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雨の日の記憶(6)~君の存在はあたしにとっての喜びだから~

 ダンボール箱から救ってくれた少女ハルの腕の中で子猫は安堵し、いつの間にかすやすやと眠りに落ちていた。

 それから心地良い眠りから覚めた時、子猫は回りの様子がピリピリしていることに気付く。

 うっすらと両目を開けるとまず自分の置かれている状況に目を瞠った。温かい両腕に抱かれた状態、これはダンボール箱から救い出された時と同じように、少女の腕の中に包まれている状態であった。

 それから上を見ると、初めて出会った時に子猫に向けていたハルの柔らかい微笑は消え失せ、まるで無理矢理笑みを作っているような引きつった表情をしているハルの顔が目に入る。


 何かに怯えているような、必死になっているような、そんな張り詰めた表情。

 子猫に救いをもたらした少女が一体何に怯えているのか?

 子猫はわけもわからないままに、どこか腹の奥が熱くなるような感覚に襲われた。


 それは、――怒り。


 自分の命の恩人である少女の笑顔を奪う輩は一体誰なのか、何者なのか?

 子猫は不安と怒りに押し潰されそうになりながら、ようやくハルの顔から周囲へと視線を移した。

 

 ハルが立っている場所は広く大きな旧家の前。

 木造の二階建てで見渡せる限り見渡してみると、旧家をぐるりと囲う木製の塀が子猫の目からはどこまでも続いているように見えて、それ位広く旧家の周囲を囲っている様子から、ここがとても広大な敷地であることが容易に想像出来る。

 旧家の脇の方には草花が丁寧に手入れされており、綺麗な紫色をした花々――たくさんの紫陽花が雨に打たれていた。

 

 ハルを取り巻く環境、場所は子猫が居たダンボール箱とは比べ物にならない位に過ごしやすそうに見えた。

 最も生まれたばかりの子猫にそれを判別する知識などはまだ十分に備わっていないのだが、ダンボール箱という比べるには分かりやすい過酷な環境を知っていただけに、ぼんやりとだが子猫にはそう感じ取れたようだ。


 それでは自分の救い主を怯えさせる存在はいかなる者なのか?

 子猫はようやっとハルの目の前に立ち塞がる存在へと視線を走らせた。


 旧家の大きな玄関先、左右に開閉させる硝子戸が開いており、その先の玄関内には一人の女性が厳しい表情で立っている。

 上質な素材で出来た着物を着こなした黒髪の女性。

 滑らかな黒髪はぴっちりと頭の上部で結い上げられている。白く、どこか蒼白にも見える顔色にキレ長の瞳。口元は一文字に結ばれているせいか、上品で美しい容姿とは裏腹にどこか威圧的な雰囲気を醸し出している様子がこの女性の象徴としてよく現れていた。

 ハルに向かって見下すような、侮蔑を込めたような眼差しで一心にハルの抱き締めている「もの」を睨みつけている。


「ハルさん、『それ』は一体何なんですか?」


 威圧的な女性の口から、まるで汚らわしいものに対する口調で詰問した。

 ハルは反射的に、本能的に両手で抱き抱えている子猫を守るように力を込めて、わずかに女性から距離を離すような形でぐいと横へ逸らす。どうにかして少しでも女性の目から子猫が見えないように足掻いてるようでもあった。

 そんなハルの態度が気に食わないのか、それとも一度した質問に答えなかったことに苛立っているのか。

 女性は再度訊ねた。

 その口調は先程よりも更に刺々しく、苛立ちを隠す様子は微塵もない。


「ハルさん!? その手に抱えている物体は何なのかと聞いているのです!」


 明らかなる敵意。

 それに怯えるハル。

 子猫は瞬時に察した。

 「これ」が少女を怯えさせる原因なのだと。

 その「敵」に向かって少女を守る為に威嚇したかったが、情けないことに弱った体ではそれすらも敵わなかった。

 ただひたすらに、ハルの代わりに睨みつけるだけが精一杯であった。


 ハルは女性の顔色を窺うようにもじもじとしながら、そして子猫を隠し通すことが無理だと悟ると、諦めたように白状する。

 そっと両手の力を緩めて、ほんの少しだけ子猫が女性に見えるようにするとハルは質問に答えた。


「子猫……、さっきそこで拾ったの」


「汚らしい、さっさと捨ててきなさいな」


 即座に返された辛辣な言葉にハルの心臓の音が加速した。


「でも……っ! 可哀想……」


 愛おしそうに子猫を抱き締めながらハルが必死に女性へ懇願する。

 しかしその女性にとって子猫という存在は汚らわしい獣以外の何物でもないらしく、子猫を可哀想に思っているハルの言葉に耳を傾けるような気配は微塵も感じられなかった。

 むしろ女性の怒りは子猫だけに向けられてるわけではないらしく、そもそもの怒りの矛先はハル個人に突き付けられてるように見える。それをハルは最初からわかっていたのか、本能的に女性を避けるような体勢で今もびくびくと怯えている様子であった。

 憎しみと怒りに満ちた冷たい瞳をハルに向けて、それから両腕に抱き抱えている子猫を奪い取ろうと手を伸ばした瞬間、子猫は渾身の力を込めて前足を振りかざした。

 子猫の爪が女性の手を引っ掻く寸前、あわやという所で誰かの手が伸びて来て女性の手を掴み、子猫の攻撃は空振りする。

 しかし子猫が自分を攻撃したことをしっかり見ていた女性は、口元を歪めて更に憎悪を増したようにねめつけた。

 だが女性の怒りを鎮めようとするように、先程手を掴んで子猫の攻撃が当たらないようにした人物が、女性とハルの間に仲裁に入るように立ち塞がる。

 

「まぁまぁ母さん、それ位にしときなって!」


 学生帽を目深に被り、ハルより身長の高い青年が笑みを浮かべながら軽い口調で諭そうとする。

 真っ白なカッターシャツに黒いズボン、この時代の学生服を身に纏った十五歳の青年と、いつの間にかハルの隣に立っていざとなったら自分がハルを守る盾となるように寄り添っている十二歳の少年。彼はハルのように着物を普段着とした格好で、頭は殆ど坊主頭といっても良い位に短かい。

 二人は実の兄弟で、ハルの前に立ち塞がる女性の実の息子である。

 元々この家の主はハルの実の父親であり、目の前にいる女性はハルの実の母親ではなく、ハルの父親の再婚相手であった。二人の息子を連れて父親と再婚した為、ハルをかばうように現れた二人の兄弟はハルにとっては血の繋がりのない義兄弟だ。

 しかし二人の兄弟は母親の再婚によって義理の妹となったハルを非常に可愛がっており、まるで実の兄妹のように仲良く暮らしていた。しかし父親と二人の兄弟の愛情を一心に受けるハルのことを毛嫌いするように、継母となった女性だけは兄弟がハルの味方をすることを快く思っていなかったようだ。

 その度にハルは二人の兄弟の目の届かない場所で執拗に折檻せっかんされるようになっていた。

 わけもわからず憎まれ、体罰を受けるハルは女性の事を継母だと認識しつつも本能的に彼女に怯え、避けるようになっている。何も知らない父親の代わりに、この二人の兄弟が継母からハルを守るという役目を自然と請け負うようになっていた。

 

 二人の兄弟の登場により、継母はそれ以上文句を言うのを諦めてしまう。なぜだか継母は実の息子達に逆らうことが出来ずにいた。それはこの家で唯一本当に自分の味方と成り得る人物は、自分と同じ血が流れたこの二人の兄弟しかいないことを理解していたからである。ゆくゆくはこの旧家を自分の長男が継ぐと信じて疑っていなかったので、その長男の機嫌を損ねるということは自分が一生この家で安泰に暮らすという約束が出来なくなるかもしれないということも重々承知していた。

 自らの安寧を優先する余り、継母は自然と長男に表立って逆らうことは出来なくなっていたのだ。

 タイミング悪く二人の兄弟が現れ、これ以上は自分の思い通りにすることが出来ないと悟った継母は鼻を鳴らしながら何も言わず家の中へと引っ込んで行った。


 継母が去る背中を見送って、ハルはようやく安堵の息を漏らした。それから自分を助けてくれた二人の兄に礼を言う。


「ありがとう、お兄さん。でも……お義母さんのあの様子だと、この猫ちゃんは……」


 言いかけたハルに長男が平然と言い放った。


「母さんの言うことなんて気にするなよ! この家のことは義父さんが決めるんだ。だから母さんじゃなく義父さんに頼んでみな。義父さんはハルの言うことなら何だって聞いてくれるって! こんなに可愛い猫なんだもん。きっと飼うのを許してくれるさ!」


「そうだよ、それにこいつ凄く珍しい品種かもしれないし。回りの奴等に自慢出来るかも!」


 次男も続けてハルを慰め、それから三人で仲良く炊事場へ足を運ぶと、子猫が食べられそうな物が何かないかこの家の炊事係に聞いてみることにした。

 ハルは子猫を抱き締めながらほっと溜め息をつく。二人の兄弟の手助けにより、ハルは子猫に食事を与えることが出来、それから父親が仕事から帰って来るまでの間、家政婦の助言により念の為子猫を獣医師に診せに三人で雨の中、動物病院まで子猫を連れて出掛け、子猫を診察してもらった。

 幸運にもこの獣医師とハルの父親は旧知の仲であり、診察代などは後で父親に話を通すということで、ハル達はこの場で子猫の診察代を払わずに、そのまま帰宅して獣医師に教えてもらった通りに子猫の世話をすることが出来た。

 子猫はかなり衰弱していたようだが、体力は既に回復傾向に向かっており、このままミルクを与え続け、体温調節もしっかりして安静にしておけばすぐに元気になると獣医師に言われ、ハルは心の底から喜んだ。

  

 その間も継母はハル達のやり取りを遠目に眺めながら面白くなさそうにツンとし、見て見ぬ振りを決め込んでいた。

 家政婦の手助けもあり、ハル達は父親が帰って来るまでしっかり子猫の面倒を見ていたが、すっかり疲れていたのか子猫はそのまま気持ち良さそうに目を閉じて、ぬくぬくと心地良い眠りにつこうとしていた。

 そんな時、遠くの方でハル達の声が耳に入りながら子猫はじっと、無意識に耳を傾ける。ハルの声はとても心が安らぐ。まるで子守唄のように自然と耳に入って来て、子猫の気持ちを和らげてくれる。ハルの声にはそんな不思議な力があった。

 

「お父さん、猫ちゃんを飼ってもいい?」


 懇願するようにハルが父親に頼み込んでいた。それにならうように二人の兄弟も一緒に頭を下げて許しを得ようとした。

 父親はちらりとそっぽを向いている継母を、それから奥にあるハルの部屋で寝ている子猫とを交互に見つめ、それからハルの泣きそうな顔を見て判断した。


「仕方ないな、お前がそこまで必死なら飼ってもよろしい。だが子猫の面倒はちゃんとお前達が見るんだぞ?」


 父親の了承に喜び叫ぶ三人の子供達を余所に、継母は夫の言葉に驚愕し表情を歪めて悔しそうにしていた。

 嬌声を上げていたハル達はハッと子猫に気付き慌てて口元に両手を当てて、すぐに沈黙する。それからハルは愛しそうに子猫の側に寄り添うと、優しく子猫を撫でつけ囁いた。


「良かったね、今日からお前はあたしの家の子になったんだよ? そうだ、お前に名前を付けてあげなくちゃね」


 まどろみの中、子猫は薄眼を開けてハルを見つめる。天使の微笑みとはまさにこのことを言うんだろう。ハルの笑顔、大切そうに触れてくれる小さな手、その全てが子猫を幸せで満たしていた。


「お前との出会いはあたしにとってすっごく大きな喜びになったから……、そうね。これからもあたしが喜ぶのを助けてくれる? お前の存在があたしにとっての喜びだから、きっとお前はあたしにとってとても大切な存在になれるわね。だからお前の名前は……、喜助。そう、今からお前は喜助だよ!」


 ――喜助。

 それが自分の名前。

 これから先、ずっとハルの側に居て、ハルの笑顔を守る為に、そしてハルが喜んでくれる為に。

 自分はずっとずっと、永遠にハルと一緒にいるんだ。



 

いつもいつも更新が遅くて申し訳ありませんですm(_ _)m

そしてそれでも拙作を読んでくださって誠にありがとうございます。


今回ようやくハルの家族の一員となって、なおかつ「名前」をもらった猫又。

猫又にとって「喜助」という名前がどれだけ大切なものだったか、ずっと前に「名前」について猫又がマジギレしてたのを、果たして何人の読者様が覚えてらっしゃるでしょうか(笑)

一応序盤から色々伏線みたいなものを散りばめてきてるので、色々上手い具合に回収出来たらいいなと思ってます。

それでは今後も「猫又と色情狂」をよろしくお願いいたします。


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