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雨の日の記憶(11)~猫又征四郎~

謝罪の前に投稿することで応えようと思った次第です。

 猫集会が終わった時のことを喜助はよく覚えていなかった。

 頭がぼんやりとしたまま他に何も考えることが出来ず、ただ足取り重く家路についたことだけは確かだ。今こうしてハルがわざわざ手作りしてくれた喜助専用の座布団にうずくまっていることが、なんとか無事家に帰ったという何よりの証拠だろう。

 ただ喜助にわかることは、長老の長い話が明け方近くまで続いたことと、いつものように足取り軽く家々の屋根を伝って戻ってきたわけじゃなかったことくらいだ。

 ハルの家族が起床してくる頃合いに喜助は帰宅していた。それだけはぼんやりと覚えている。喜助が外出してはならないことはハルの口から家族全員(ハルをいじめる憎たらしい義母以外)に知らされていたので非常に危うかったが、家族の目を盗んでハルの部屋に戻ることが出来たというのは、頭の中がごちゃごちゃになっていて集中力が散漫になっていた喜助にとって幸運だった。

 住み慣れたハルの部屋に戻るなり、喜助は布団で眠るハルの横顔を一瞥しただけですぐさま視線を逸らし自分の寝床へと居座った。そのまま体を丸めて眠りにつこうとする。

 思考が上手く働かないくせに長老の言った言葉だけは何度も何度も喜助の脳裏を駆け巡っていた。


 ――猫又になるには、愛する者を、殺さねばならない。


 そんな者、ハル以外にいなかった。いるはずがなかった。

 喜助にとってこの世で最も大切で、この世で最も愛する存在はハル以外に考えられなかった。だからこそこんなに苦しい。ようやくハルと言葉を交わすことが出来るかもしれないと喜んだ矢先に、この宣告である。

 何の確証も保証もなかったが、もしかしたらいつかハルと本当に会話出来る日が来るかもしれないと思っていた喜助にとって、この話はそれまで抱いてきた夢や希望といった願望そのものを真っ向から否定された瞬間だった。それこそ死刑宣告にも等しい言葉だった。


 やがて夜が明けると家族がそれぞれ活動を始め、ハルもいつものように布団から起き出して真っ先に喜助の存在を確認する。喜助が自分のすぐそばにいることがわかれば笑顔で「おはよう」と挨拶をする。毎朝の日課だ。いつもなら喜助が先に目覚めていてハルが挨拶してくるのを待っているか、ハルの挨拶で目覚めてから返事をするかだったが、今の喜助に言葉を返す気力すらなかった。それを怪訝に思ったハルは喜助の体調が悪いものかと心配したが、それに気遣う余裕すら今の喜助には残っていなかった。


 ハルを殺す……。

 ハルを、殺す?


 やはりそんなこと出来るはずがない。

 ハルをこの手にかける位なら、猫又になる必要なんてどこにもない。

 むしろそれを強制されるくらいならば喜助は自らの死を選択していることだろう。


 喜助がその答えに至るまでにおよそ三日はかかってしまった。

 我ながら本当に情けないと思う。そもそも猫又になりたいと思った一番の理由は、ハルと会話がしたかったからだ。お礼を言いたかったからだ。その肝心なハルがいなければ何の意味も成さない。全くの無意味だ。なぜこんなに悩んでいたのか喜助自身が不思議に思う位だった。


 思い悩んでいたこの三日間、ハルは喜助が病気になってしまったんじゃないかと、それはもう心配したものだった。家にいる間はずっと喜助のそばに寄り添い、食事をするよう促し、夜も喜助を自身の座布団ではなくハルの布団の中に入れて添い寝までしてくれた。

 喜助が体調不良だと思われる最も大きな要因といえばやはり食欲である。喜助は非常に食欲旺盛で、出された食事は器ごと舐め尽くすのではないかと思うほどきれいにたいらげてしまう。それが今ではほとんど食事も喉を通らない状態だったのでさすがにこれはおかしいと思ったハルが獣医に診せようとした時に、慌てた喜助は無理矢理にでも食べ物を胃袋におさめたものだ。

 喜助の食べっぷりを見てハルの心配も少しは和らいだようだったが、それでもまだ不安があったせいか、よりにもよって喜助にとって天敵でもある猫又征四郎を家に呼んだ。


 喜助はいつものように座布団に座ってぼうっとしたまま、開け放した襖の向こうに見える庭の景色を眺めていた時だった。その日は小雨で、庭先に咲いていた紫陽花が雨に打たれる度にかすかに揺れる様をなんとなく見つめていた時、突然目の前が真っ黒になったのでぎょっとした。驚いて見上げた先には真っ黒いものの正体がこちらを凝視している。

 久しぶりに見たせいか、喜助は憮然とした気持ちになる。表情のない無愛想な顔がこちらを真っ直ぐに向いていたかと思うと、後から来たハルの方へと向き直り喜助を指さす。


「病気なんですか? 肥満が原因ではなく?」


 会うなり無礼な物言いに喜助は怒りを覚えた。どうしてこいつはいつも自分を怒らせることしかしないんだろう。そういった理不尽な態度や言い方が気に食わず、喜助は先程まで居心地良かったハルの部屋が、急に息苦しい場所のように思えてきた。自分がどんなに動きや鳴き声で訴えかけても、それはきちんとハルに通じることはない。

 喜助が猫又征四郎のことが大嫌いなんだとハルは一向に理解してくれないのだ。この男がこのまま本格的にハルの隣に居座ることがわかった時、喜助が取る行動は二つしかなかった。

 徹底的に二人の間に割って入って邪魔をするか、二人が仲良くしている姿を見ないように喜助自身がその場から離れるか、だ。

 喜助は後者を選択した。ハルとこの男が自分の見ていない場所で仲睦まじくしているのはとても腹立たしいことだが、天気と同じく沈んだ気持ちでいる今の喜助に二人の邪魔をする気力はなかった。どちらかといえば今は独りでぼんやりしていたい。

 そう決めた喜助が座布団から立ち上がりその場を去ろうとしたその時、ハルが喜助を抱き上げ再び座布団に座らせた。一体何事かと思った喜助はハルを見つめ、なんとか瞳だけで訴えてみる。自分はここにいたくないのだと。

 理由を求める喜助の気持ちが通じたのかどうかわからないが、ハルはいつも喜助とは気持ちが通じているかのようにきちんと口に出して説明をしてくれる。


「どこか行きたいのかもしれないけど今はちょっと待ってね喜助。今日は喜助に会ってもらうために征四郎さんを呼んだんだから」


 理由は聞けたが、その意図も理屈も喜助には理解し難いものだった。喜助と猫又征四郎はお世辞にも仲が良いとはとても言えない。むしろハルの家の者全員が不仲だと承知しているくらいなのだ。もっとも征四郎はともかくとして彼に敵意を剥き出しにして近寄ろうともしない喜助の方が征四郎を嫌っている、と言った方が正しい。ハルは純粋で、恐らく喜助と征四郎が不仲であるとは微塵も思っていないように喜助は考えている。下手をすれば喜助が征四郎を嫌っていることすら思っていないかもしれない。

 ともかく征四郎との対面を余儀なくされた喜助は仕方なく座布団の上に座り直した。もちろん憎き男の方は見ようともせず。


「それじゃ私はお茶を用意してきますからちょっと待っていてください。喜助、お利口にして待っているのよ」


 穏やかな口調であったが釘を差したようにも聞こえた。そう言われてしまっては聞かないわけにいかない。自分はハルにとって最高の飼い猫でいなければならない。とりあえずその場を去ろうとはせずに無視さえしていればいいだろうと自分に言い聞かせ、猫又征四郎の存在を完全にないものとするよう努力した。

 ハルが部屋を出てすぐに猫又征四郎が言葉をかけてきた。


「猫又になるため、ハルさんをその手にかけるのか」


 喜助は自分の心臓がそのまま胸を突き破って出てきてしまうのではないかというほど驚愕した。存在をないものにしようとした直後なのに喜助は真っ直ぐに男の顔を、瞳を見つめる。その言葉は確認するようであり、阻止してやる、という気迫も込められていた。あまりに突然の出来事だったので喜助は憔悴してしまった。今何が起きているのか整理できないでいる。

 そんな喜助の狼狽ぶりを見て再び征四郎が話し続ける。


「忠告はしておいたはずだ。それを破り、お前は知ってはならないことを知ってしまった。あるいはそれを知らされなくても本能がそれを察したかもしれない」


 この男は知っている。

 直感的に喜助は悟った。


「ハルさんによればお前は随分と長生きをしているようだな。十年を超えた猫が辿る道を、あるいはその資格がお前にあることを。だがそれは残酷な選択でしかない。ハルさんのためにだけ言っているんじゃない。お前のためでもある。猫に対しても人間性という言葉が合うのかどうかわからないが、大切な者を奪ったが最後、それはお前の中に芽生えた人間性を失うことでもあるんだ」


 一部の猫だけが得られる資格、そしてその試練。明らかに猫又征四郎は、喜助が猫又になるか否かの話をしている。どういう経路で知ったかも恐らく先ほどの言葉から察しているのだろう。なぜこの男にここまで喜助の事情がわかっているのか。


『どうしてそのことを知っている? お前は一体何者なんだよ!』


 我を忘れた喜助は征四郎に問うていた。自分の声が、言葉が人間相手にどう聞こえているのかはわからない。恐らく他の普通の猫と同様に鳴き声として聞こえているのだと思う。傍から見れば少し奇妙な光景と言えよう。

 問うてみて、喜助は何をバカなことをしているんだろうと後悔した。普通の人間と猫が会話できるはずがない。それはハルのことですでにわかりきったことだ。ハルとは気持ちの上で通じているのだろうが、決して言葉として成立しているわけではない。

 それくらいは喜助が一番承知していることだった。にも関わらず物事は喜助の考えを遥かに凌駕していた。


「お前の言葉が通じていないとでも思ったか? 俺はずっとわかっていた。恐らく初めて対面した時からな。別にそこらにいる猫の言葉が全部わかるわけじゃない。それはお前が特別だったからだよ」


 驚きを隠せない喜助を見つめたまま、征四郎は更に言葉を続ける。


「まだ知識の浅いままのお前に言っても理解出来ないかもしれないが、俺には陰陽師としての才能があるらしい。表向きには平凡な学生として振る舞ってはいるが、裏では陰陽師としての修行をしている。だからわかるんだ。霊的な存在、妖と呼ばれるモノ。それらが棲む世界を俺は見てきた。喜助、お前は今まさにその狭間に立っている。このまま普通の猫として天寿を全うするか、それとも猫又の試練を乗り越え、妖として生まれ変わるか」


 そう説明した後に、征四郎は一言付け加えた。喜助が猫又の試練を受けないよう止めに来たのだと。喜助は征四郎と初めて会った時から憎むべき相手として、愛する飼い主を自分から奪おうとする略奪者だと決め付け、ずっと敵視していた。それなのになぜこの男が喜助のためにわざわざ出向いたのか。唐突なことが次々と起きたせいで最初は上手く飲み込めなかったが、ようやく話の内容を思い出し、理解していく。

 この男も、猫又征四郎もハルを失いたくないのだ。喜助と同じように。

 だからこそ止めに来たのだ。喜助が過ちを犯す前に。


 見くびられたものだ。


『ふざけんじゃねぇ! オレがハルを殺すとでも思ってんのかよ。そんなことするわけねぇだろうが!』


 喜助は声の限りに叫んだ。征四郎が抱いている誤解が許せなかった。喜助は自分の気持ちを踏みにじられたと思った。征四郎は確かに言った。「ハルをその手にかけるのか」と。それはつまり、喜助がハルを殺すかもしれないと思ったからだ。

 喜助に拒絶されていることを承知の上でわざわざハルの家まで乗り込み、今になって洗いざらい自分の正体を明かしてまで止めに来たのだ。それだけ喜助のことを疑っていたことになる。喜助のハルへの気持ちを疑っていることになる。

 その誤解だけは絶対に許されなかった。


『長老は言った。猫又になれば人間の言葉を話すことが出来るって。会話することも可能になるだろうって。確かにオレは喜んだ。ハルと会話できるのが夢だったからな。でも現実はそうじゃなかった! 猫又になるにはオレにとって一番大切な人間を殺さなくちゃいけないんだ。オレが一番大切な人間はハルだ。ハルだけだ。ハルしかいないんだよ! だからなれるわけねぇ! ハルと会話がしたいのに、ハルを殺しちゃ意味がねぇんだよ! そんなんで猫又になったって何もならないんだ! お前は間違っている! オレがどれだけハルを大切に思ってるかわかってない! お前なんかよりずっとずっとずっとずっと! お前がハルと会うずっと前からオレにはハルしか大切な人はいないんだよ! わかったか!』


 そう叫びながら喜助は自分でも知らずに涙を流していた。自分でも気付かない内に、いつの間にか怒声は涙声となり、嗚咽混じりに叫んでいた。自分の本音も怒りも何もかも全部吐き出して、それでも悔しさだけは今もまだ収まりがつかず、むき出しになった爪で畳をガリガリと引っ掻いていた。


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