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題を十余年にしたのは、大学進学の部分から始めたかったに過ぎない。
人生というのは生を授かったその瞬間から全てが続き物であって、転機だとか発端だとかを殊更にここと決めつけるのは案外難しい。ただ、高校卒業、大学進学という辺りは、人生談の一区切りとしては随分分かりやすい。
近畿大学という学校は実家から最も近い大学だったが、進学先として選んだ最大の理由はそこではなかった。単に勉強不足で、学力的に行けるギリギリのラインがそこだったのだ。
そもそも特別大学に行きたかったというわけではなかった。ただ入った高校が少し特殊で、文系の専門学科に通っていたものだから、高卒就職という発想があまり周囲になかったのだ。ただでさえ猫も杓子も大学全入時代。特にこれといったプランも持たない前田少年は周りに流されるまま、じゃあ大学受験をしましょうということになった。
ただ如何せんノープランで志望校もなかったので始動は遅く、受験勉強期間は2ヶ月である。しかも私文に絞っていたせいでほとんど英語の勉強しかしていない。そして英語の勉強と言えば聞こえは良いが、その実高校で習うべき英単語を後追いでひたすら詰め込む作業だった。世の受験生達が春くらいに買ってくる英単語ドリル的なものを3年の冬真っ盛りな頃合いにヒバリヤ書店(布施のやつ。地元民御用達)で数冊買ってきて、とりあえず片っ端から解き通すんだか読み通すんだかをして、それで受験に臨んだ。これが後期試験の話である。
その少し前を遡ると、前期試験も一応受けてはいたのだ。正真正銘ノー勉のぶっつけ本番、一夜漬けすらせずに近大を受けたらボーダーに10点届かず落ち、「あれっ、これちょっと勉強したらもうちょっと上の大学受かるのでは?」となって買ってきたのが英単語ドリルだった。そして迎えた後期試験、関関同立を片っ端から受けた結果全部落ちて綺麗に近大だけ受かった。受験戦争はそんなに甘くなかった。文法とか分かんないもん。
そんな蓄積ゼロ自堕落少年と大学生活は、ある種相性最悪だった。卒業3ヶ月前まで進路すらほとんど決めていなかった人間に、大学が課してくる自主性だなんていうのは甘えの温床でしかなかった。これでも最初の半年は真面目に行ったのだが、友人ができるにつれてどんどん出ない授業が増えていった。正直2回生の前半はほとんど麻雀と競馬しかしていなかった。
ここで近大と怠け者の相性の良くないところに、1回生から2回生は単位に拘わらず進級できるという点にあった。そのくせ2回生から3回生への進級の際は2年分の単位を要求してくるのだから、そもそもシラバスをちゃんと見てもいない前田青年が危機的状況に陥るのは必然であった。
正確にどこがどう不味いかはさておき、なんとなく不味そうなのは自覚していた僕は、2回生の後期に賭けざるを得なかった。とりあえず半年ぶりくらいに開いたシラバスで、なんかよく分かんないけどフル単すれば進級できるっぽいことを知り、単位互換制度なる要綱の隅っこで発見した謎の制度をフル活用して単位を取りにかかることにした。
母親が過労で倒れたのはまさにこのタイミングだった。
家業は樹脂成形の工場である。大阪市は平野区の工場群の片隅で、それはもうこじんまりと営業していた。祖父が興した会社で、母親はその2代目の社長ということになる。
この手の町工場は得てして人手が足りない。還暦まであと10年と迫った女社長の決死のフル稼働は、人間を倒れさせるには十分な疲労を蓄えさせた。
「俺、しばらく工場手伝うわ」
この後度々出てくることになるが、この前田という青年はとにかく格好付けたがりだった。「ええかっこしい」という方言が、これ程までにしっくりくる生き様とないと、我ながら思う。
何の余裕もない、1単位も落とせない状況でこの台詞は、即ち留年を意味していた。ちなみにこの人は普通に奨学金で大学に通っているタイプなので、留年をするということは余分に通う1年分の学費をどこかしらから捻出しなければならない。そして家業はこの有り様なのだからそんなアテはどこにもない。
「しゃーない、辞めよ」
工場を手伝いながら、僕はそう決意した。