雨の日の記憶(5)~運命の出逢い~
一体どれ位経ったのか。
子猫にとっては数日の感覚であっても、実際には数時間のものであった。
がたがたと震えながら必死に生き続けようと子猫がダンボール箱の中で体を丸めて縮こまっていると、突然雨が止んだ。それまで延々自分の体を打ち続けた雨粒が、子猫の体を打たなくなったのだ。ようやく濡れずに済んだ。
そう思った子猫であったがとても不思議な感覚に囚われる。――雨が止んだ?
いや、違う。そうじゃない。「雨はまだ降り続けている」のだ。なぜなら子猫がいるダンボール箱の外は未だに雨を打つ音が聞こえてくるからだ。雨音は今も子猫の耳に届いている。しかし、子猫の周囲だけなぜか雨は止んでいたのだ。
訝しげに子猫がそっと顔を上げて周囲の様子を窺おうとした時、すぐ側で声が聞こえてきた。
「まぁ、こんな所にいると風邪を引いてしまうわ。
良かったら私の所へ来る? ねぇ、可愛い子猫ちゃん」
少し声音の高い声、しかし愛らしくさえ感じる幼い口調。かろうじて開いていた両目を、子猫は声をかけて来た何者かに向かって一心に注いだ。
目の前に現れたのは淡い桃色の平服に身を包んだ黒髪の少女。
髪の上半分を結い上げかろうじて見える大きな赤いリボンを付けている。片手には黒い柄の先に弧を描くような形で開かれ、骨組みの間の部分には紙が張られていた。それを子猫の真上にかざしていた為に子猫は雨を凌ぐ事が出来ていたのだとようやく理解する。
その代わり雨を凌ぐ道具――傘を子猫の真上にかざしていた為に、それを持っていた少女は雨に濡れていた。
子猫は目の前に現れた優しい眼差しをした見知らぬ少女をじっと見つめ、それから精一杯力の限り声を出した。今にも死にかけていた子猫にとって、一鳴きすることがどれだけ困難だろう。
それでも子猫は必死の思いで目の前の少女に救いを求めた。
すると子猫の願いが叶ったのか、少女はにっこり微笑むと傘の柄の部分を上手い具合にダンボール箱の角の部分に引っ掛けて、少女が柄を持たなくても子猫が濡れないように工夫して置いた。
傘が倒れないように慎重に、ゆっくり手を放すと今度はその手を子猫へと伸ばしていく。すっかりずぶ濡れになっていた子猫の体を優しく撫でてやる。
それからふと思い出したかのように右手の肘に下げていたきんちゃく袋から、一枚のハンカチを取り出すとそれを広げて子猫の体を覆うように、まるで壊れやすい陶器でも扱うかのような丁寧な手つきで子猫の体を撫でるように拭き取った。
全身を柔らかいハンカチで拭かれながら、子猫は少女が自分の体から水気を取ってくれているのだと察する。
なぜそんなことをしてくれるのか子猫にはわからなかったが、少女の微笑む姿を見ているとそれまで寒さで震えていたのが嘘のように、心がぽかぽかと温かくなっていくのを確かに感じた。
それまでずっと寒さに震え、辛く、苦しい思いをして来た子猫。
自分を守ってくれた黒猫と三毛猫の気持ちに応えようと今まで必死になって生に執着してきたが、そのあまりの苦しさに本当は何度も何度も心が折れそうになっていた。
生まれて間もない子猫にとって、「生きる」ということが――。
それがどれだけ苦痛に満ちたものであったか。
過酷な環境に打ち捨てられ、食べる物も何もない箱の中でたった一匹で生き続けることが、どれだけ辛いものだったろう。
そんな時に突然舞い降りた幸運。
何の前触れもなく、突然子猫の目の前に現れた人間。
手を差し伸べられ、温もりを与えてくれたこの少女が清浄なものに思えて心が震えた。
きらきらと輝くような微笑。
その笑顔を目にするだけでこんなにも心が安らかになれる。
子猫にとってこんな気持ちは生まれて初めてであった。
自分の命を掬い上げてくれた可憐な少女に、子猫は自分が生きてることをもう一度告げたくなった。
嬉しさの余り、子猫は自分の体が衰弱しきっているにも関わらず少女に向かって自分の存在を訴えた。
震えるようなか弱い声でまた一鳴き、子猫は精一杯の思いで少女に向かって今の喜びを表現してみた。
それが少女にきちんと伝わっているのかどうかわからないが、それでも何かお礼をせずにいられなかったのだ。
懸命に生きてる事を少女に伝えることで、子猫は約束を果たせそうな気がした。
自分の側からいなくなってしまった黒猫や三毛猫への恩返しになるような思いで、子猫は自分が生きる事で彼等への思いに応えようとしたのだ。
少女は子猫を抱き抱えながら傘を拾い上げると、優しく声をかけ続けて歩き出す。少女の温かい胸の中で子猫はすっかり安心したのか、全てを少女に委ねるようにそっと両目を閉じて、少女の鼓動に耳を傾けた。
トクン、トクンと少女の心臓の音が、命の音が子猫の耳へ、全身へと伝わる。
その音がまた子猫にとって心地良く、記憶としてはっきりとは残っていないが、まるで母親の腹の中で感じていた胎動を彷彿とさせるような感覚であった。
少女の温もり、生を感じながら子猫はどこへ連れて行かれるのか全くわからないまま、それでも少女にその身を任せていつの間にか子猫は極度の疲労と空腹で、ようやく我慢していた眠りへとついた。
共に捨てられた黒猫と三毛猫のおかげで、子猫はこの世に生き続けることが出来た。
彼等のお陰で子猫は少女とこうして出会うことが出来たのだ。
もし彼等が身を呈して子猫を守ってくれなければ、きっと生後間もない体力のない子猫はすぐに死んでしまっていただろう。
彼等の命が、子猫の命を救ったのだ。
そして命の灯火が消えかけていた時に、再び子猫は命を取り留めることが出来た。
この少女の救いによって子猫の運命は大きく変わろうとしている。
子猫の心を揺さぶった愛らしい少女、ハル。
この出会いが子猫にとっての本当の始まりとなった。
相変わらず更新が滞ってしまい、申し訳ありません。
不定期更新になってもこうして読んでくださる読者様がいることは、私にとってとても有り難くてとても幸せなことです。
猫又ちゃんの過去編、もう少しだけお付き合い願います。