは胸中で呟く。

 この人がいないと、だめだと。己の愛を諦めてでもこの人の命を救いたいと願ったが、それは、違った。


「エリオット様」

「うん」

「マリーと一緒に、死んでくださいますか?」


 だって、こうして死に直面した瞬間。

 そばにいたいと、願ってしまった。死ぬならばこの人の隣でと、そう思ってしまった。

 だから、問うた。この上なく傲慢で身勝手な願いを、彼が叶えてくれるかを。

 エリオットは、笑った。この上なく幸福そうに、マリエッタの輪郭を撫でながら。


「君とともに在ることが出来ないなら、生きていないのと同じだ」


 それは、マリエッタの望みを叶える答え。

 今生でどうしても結ばれないというならば、死後の世界で手を繋ごうと、エリオットもそう望んでくれたのだ。

 それだけで、十分だった。この後天変地異で命を落としても、コルテリアの怒りを買って殺されても、かまわなかった。

 思いが、あふれてくる。出会ってから今まで積み上げてきた愛情が、脳裏を巡って指の先までを満たしていた。

 エリオットの顔を見つめる。つややかな黒髪も、意志の強さを宿した赤い瞳も、かつては子供らしい丸みを帯びていた輪郭も、凜々しくつり上がった眉も、すっと通った鼻筋も、少し薄い唇も、綺麗な丸い額も。

 一つ一つ、確かめるように。愛しい人を形作る全てを、目に焼き付けるように。

 強く、優しく、(はげ)しく。燃えさかる炎のような情熱でもって、凪いだ海のような深遠さでもって、星の瞬く夜のような穏やかさでもって。マリエッタを愛してくれた、ただ人一人。

 

「愛しています、わたくしの太陽(エリオットさま)


 告げる。彼と出会ってからずっと、絶えず膨らみ続けるその思いを。

 エリオットが目を丸くして、そして瞳を潤ませる。その目尻から雫が零れるのを見止めた瞬間、マリエッタの身体は動いていた。


 愛しい、愛しい、わたくしのただ一人。

 この命尽きても、どうか隣にいられますように。


 願いは、祈りに。

 想いを唇に乗せて、そっと彼のそれに寄せる。


 永遠の愛を、あなたに誓う。

 神の御前でなくとも、立会人の一人もなくとも。

 わたくしの愛は、あなたが知っていてくれればそれでいい。


 ――どのくらい、そうしていただろうか。

 気付けば、錯覚ではなく地面の揺れは止まっているようだった。外に響いていた雷鳴も、もうおさまっている。


「……ん?」

「……え?」


 そこに至り、ようやくマリエッタとエリオットは気付く。

 平静を取り戻した会場中の人間が、自分たちを見ていることに。


***


「おまえら、そろそろ社交界に顔出してもいいんじゃない? 例のラブシーンの話もそろそろ気持ち下火になってきた気がするし?」

「ジョシュア……」


 例の夜会から一ヶ月後。

 マーシアル侯爵家の客間で、マリエッタとエリオット、そしてジョシュアの三人はお茶を飲みながら向かい合っていた。

 ジョシュアはからかうような調子で言いながら、手にしたお茶を口にする。

 そんな彼に、エリオットもマリエッタも首を縮こめる。自分たちがしたことを思い出せば、顔から火が出そうだった。


「あの、ジョシュア……本当に、迷惑をかけて……」

「いいのいいの。当て馬のことなんて気にしなくていいから、マリーは幸せになりなさい」

「ジョシュア……」


 心底からの謝意を込めて頭を下げたマリエッタに、ジョシュアはひらひらと手を振って応じる。

 ふざけたような物言いだが、その目線にはマリエッタとエリオットへのあたたかな親愛に満ちている。

 彼の思いが申し訳ないと同時に嬉しくて、二人は目を合わせて微笑みあった。

 そんなマリエッタとエリオットに、ジョシュアは大仰に肩をすくめて見せて。


「そもそも、割って入る余地ないもんなぁ。エリオットがあんな権能持ちじゃさ」


 そのジョシュアの言葉に、エリオットの顔が一瞬で真っ赤になった。

 エリオットの『権能』。

 ずっと明らかにならなかったそれについて、先日の出来事をきっかけに教会が動いた。

 あの大規模な大地の鳴動や雷鳴は明らかに異常事態。こうした異常が何の前触れもなく起こることは考えにくい。

 なにかしら『権能』に関連することではないかと推測され、そしてあの場で権能が判明していなかった人間はみんな教会の調査を受けたのだ。エリオットも、例外ではなく。

 そして、今まで不明であったエリオットの権能が明らかになった。――あの、天変地異の原因も。

 真っ赤になって黙り込むエリオットをからかうように、ジョシュアはその目をのぞき込み。


「『愛する人が隣にいる限り、世界を厄災から守る権能』なんてさぁ」


 そう言った。

 ついに片手で顔を覆ったエリオットは、「うぐ」と喉の奥から絞り出すようなうめきを上げたのだった。



 『愛する人が隣にいる限り、世界を厄災から守る』。

 それが、エリオットが教会から告げられた権能であった。

 それはマリエッタと同じく、神話を由来とする権能。かつて冥界を渡り己を救った月女神の愛に対して「妻が我が隣にある限り、妻の愛するこの地あまねく全てに恵みを与えることを約束しよう」と誓いを立てたことに由来している、というのが教会の見立てだった。

 そしてこっそりと、この権能を持つ人間が時代に必ず一人は存在するのだと耳打ちされた。また、必ず心から愛する人と結ばれているのだと。

 神話が伝えるとおり、この地は神の恩寵なければ人が住める場所ではない。あれらの天変地異は、すべて太陽神の加護を託された人間の『権能』によって防がれているのだと。

 コルテリアの王も、さすがに娘のわがままで国を滅ぼすわけにはいかないと考えたのだろう。まだエリオットに未練を見せる王女を連れ帰り、無理を通そうとしたことの詫びを告げてくれた。

 賠償も申し出られたが、二人はそれを辞退した。王女が去り、二人の結婚を認められる。それだけで、他には何もいらなかったから。


 ジョシュアが帰宅したのち、二人きりの応接室でマリエッタとエリオットは向かい合う。

 婚姻前の男女が二人きりになることは本来なら避けるべきだが、調査が終わり二人がゆっくりと顔を合わせるのもあの夜会ぶり。この時ばかりは使用人達も気を利かせ、二人の時間を作ってくれた。

エリオットの手が、並んで座るマリエッタの手に重なって、思わずハッと顔を上げる。

マリエッタを見つめるエリオットの目は、あまりにも真摯なものだった。


「……マリー」

「はい、どうしましたか?」

「俺を守ってくれて、本当にありがとう」


そうして告げられたのは、感謝の言葉。

心からそう思っているのだと言うことが疑いようのない重みを伴った言葉に、マリエッタは言葉を詰まらせる。

――果たして、本当に己がエリオットを守ったなどと言っていいのだろうか。

その命を守りたいという願いによるものとはいえ、マリエッタによる別れの申し出は間違いなくエリオットを傷つけた。その挙げ句、結局最後は心中を決意するありさまだ。

あまりにも無力であった自分を恥じているのが伝わってしまったかの如く。マリエッタを慰撫するように与えられたエリオットの言葉に、マリエッタはただ瞳を揺らすことしか出来ず。

けれどそんな想いをくみ取ったかのように、エリオットはゆっくりと首を横に振った。


「一人で苦しませて、本当にすまなかった。偽りの別れを告げさせるほどに君を追い詰めたのは、俺の至らなさゆえだ」

「エリオット様、そんな……!」


本当に苦しそうに紡がれた謝罪の言葉に、マリエッタは即座にそれを否定しようとする。

しかしエリオットは再び首を横に振ると、ぎゅっとマリエッタの手を握る指先に力を込めた。


「六度。――六度もだ。……俺がマリーを六度も失ったら、きっと耐えられない。君のように、強い意志で前に進むことは出来なかっただろう」

「――……」

「君が強く在ってくれたから、俺は君を失わずにいられたんだ」


その言葉に、自身に触れる彼の手の力強さに。

マリエッタは、ようやく己が彼の隣に戻ってきたのだと、実感する。

この一月は、あまりにも慌ただしかった。光陰は矢の如く、何が何だかわからないまま過ぎてしまっていた。

マリエッタは、エリオットに握られたのと逆の手で、彼の頬に触れる。

指先に感じる彼の体温に、マリエッタは急にこみ上げてきた涙をこらえることが出来ず。


「エリオット様……!」

「マリー」

「ご無事で、ご無事で本当によかった……! わたくし、あなたの命を救うことが出来たのですね……!」


はらはらと、涙が零れる。

闇の中に、いる心地だった。彼を救えず過ぎていく時間は、明けぬ夜に閉ざされてしまったかのようで。

彼を本当に愛していなければ、きっと耐えられなかった。そして同時に、彼を愛していたからこそ、彼から離れる決断をするのは身を裂かれるが如く。

けれど、そのすべてを乗り越えて、愛しい人は生きて隣にいてくれる。

それを強烈に実感し、あふれてくるものが止まらなかった。

そんなマリエッタの涙を、エリオットの指がぬぐう。その指が与えられることこそが己への報酬に思えて、マリエッタはその手に己の手を添えて微笑んだ。


「マリーが救ってくれたのは、俺の命だけではない。二人の未来を、君は救ってくれたんだ」

「エリオット様……」


エリオットの手が、愛しげにマリエッタの目じりを撫でる。

しかし彼は不意に気まずそうに顔を歪めると、ぱっとその手を放してしまった。


「……それで、その」

「え?」


もごもごと、彼にしてはずいぶん歯切れが悪い口調で呟きながら、エリオットはうろうろと目を泳がせる。

急に様子の変わった彼に首を傾げたマリエッタに、エリオットは一つ深呼吸をすると、決意したように彼女を見据えた。


「……俺は、ずいぶん情けないところを君に見せてしまった。そのうえ、あんな権能であることが判明して……」

「……」

「もし俺に愛想をつかしてしまっていても、とても言い出せない状況になってしまったのはわかっている。だが、もし君が俺に沿うことを望まないなら、きっとどうにかするから……」


エリオットの言葉に、マリエッタは目を丸くした。

見つめたエリオットの顔は驚くほどに真剣で、彼が己の精いっぱいの誠心をささげているのが感じ取れた。

そうだ、こういう方だ、と。

マリエッタは、思い出す。エリオットとは、こういう方だと。

いつだってマリエッタの思いをくみ取ろうとして、マリエッタの幸せを願ってくれる。たとえそれが、自分の幸せの形と重ならなかったとしても。

この発言だって、そう。

マリエッタが本当に彼から離れれば、きっとその赤い瞳をもっと真っ赤にしてしまうだろうに。それでも、マリエッタが望むなら身を引こうと、断腸の思いでその選択肢を提示してくれる。

――けれど、ああ。なんて、困った(いとしい)人。


「エリオット様」

「!」


名前を呼ぶ。両手で彼の頬を包む。

声音から、手のひらから。自分の思いが伝わるようにと願いながら。


「月女神様はなぜ七度も冥界へ渡ったか、おわかりになりませんか?」

「な、なぜ……?」

「それは、わたくしが六度もの絶望を越えられた理由と、同じなのです」


突然の謎かけに、エリオットは戸惑ったように眉を下げる。

そんな顔が可愛らしくて、マリエッタは笑みを深めた。


月女神が、万難を排して七度も冥界に渡ったのも。

マリエッタが、六度もの絶望を越えて七度目の試練に挑むことが出来たのも。

神も、人も。何も変わらない。その献身の理由を、その心の(うち)にある燃え盛る熱の名前を、きっと誰もが知っている。


だから、マリエッタは己の太陽神の瞳を見つめる。

誠実で優しくて、そして少し臆病になってしまった彼に、自分のすべてを伝えるために。


「愛しているから。……雲のない夜空の月の如く。わたくしの想いは、今も変わらず光を放っております」


すべての想いを乗せて告げた、マリエッタの言葉に。

エリオットは目を見開いて、そしてたちまちその瞳に涙の膜を張った。

それが雫となってこぼれる前に唇で受け止めたマリエッタに、エリオットは一瞬息を詰める。


愛しい愛しい、たった一人の魂の片割れ。

あなたがいるなら、死すら恐ろしくないと思わせてくれた、ただ一人。


あふれるほどの恋心を、マリエッタの瞳がきっと伝えてしまったのだろう。

「マリー」と呼んだ彼の声は、彼の愛情を滲ませて震えていた。


エリオットの腕が、マリエッタを強く抱きしめる。

そのあたたかな腕の中で目を閉じて、マリエッタは再び彼の名を呟いたのだった。


太陽と月モチーフ、異様に好き。

面白いと思っていただけたら、ブックマークや下部の☆☆☆☆☆より評価をしていただけると嬉しいです。


引き続きピッコマノベルズで連載中です。

現在待たずに無料の範囲が広がっており、よろしければこちらも隙間時間のお供にしていただけると嬉しいです。


逆行した「悪役令嬢の妹」は今度こそすべてを守り抜く

https://piccoma.com/web/product/156939

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ