雨の日の記憶(10)~猫集会~
「喜助よ、お前が我々の呼び出しにすぐさま応じなかったのはひとまず不問といたそう」
暗闇の中、一際明るい満月の光が猫達を不気味に照らし出す。
深夜を過ぎた頃、喜助はハルの家からさほど遠くない空き地に呼び出されていた。呼び出したのは先程しわがれた声で喜助に話しかけていた老猫。
その白い毛はすっかり薄汚れており艶やかさは微塵も残っていない、野良猫ならば殆どがそのような毛並みとなっている。
この老猫も当然野良猫であるが、この町一体を仕切る「長老」として君臨する程の猫だ。白い毛をした老猫は人間が住む平屋一軒分ほどの広さがある空き地の真ん中に置かれた土管の上に鎮座しており、土管の周囲には数十匹の猫達が控えていた。
喜助は土管から少し離れた場所に老猫と向かい合うように座っている。喜助の周囲にも町中の猫という猫が集合していた。その光景はまるで裁判官に裁かれる罪人のような様子であった。
猫達は静かに喜助と老猫を見守る。中には煽るように低く鳴く猫もいたが、それは老猫と同様にこの中でも格上であろう猫が威嚇し黙らせていた。
老猫は喜助を見据え、値踏みするような視線で言葉を続けた。
「野良達の報告によりお前が人間によって軟禁されていたのは認める。だがお前がその気になれば人間の目を盗んでここまで来ることは容易かったはずだ。なぜ我々の呼び出しにすぐさま応じなかった? お前にとってとても重要な儀式の内容だったのだぞ」
咎めるように問いただすが喜助は口をつぐんだまま沈黙を貫いた。喜助はわかっていた。この老猫に逆らうと一体どうなってしまうのかを。かつて一昔前、まだ喜助が子猫だった頃にこの町を支配していたボス猫は一匹の猫によりその地位を奪われていた。
それが今喜助の目の前にいる老猫のことであり、それ以来この町の長老であり同時にボス猫として全ての猫達を自分の支配下においているのだ。
この老猫に逆らえば町に住む全ての猫を敵に回すということになる。そうなれば喜助自身の命はおろか、最悪の場合喜助の飼い主であるハルにも危険が振りかかるかもしれない。それだけはなんとしても食い止めねばならなかった喜助は、あれ程ハルから外出するなと言われていた約束を破り、こうして老猫の呼び出しに応じたのである。
あくまで飼い主のハルに関しては何も話さないように注意だけは怠らなかった。この時の喜助は猫又征四郎のことなど微塵も頭になかった。そもそも喜助が外出してはならないと忠告したのはこの男の言葉から始まったということなどとうに忘れ、喜助はただ一途にハルの言いつけとして従っていたに過ぎなかったのだ。
どんなに問いただそうとも決して口を割ろうとしない喜助の態度に老猫はひとつ溜め息をつくと、やがて諦め本題に入った。
「まぁいい、そのことはちょっと調べればわかることだ。しかし今はそんなことを問いただしている場合ではない。喜助、お前に大事な話があることはさっき話したな? お前はこの世に生を受けてもう十年を超える頃だ。野良猫の寿命は短い。飼い猫として人間の庇護のもとで育てられればそれなりに長生きもするだろうが、それでも資格を得るには特別な能力が必要となる。喜助、まさにお前がその能力を有しているといってもいい。お前は選ばれたのだ」
厳かな中にもどこか畏怖しているように感じられる老猫の口調に喜助は首を傾げた。自分が一体何に選ばれたというのだろう。
全く要領を得ない内容に喜助はつい口を出してしまう。
「選ばれたって、このオレが一体何に選ばれたっていうんだよ?」
「口を慎め! お前が試練に選ばれた猫だとしても、立場が変わったわけではない!」
老猫のもっとも近くに控えていた黒斑の猫が怒り心頭といった様子で喜助を怒鳴った。その迫力に喜助は一瞬怯んだが、それでもわけのわからない猫集会に呼び出されたことに合点が行かず黒斑の猫を無視するように再び老猫の方へと視線を戻した。
老猫は尻尾を一振りするなり黒斑の猫を睨め付ける。それが「黙れ」という命令だと察した黒斑の猫は喜助に対して不快感をあらわにしたまま押し黙った。
気を取り直し、老猫は喜助の疑問に答えた。
「我々猫族は非常に強い霊感を持っておる。霊感というものが一体何なのかわかるか? お前も今までに感じたことがあるだろう。感覚の鋭い者ならばその気配を己の目で見ずとも察知することが出来る、生者とは異なる者の存在を認知する能力のことじゃ。他にも霊力を操ることで凄まじい力を発揮することもある。だがこればかりは完全に覚醒しなければ得ることの出来ない能力じゃ。猫族の殆どは前者の、死者の存在を感じ取り、その目で見ることが出来るのじゃ。中にはそれに触れたり言葉を交わしたりすることも出来る。猫族なら誰しも経験したことがあるだろう。誰もいるはずのない場所が妙に気になったり、何かの気配を感じ取っては全身の毛が逆立つという出来事が。未熟な者ならば肌で感じるだけじゃが、鋭い者なら先程言ったようにその存在を目で見ることも可能なのじゃ。そうすることで危険を回避することもある。目で確認出来ない者は不穏な気配に対して本能的に危険を感じ、その場にいることを拒絶しておるだろうがな。――霊感というものについて少しは理解したか?」
老猫の長い説明にあくびが出そうになったのを堪えながら喜助は「理解した」と仕草だけで伝わるように、しっかりと頷いた。
正直なところ喜助は老猫の先程の説明の半分も理解していない。わかったようなわからないような、右耳から聞こえた内容がそのまま左耳を通過するような、そんな感覚で聞き流していた。この老猫が言いたいのはようするに「とても不思議な能力を猫族が持っている」ということなんだろうと喜助はざっくばらんに理解した。
喜助の快い返事に気を良くしたのか、老猫は猫背になっている背中を少しばかり、ほんの気持ち程度だが背筋を伸ばすようにしゃんとして見せた。ふんぞり返ることで自らの偉大さを強調させているようでもあった。
そんな老猫の態度すら気に止めず、喜助は早く本題に入って欲しいというような態度で落ち着きなく尻尾を上下に振っていた。
「そんな猫族の中にも特別な力を持つ者が極稀に現れる。それは幼い頃から人間の言葉を理解する能力を持つ猫のことだ」
老猫の言葉に喜助は目を丸くした。人間の言葉を理解することがなぜそんなにも特別なのか理解出来なかったのだ。喜助はハルに拾われた時からなんとなくではあるがハルの言葉を理解していた。色んな物の名前や、それがどういったものなのかを理解したくて、自分が興味を持っていることを仕草などでハルに伝え、そして教わった。人間の言葉を話すことはさすがに出来なかったが、そういった簡単な意思の疎通はそれなりに出来ていたことを、喜助は「普通」だと思っていたからだ。
現に今もハルの言葉だけではなく、どんな人間の言葉もさほど難しい単語や内容でなければ理解出来る。
それがそんなに珍しいことだったのかと喜助は今初めて知ったのだ。
喜助の驚いた様子に気付いていないのか、老猫は更に続けた。
「お前とこうして直接面と向かって話をすることはこれが初めてだが、儂は他の猫達からお前に関して色々噂を聞いているぞ。人間が言っていたことを聞き、それが何と言っているのかちゃんとわかっているようだとな。我々には理解しがたい不可思議な道具の用途や使い方から、人間が大量に捨てた食料の隠し場所の数々。中には腐っていない食べ物も混じっていることで餌にありつくことが出来た野良もたくさんいる。そうした人間の知恵を逆に我々が利用出来るよう、喜助……お前が気まぐれに教えた結果救われた同志も少なくない。そんなお前の噂話から儂は悟ったのじゃ。お前は猫族の中でも特殊な能力の持ち主であり、試練を受けるに値する選ばれた猫じゃとな」
そこまで老猫が言い終えた時、喜助は思った。「長老の話は回りくどい」と。いつになったらこの話が終わるのだろうかと喜助が夜空を仰いだ時、老猫はようやく試練について語りだした。
「お前のように特別な能力を有する猫が十年という歳月を生きた時、試練を受ける資格を得ることが出来るのじゃ。その試練に合格することが出来た猫は超越した力を得ることになる。『猫又』……という存在を知っておるか?」
老猫の口から出てきた言葉に全く聞き覚えのなかった喜助は、ぽかんとした表情で同じ言葉を繰り返しぽつりと口にしていた。喜助が初めて聞く名だと知った老猫はまたしても自分の博識さに浸っているのか、目を細め自慢げに説明を始める。
「猫又とは人間の世界でいうところの化け猫に分類されるようじゃが、我々の間では猫族の中でも格の高い存在として認識しておる。特殊な能力を持って生まれ、長い年月を生き、様々な知識を得た猫だけが初めて受けることの出来る試練。それが猫又になる試練なのじゃ」
老猫の言葉から「猫又」というものがとても偉い存在なんだとぼんやりとした感覚で捉えた喜助は、自分がその猫又になれる素質を持っているんだと聞かされて単純に胸が踊った。ハルの飼い猫であることに何の不満もない。喜助は自分が生きる限りずっとハルと共に過ごすことが出来ればそれでいいと思っているからだ。
しかしこの言葉で喜助にある期待が芽生えた。今まで生きてきてずっと願っていたこと。
ハルと会話出来るようになりたい。
いくらハルの言葉を喜助が理解していようと、喜助自身の言葉でハルに気持ちを伝えることが出来なければまるで意味がなかった。多少なりの意思疎通がはかれていたとして、どうしてもハルの一方通行に話や行動が進んでしまうことは事実。
現に今だって猫又征四郎の言葉に従って喜助を家に閉じ込めようとしているハルの行動に喜助は未だ納得していなかった。喜助がハルと会話が出来るようになれば、猫又征四郎の言葉なんて聞く必要なんてないのだと自分の口で伝えられるようになる。
それだけではない。他にももっとハルに伝えたいことはたくさんあった。
何よりの気持ちを。
今まで仕草や行動でしか示すことが出来ていなかった。
それだけでは伝わりきれない思い。
ありがとう、という感謝の言葉を。
それが猫又という存在になれば出来るようになるのかもしれない。
喜助にとって喜ばしいことだった。ハルと会話出来るようになるのかもしれない、という思いで頭が一杯になっていた喜助であったが、たくさんの猫に囲まれ、目の前に老猫がいるという現実に戻った途端にもうひとつ利点となることに気がついた。
老猫が言うように猫又という存在が何よりも格の高い存在ともなれば、もしかしたらこの老猫より位が高くなるのかもしれない。もし自分が猫又になれたなら、偉ぶっているこの老猫よりも自分が上の立場になれるかもしれないと単純に思いついた。
そうすればこんな退屈で興味のない猫集会に強制参加させられることもなくなるだろうし、ここに集まっている猫達を自分が思う通りに命令して動かすことだって出来るかもしれない。
自分が猫達の頂点に立つことに今まで何の関心もなく、想像すらしたことなかったが、いざそれが可能となる地位が目の前にちらつけばそういった考えをついつい巡らせてしまうものだ。
しかしそれもあくまで「ついで」だった。喜助にとってもっとも重要なことは猫達を自分の思い通りに動かせる権限ではなく、もっと別のところにあることは思いついた順番で容易にわかることだ。
真っ先にハルのことが頭に浮かび、それを強く願った喜助。
それこそが喜助の一番の望みであることを改めて理解し、それだけ喜助にとってハルは特別な存在であることを再認識した。
喜助の頭の中が「ハルとの会話」で夢中になっているところに、老猫は全く気付かず話を続けている。
試練に関して詳しく話を聞いておかなくてはいけないと慌てて現実に舞い戻った喜助は、先程より明らかに異なる真面目な態度で老猫の話に真剣に耳を傾けた。
「さて、猫又になる試練に関してじゃが……。この試練にはひとつ条件がある。それは試練を受ける猫にとって最も必要な存在じゃ」
老猫が切り出してきた「必要な存在」に、喜助はすぐさまハルの顔が頭の中に浮かんだが構わずに話を聞く。
「試練を受ける猫に必要な存在、それは自分に愛情を向ける人間のことじゃ。飼い猫ならば単純にその飼い主となる。まぁこれは一概にそうだと言い切れんがな。飼い主の中には猫を虐待する者だって少なくない。そんな飼い主ならば試練に必要な材料にならん。なぜなら試練を受ける猫自身もまたその材料に対して愛情を抱いていなければいけないからじゃ」
それなら何も問題はないと思い、喜助はひとまず安心した。これで何か苦労しなければ資格が得られないと言われてしまったら、面倒くさがりの喜助のこと。それでいきなりやる気が失せる可能性も否定出来なかった。
例えそうだとしてもハルと会話出来るようになるという目的がある以上は重い腰を上げるつもりでいたが。
とりあえず老猫が出した条件を喜助は満たしていることになる。喜助の慌てた様子のない態度に老猫はそれを察したのか、特に問題にすることはなく話を続けた。
「喜助よ、問題はここからじゃ。よーく聞くがいい」
急に老猫の言葉に重みが増した。先ほどと極端に声のトーンが下がったと喜助が気付いた時、周囲の猫達の様子も少し変化した。老猫の側近である黒斑の猫が威嚇したことにより沈黙を保っていた猫達の、特に喜助同様に長い年月を生きてきた猫や野良生活の長い屈強な猫の態度が重々しくなっているようであった。
その態度はどこか並々ならぬ同情の色を表している。気の毒そうな、まるで何か酷い宣告をこれから喜助が受けるような、そんな悲哀に満ちた眼差しにも似ていた。
「猫又になる試練を受ける猫はな、自分を愛し、そして愛した飼い主を……殺さねばならぬ」
とてつもない衝撃が喜助を襲った。
その話を耳にした直後、喜助の中で「ハルとの会話」という願いが永遠に叶わないことを、喜助は理解した。
亀更新の中、ここまで読んでいただき誠にありがとうございますm(_ _)m
この話から猫又の誕生秘話が明らかとなります。
私がこの「猫又と色情狂」という話を書こうと思い立ったのは、この話を思いついたことがきっかけです。
どうぞ出来るならば最後までお付き合いお願いします。
ものすごく執筆速度が遅いですが、完結へ向けて努力いたします。