雨の日の記憶(12)~代償~
猫又征四郎と再会してから一週間が過ぎた。
取り乱し、爪で引っかき傷つけた畳の状態を見てハルは驚いたが、それを猫又征四郎は宥め、喜助をかばった。憔悴していた喜助はそんな気遣いに感謝する余裕はなく、ただうなだれた。
猫又征四郎の忠告も、自分に課せられたことも、ようやく喜助は理解した。そして頭の中を整理する。
答えはただひとつ、猫又にはならない。ハルを傷つけることは絶対にない。次に長老から呼び出しを受けたら、そう答えようと喜助は心に決めていた。自分はこのままで十分幸せではないか。例え言葉を交わせなくても、こうしてハルと心が通じあっている。それだけで、ハルのそばにいられるだけで喜助は十分満たされていた。
「喜助!」
それは突然だった。
猫又征四郎の家へ向かう途中の出来事だった。ハルと共に道を歩いていると突然十字路から何かが飛び出してきたのだ。これも猫又になる資格を得た猫の特殊な能力なのか、その瞬間だけ喜助の目にはまるで時間がゆっくりと流れるように見えていた。喜助が一匹で外出しようとしていた時によくハルが注意してきた「自動車」という人間の乗り物。それが十字路からいきなり飛び出してきて、今にもハルに衝突しようとしていた。喜助はゆっくりと流れる時間に感謝しながらハルに体当たりをし、代わりに自分が自動車にぶつかった。
どれほどの衝撃があるか具体的にはわからないが、恐らく自動車に付いているあの丸い物体、車輪に巻き込まれていればもっと悲惨な目にあっていただろう。喜助はハルに体当たりする為に飛びついたので車体にぶつかり、あらぬ方向に体が跳ねていった。
自動車にぶつかった衝撃で気を失ったのは一瞬だけだったようで、意識を取り戻し目を開けると、すぐ目の前に泣き崩れるハルの顔が見えた。
ハルは血みどろになった喜助の身体に触れ、その白い手もまた真っ赤に染まっていく。静かに喜助の首を手のひらに乗せると、互いの顔がよく見えるように支えながら名前を呼んだ。
「喜助、喜助、しっかりして。大丈夫だから。きっと助かるから」
その声は涙声で、悲しさにあふれていた。その様子から自分はもう助からないんだと察した。
だが喜助にとってそれはもうどうでもいいことだった。そんなこと以上に喜助の心を占める思いの方が勝っていたからだ。
自分の為にこの人は泣いてくれている。そのことが喜助の心を満たしたが、それと同時になぜか喜助の心は傷んでいた。ハルの命を助けることは出来たが、ハルを悲しませてしまった。喜助は喜んでいいのか悲しんでいいのか複雑だったからだ。ハルが無傷であるなら何よりであったが、悲しませるつもりはなかった。しかしそれだけハルは喜助のことを大切に思っている証拠でもある。
複雑な思いを抱きながら、言葉が通じないとわかってはいても、最後の最後に話しかけずにはいられなかった。本当にこれが最期になるからだ。
『ハル、笑って……。オレはハルの笑顔の方が大好きなんだ……』
そう言って、薄れゆく視界から、ハルの笑顔を見ることはとうとうなかった。
それからどれだけの月日が経っただろう。
喜助が目覚めた時、目の前には見知らぬ老人が立っていた。わけがわからなかった。とても長い間眠っていたように感じられるし、長い夢を今も見続けているように思える。頭がはっきりしないまま呆然としていると老人のほうが話しかけてきた。
「お前は、本当にあの喜助なのか?」
この老人は喜助の名前を知っていた。どういうことか全くわからない。何がどうなっているのか、自分が今までどこで何をしていたのか全く思い出せない。よく見ると老人は傷だらけだった。白装束の所々が破れていた。まるで刃物で何箇所も切り裂かれたように、衣服が破れた所には血が滲んでいる。
『お前は何者なんだ? どうしてオレのことを知っている?』
喜助がじっと老人の目を見据えると、胸がわずかに騒いだ。自分はこの目を知っている。でもそんなはずはない。この目をした人物はもっとずっと若いはずだ。その血筋の者なのだろうか?
そわそわした気持ちになり、それを取り繕うように顔を洗おうと前足を舐めようとして驚いた。喜助の爪に血が付いていたのだ。はっとして老人の傷跡と自分の爪とを見比べ、恐ろしい結論に達しようとしていた。この老人を傷つけたのは自分なのか?
そんな記憶はない。覚えがない。動揺していると老人が近づき、手を差し伸べてきた。
「喜助、怯えることはない。今のお前に何の罪もない。お前はただ我を忘れていただけなんだから」
そう言葉をかけ、ふと老人の視線が気になった。彼は喜助の尻尾を見つめている。なぜかと思い喜助もまた自分の尻尾に目をやった。
『なんだ、これ……』
喜助の灰色と黒の縞模様をした尻尾が二又に分かれていた。尻尾が二本生えている。
「喜助、お前は猫又になったんだよ。……ハルさんをその手にかけることなく、な」
その老人がハルの名を口にした時、喜助は察した。この老人が何者なのか。自分とハルの関係、そして何より自分の正体を知っている。そんな人間はこの世に一人しかいない。
『お前は猫又征四郎、なのか?』
年老いた猫又征四郎の話によると、あの事故から五十年もの月日が経っているという。当然すぐに信じられるはずがなく、ただその言葉をどうやって咀嚼したらいいのかわからない。それだけの年月を費やしたという実感もない。突然そのようなことを言われても戸惑ってしまう。それが正常な反応ではないか?
それでもこの老人が嘘を言っているようにも見えない。彼が本当に猫又征四郎であるなら、そのような嘘をつくことはないのではないだろうか。初めて会った時からいけすかない人物であり、喜助にとって憎らしい男であったが、決して浅はかな男ではなかった。喜助が戸惑っていることを察した猫又征四郎はそれ以上何があったのかという説明をすることなく、ただ手を差し伸べ「一緒に行こう」とだけ言った。
猫又征四郎に連れて来られた場所は喜助が全く知らない場所であった。そこはお世辞にもあまり広いとは言えない神社であったが、清掃が行き届いており廃れた雰囲気はなかった。ちらと目に入った「猫又神社」というこの神社の名称を見て、恐らくここは猫又征四郎の神社なのであろうと理解した。鳥居から社殿までまっすぐ伸びた石畳、周囲は雑木林に囲まれ今にも雨が降りそうな曇天のせいか、やけに鬱蒼としていたが決して陰気なものではない。社殿の両脇には狛犬の代わりに尻尾が二又に分かれた猫が招き猫よろしく居座っている。猫又征四郎という名前といい、この猫又神社といい、そして自分のこの姿といい。滑稽に思いながら喜助がそのまま黙って征四郎の後ろをついていくと、境内から一人の老女が姿を現した。
喜助の胸がぎゅっと締め付けられる。紹介されなくてもわかる。どんなに月日を重ねようともその面影は間違いなくハルのものであった。
「征四郎さん、お仕事の方はどうでした?」
穏やかな物腰におっとりとした静かな口調。柔らかく微笑むその表情は喜助が愛してやまないハルの笑顔そのものだった。確かにハルは年老いていた。黒く艶やかだった黒髪はすっかり白くなり、顔もシワが目立ちどこからどう見ても年老いた女性であったが、その微笑みはなぜか少女の頃だったハルの面差しそのままだった。
『……ハル!』
激しい感情に突き動かされ、喜助は思わず大声でその名を叫んだ。喜びが止めどなく溢れていく。まさか再会出来るとは思ってもいなかった。愛する主人にこうしてまた抱かれる日をずっと待ち焦がれていたかのように、喜助はハルの足元へと駆け寄った。
「征四郎さん、お怪我を……。今すぐ手当しないと」
駆け寄った喜助に目もくれず、ハルの視線はまっすぐ猫又征四郎一人に注がれていた。まるで足元にいる自分のことなど目に入っていないかのように。そこに存在していないかのように。名前を呼んだことに気付かれなくても驚きはしない。言葉が通じないことはわかっていたはずだ。ただ喜助がハルの名前を呼んだとしても、言葉で通じなくても声は届くはずだから。鳴き声ならハルにだって聞こえているはず。そうして目の前に現れたかつての愛猫を歓迎し、懐かしんで、また昔のように抱き抱えてくれると本気で信じていた。
しかし現実はどうだろう。ハルは足元にいる喜助を無情にも通り過ぎて征四郎の元へ歩いて行く。そのまま征四郎の手を引き、境内の奥にある本殿の更に奥にある建物(恐らく住まいだろう)へと連れて行く。何が起きているかわからず見上げる喜助に、征四郎は深い悲しみを帯びた瞳で見つめ返した。手を引くハルに対し征四郎は足を止めると、静かな口調で告げた。
「ハルさん、私は大丈夫。それよりみゆきさんの様子を見てきてください。身重では何かと不便でしょうからね」
征四郎の言葉にわずかに首を傾げるハル。それでも征四郎に反論することなく(まるで何かを察したかのように)元来た道を戻って行ってしまった。そんなハルの後ろ姿を見送っていると征四郎が語りかける。
「先に言っておいても余計混乱するだけだと思い黙っていたが、それでもお前を傷つけることに変わりはなかったな。すまん」
初めて聞く征四郎の謝罪の言葉に喜助は何も言えなくなった。さきほどのショックも手伝っているのだろうが、とても憎まれ口を叩けるような心境ではなかった。ただ一言「どうして」としか口にできない。それだけ今の喜助は混乱と不安で心が押しつぶされそうになっていた。
「最初にも言ったが、お前は猫又になった。猫又とは妖怪の一種だ。妖怪自身の意図、もしくは私のような力のある人間でない限り普通の人間の目に止まることはない」
だからハルには自分の姿が見えなかったというのか?
『言葉だけじゃなく、姿まで見えなくなってしまったってことかよ?』
喜助は震えた。怒りに震えているわけではない。
『じゃあ結局猫又になったって、ハルと喋ったり抱っこしてもらったり出来ないってことなのかよ……!』
喜助は一度死んだ。そしてどういうわけか長い年月の果てに猫又と成り果て、こうしてまた最愛の飼い主の元へと戻ってきた。
なのに喜助に得られたものは何もなかった。
昔のように戻れると一瞬でも信じていた、その希望が絶望へと変わった。今度は姿さえ認識してもらえない。いや、何十年も前に死んだ猫が、まさか戻ってくるとはさすがのハルでも信じたりはしないだろう。それでもやり直すことは出来るかもしれないと少しは期待していた。昔飼っていた猫と瓜二つの猫が現れたといって、もしかしたらそのまま同じように飼ってくれたかもしれない。そんな風に楽観的なことを考えていた。
だけど現実はもっと残酷だった。今度は自分のことすら目に映ることはない。目の前にいるのに、どんなに近くに、どんなにそばにいたところで、相手は自分のことなんて「いない」も同然となったわけだ。
――こんなの望んでない!
泣き崩れる喜助をあざ笑うかのように、曇り空から一転して大粒の雨が降り出し、喜助の小さな体を打ち付けた。