雨の日の記憶(7)~宿命の好敵手との出会い~
『ねぇハル、これはなに?』
全身に灰色の縞模様があるキジトラ猫、喜助は興味深そうに雨で濡れた地面の中へ潜って行こうとするミミズに鼻先を近付けて一鳴きする。
びくびくしたように前足でちょんちょんとミミズを突くように、前足の先が少し触れたら瞬時に引っ込めるという仕草を繰り返す喜助の行動を見たハルは、くすくすと楽しそうに笑っている。
「あんまりミミズさんを苛めては駄目よ、喜助」
『みみず? こいつ、みみずっていうのかハル!』
勿論ハルには喜助の言葉など理解出来ていない。それでも彼等はまるで意思の疎通が出来ているように一緒になって中庭を駆け回っていた。まるでこの世に存在する数多の物事をハルに教わるように、喜助は色んな物に興味を示してはそれが何かをハルに訊ねた。
『これはなに?』
『ねぇ、これは?』
『なんだこれ、へんなの!』
『ねぇハル! おしえて、おしえて!』
自分が知りたい事をハルは笑顔で教えてくれる。喜助は最初、ハルには自分の言葉が通じているのかと錯覚していた。しかし細かな内容がハルに伝わっていないことから、ハルは自分の所作を見て勘を働かせ察してくれているのだと理解する。
はっきりと言葉が通じているわけではなかったが、喜助にはそれで十分であった。
あの地獄のようなダンボール箱の中での時間が嘘のように、あれがまるで質の悪いただの悪夢だったかのように、今では何もかもに喜助は満たされていた。
温かい寝床、毎日ちゃんと食事を与えてもらえ、大好きなハルと一緒に過ごすことが出来る。
喜助は今、心底満たされていた。
しかし問題が何一つなかったというわけではない。
ハルを毛嫌いする存在、継母のことが喜助は大嫌いであった。
何かにつけてハルに文句を言っては叱り、酷い時には体罰も辞さなかった。その度に喜助は小さな体で必死に継母を威嚇したが、それは全くの逆効果となって更にハルを窮地に追いやる助けとなってしまったのである。
自分にもっと相手を恐れさせるだけの力があれば、あの継母からハルを守ってやれるのに。それが喜助にとって唯一の悩みの種であった。それでもハルには味方がたくさんいたことに変わりはない。
どういった経緯があるのか喜助にはわからなかったが、継母の実の息子である兄弟は自分達の母親よりむしろハルに味方することが多かったのだ。喜助の手に余る事態に陥っても、この兄弟――特に長男を連れて来さえすればハルが守られる事を喜助は知っていた。
『くそ……、ぼくだってハルをまもってやれるのに。ただちょっとちからがたりないだけなんだ……』
そうぼやいたところで小さな猫が大の大人に立ち向かったとしても全く歯が立たないことは、喜助にも十分理解出来ていた。でも喜助が人間の言葉を話せたなら、それで継母に文句を言ってやることが出来たなら自分にだってハルを守る力になれるのだと、喜助はそう信じていたのだ。
ハルの父親に関してはあまり戦力として喜助は考えていなかった。確かに父親はどちらかといえばハルの味方になることが多かったが、それでも継母がハルを毛嫌いしていることを認知していながらも、そのことに関して少し注意をするだけで殆ど放置しているに過ぎなかったからだ。
ハルが苛められているのを知っていて、それで継母に罰を与えない父親の事が喜助は好きになれなかった。
人間社会のことはまだよくわからない。
この家の主はハルの父親だ。それに逆らっている継母を糾弾して縄張りから追い出さない辺り、人間というものは犬とも猫とも全く異なる価値観を持っているのだと喜助は勝手に理解した。
月日は流れ、喜助もハルも成長した。
継母による確執があったものの、喜助もハルも幼い頃と全く変わらぬ愛情を分かち合い、そして互いになくてはならない存在へと関係を育んで行った。
そんな時だった。喜助の前に「敵」が現れたのは。
『ハル……、こいつ誰?』
喜助とハルが出会ったのは、ハルがまだ五歳かそこらの頃。
今や十五歳という年齢を迎えたハルはこの地区で最も優秀な学院の女学生へとなるまでに成長していた。
そんなハルが、ある日一人の男を家に招いたのだ。
黒髪の短髪、ほんの少し日に焼けた肌をしており、瞳は聡い雰囲気を醸し出している。体つきは軍人として数年前に家を出た頃の長男とさほど変わらず、割としっかりしていた。
だが男の顔には無愛想といってもよい仏頂面の面が張り付けられており、その顔つきが更に喜助を不快な気分にさせた。
そもそもハルが見知らぬ男を家に招くことは非常に珍しいことである。ハルがまだ十かそこらに通っていた学校の同級生で、喜助がハルと出会う前から幼馴染みであった犬塚呂尚以外に、この家に他人の男が出入りすることは滅多になかったのだ。
玄関前で喜助は座り込んで、喜助が居ることでなかなか家に上がれないままの男と睨み合いのようなことが続く。
喜助の機嫌が悪くなっている様子に真っ先に気付いたハルは仕方ないわねと言ったような笑みを浮かべると、これまで何不自由ない生活を送り過ぎたせいでたっぷりと体中に脂肪を蓄えてしまった喜助を両腕で抱き抱えた。
抱き抱えた時、ハルの腕には喜助の柔らかい肉が乗っており、それを横目でちらりと見た男はわずかに表情を緩ませる。
それを嘲笑と捉えた喜助は完全に頭に来て、男に向かって牙をむいた。
「ほらほら、そんなに怒らないで喜助」
自分を嗤った男になぜそんな寛容でいられるのか理解に苦しんだ喜助は、全身の毛を逆立てたままハルを仰ぐ。
『なんでっ? どうしてこんな男をかばうような言い方するのさ! こいつオレを見て嗤ったんだぞ?』
ハルの腕の中で暴れる喜助を見て、男は少し驚いた風に口を開いた。
「ハルさん、この猫……まるで俺達の言葉がわかっているような様子ですね」
『わかってるような、じゃない! わかってるんだよ!』
会話が出来ないことは喜助も十分にわかっていた。しかし初対面の他人にこんなことを言われたのは初めての経験であった。これまでにも何度かハルと一緒に居る時に他人に出会ったことはあったが、誰も猫が人間の言葉を理解しているようだと口にした者は一人もいなかったのだ。しかも今回は遭遇してまだ間もない。たったこれだけの様子を見ただけでそんなことを言い出したのはこの男が初めてであった。
まるで自分とハルのことを何もかも知り尽くしているような、喜助のことを悟っているような、そんな不快な気分がより一層強くなって行く。腹の奥に何か別種の生き物がもぞもぞとうごめいているような奇妙な感覚、すっきりとしない不安のようなものが喜助の中に広がって行った。
この男の真っ直ぐではあるがどこか見透かすような瞳に、喜助は自分の存在を脅かされているような感覚に襲われた。
男の目を見ているとまるで自分よりずっと強大な化け物と対峙しているような威圧感に気圧され、本能的に萎縮してしまう自分にまた腹が立つ。だが本能には勝てない喜助は、そのまま勢いが萎んでしまって大人しくなってしまう。
ようやく喜助が落ち着いたのだと勘違いを起こしたハルは、喜助の機嫌を取るように優しく頭から尻尾の付け根までを何度か撫でつけながら、目の前の男の紹介をした。
「この人はね、学院で仲良くさせてもらってる猫又征四郎さんっていうの。猫又だなんて、変わってるでしょ? 私には喜助がいるからなぜだか妙に親近感がわいてしまって。それで今日は家で一緒にお茶を飲みませんかってお誘いしたのよ。だから喜助も仲良くしてあげてね、お願い」
そういうハルに喜助はただならぬ雰囲気を感じ取っていた。
ただ仲良くしているだけの男友達ならば餓鬼臭い犬塚呂尚である程度どういったものか理解はしている。ハルにとってはそれ以上でもそれ以下でもない、ただの「友達」だ。
そんな感情の中に「喜助以上の感情」をハルは持ち合わせていなかった。だからこそ犬塚呂尚がどんなにハルに対して下心を持って近付こうとしても、ハル自身にそんな感情は一切なかった為にこれといった不安も心配も呂尚に対して持っていなかったのだ。
しかしハルの猫又征四郎に対する態度、――表情。
それを目にした瞬間、いや……正しくはハルから醸し出される柔らかい雰囲気から。
喜助の中に芽生えた不快な感情が、まず何が原因で発生したものなのかを今更ながらに理解した。
猫又征四郎を紹介する時のハルの声音が一気に変わった。それはハルの父親に対するものとも、兄弟に対するものとも明らかに異なる。声音は非常に柔らかく、優しげで、これまでずっと喜助にのみ与えられるものだと思っていた「愛情」そのものだった。
愛情を込めた口調に喜助は不安にならずにいられなかった。
他の男と接する態度と明らかに違う。そこには乙女特有の恥じらいと嬉しさ、喜び、照れ。そのどれもが入り混じっており、そのどれもが猫又征四郎に対する愛しさの表れであるように見て取れた。
ますますもって喜助は戸惑う。これまでになかったことだ。そんな日が来るとも思っていなかった。
喜助はハルと猫又征四郎という名の男の顔を交互に見つめ、だんだん頭の中の整理がつかなくなっていく。
『え? え? ハル? まさかそんな……っ!』
それからようやく理解する。
二人の目と目が見つめ合い、互いに目で会話するように、楽しそうに微笑み合う姿を。喜助には到底入り込む余地のない二人と自分との大きな溝を見つけてしまった。
ハルの腕の中で、ハルの鼓動が聞こえる。とくんとくんと聞こえる音は徐々に早くなって行く。
喜助は焦った。このままではこの男に大切な飼い主を取られるかもしれないと。そんな危機感を抱いたのだ。
そして決断する。
ハルと楽しそうに接するこの男、猫又征四郎を力の限り、精一杯の憎しみを込めて。それは世間で言うところの「嫉妬」であったが、今の喜助にそんな括りは必要なかった。
男を「敵」だと認識する理由が例え嫉妬から来るものであっても、そんなことは関係ない。
事実さえあればそれでよかったのだ。
とにかくこの男は、喜助にとって最大最悪の敵となることを今ここで認識した。
『こいつは敵だ! オレからハルを奪おうとする奪略者なんだ!』
嫉妬に燃える喜助と、それが猫又征四郎との出会いであった。
皆様、おはこんにちばんはでございます。
もはや一ヶ月更新になってるのでは?という疑いを拭い去れない今日この頃。
本当に申し訳ないです、執筆しようにも全く筆が進まないということを世間では「スランプ」と呼ぶのでしょうか。
話の大体の構成は出来上がっているのですが、細かな部分にまで思考が行き届かず全く執筆に集中出来ておりません。
しかし作品をこれ以上劣化させるわけにもいかないので、とりあえず調子の良い時に書き上げ、また休む……ということを繰り返させてもらってます。
ただの自己満足な趣味で始めた執筆活動に、ようやく「他人に読ませる」ということを意識して書くという努力を心掛けるようになってからというもの。
脳内の物語を形にするということがこれ程大変なこととは思いませんでした。苦労しながらもそれをやってのけてる他の作家さん達は心から尊敬に値します。
まだまだ文章や表現方法、描写、何から何まで未熟ですが「猫又と色情狂」という物語の世界を少しでも楽しんでいただけたらと思っております。
そして熱中症にはご注意を☆
ここまで読んでくださりありがとうございました。