雨の日の記憶(3)~雨から守る壁~
黒猫がダンボール箱から出て行ってどれ位経っただろうか。餌がなかなか見つからないのか、それともよっぽど遠くまで捜しに行ったのか。最悪縄張りを荒らしたと、ここら一帯を取り仕切る猫に因縁をつけられ、襲われているのだろうか?
上を見上げると子猫の毛色と同じ色をした雲が空を覆って、そこから細かい水がずぶ濡れになった自分達を更に打ち付ける。何度体を振って乾かそうとしても、次々と上から雨が降って来るのだ。乾かそうとする行為自体が無意味に思えたが、かといってずぶ濡れのままでいても全身を濡らす水に体温を奪われ寒くなる一方である。
猫の毛は水を弾かない。雨を凌ぐ場所もなく雨に打たれ続ける現状はまさに死と隣り合わせの最悪な環境にあった。体力のない子猫ならなおさらである。すぐに体温を奪われ、寒さと空腹で死んでしまうかもしれなかった。
黒猫が戻った時に子猫が死んでいたら合わせる顔がないと思った三毛猫は、黒猫がしていたように子猫を抱き抱えて少しでも雨から身を守れるようにしてやった。体温を奪われないように自分の舌で子猫の全身を舐めてやり、自らの体温もさほど高くなかったがそれでも互いに寄り添うことで温め合えないかと思い、黒猫が戻って来るまでずっと子猫を抱き締め続けた。
それから更に一晩が経ち、夜が明けるが雨は変わらず降り続ける。いっそこのダンボール箱から出て行って雨風を凌げる場所を子猫と共に探し歩こうかと考えてみたりしたが、自分達がこの場所を離れたらどうなるかわからない程、三毛猫は愚かではない。
今自分達が居る場所を縄張りとしている凶暴なボス猫を敵に回してまで、ボス猫に対して唯一の安全圏と成り得るこのダンボール箱から出て行く勇気を、三毛猫は持ち合わせていなかった。
かといってこのまま雨に打たれ続け、所在も生死も不明となった黒猫を待ち続ける行為も利口だとは思えない。もし黒猫が無事だったとして、自分達がこの場所を黙って離れてしまったら。帰りを待っていると信じている黒猫が戻った時、自分達の姿が見えなかったら黒猫はどう思うだろうか。
自ら危険を冒してまで自分達の為に餌を探しに行った黒猫を裏切るという行為は、三毛猫にとってそれはとても大きな罪のように思えた。その罪は黒猫を待たずして、子猫と共にダンボール箱を抜け出して他の場所へと移る行為よりも、ずっと重いもののように三毛猫は捉えていた。
例え血は繋がっていなくても、同じ母猫の腹から生まれて来なくても、自分達は自由の無い箱庭のような世界から放り出された、唯一無二の同志であった。それは何よりも強い絆のように三毛猫は感じていた。
だからこそ三毛猫は無慈悲に体を打ち付ける雨にも負けず、もう一匹の同志である子猫を抱き抱えたまま、いつ戻るかわからない黒猫の帰りを待ち続けることが出来た。
辺りが薄暗くなり、再び夜がやって来る。
それでも雨は全く止む気配を見せずに降り続け、着実に三毛猫と子猫の体温を奪っていった。ダンボール箱から出て行くことも敵わず、三毛猫は出来るだけ体を温めようと全身をまん丸にし、腹の部分に子猫を押し込むように抱いて縮こまっていた。
空腹で互いの腹の虫が鳴り、打ち付ける雨によってもう殆ど体が温まることなく寒さで震えが止まらない。がたがたと全身を小刻みに震わせながら、今か今かと黒猫を待ち続ける。
最後に食事をしたのは、もういつのことだろう?
ふとそんな些細なことが三毛猫の脳裏に浮かぶ。寒さと空腹で殆ど意識は朦朧とし、まるで激しい睡魔に襲われているかのように薄目を開けてぼんやりと考え込んだ。
最後に食べた餌は確か固いドライフードだったような気がする。外気に晒され少ししけったそれを、三毛猫は何も感じることなく食べていたような記憶が思い浮かんだ。檻の中で生活をしていた時は、飼い主が定期的に餌をくれた。毎日毎日同じ時間に、同じ餌を他の猫達同様に与えられた。それに何の疑問も不満もなく、当たり前のように受け止めていたあの時。
食べても食べなくても決まった時間が過ぎれば飼い主はドライフードの入った受け皿を、再び檻から回収して行く。それは一種の作業であり、そこに何の愛情も感じられなかった。だから三毛猫も、恐らく他の猫達も皆、それに何の違和感を抱くこともなく受け身の生活を続けていた。
それが毎日の日課であり、当たり前の光景であり、疑う余地もない自然な出来事だった。だから最後の食事の時、あまりお腹が空いていなかった三毛猫はドライフードを全てたいらげることなく、半分位残して食べるのをやめてしまった。
今食べなくてもどうせまた決まった時間に餌が与えられる。それは毎日毎日繰り返されてきた日常の中で確定されたことだから。だから心配なんてしなくても餌に不自由することなんてないのだ。
それが今ではどうだろう。あの時残したドライフードのたったひとかけらだけでもいい。そのたったひとかけらを自分と、腹に抱き抱えている子猫と、黒猫が餌を回収出来ずに戻ってきたら当然黒猫にも、小さく砕いてみんなで分け合うことが出来ただろうに。
どうしてあの時自分は餌を残してしまったんだろう?
どうして自分は「それ」が当たり前のものだと信じてしまったんだろう?
そう信じ込んでいた自分が今となっては愚かで堪らない。悔しくて堪らなかった。今ではたったひとかけらのドライフードですら、二度と目にすることが出来ないような、とても貴重で大切で豪華なご馳走のように思えてならなかった。
最後の食事を残した自分を恨みながらうっすらと、虚ろに開いている三毛猫の目から雨とは違う雫が零れ落ちて行く。ゆっくりとまばたきをし、降り続ける雨と目から零れ落ちる涙とが混じり合い、三毛猫の顔を更に濡らして行った。
――守らなきゃ。
薄れゆく意識の中、三毛猫のお腹の辺りで微かに動く命の息吹を感じながら、自分が今何をすべきかを改めて実感する。それまでずっと受け身で生きて来た自分。言われるがままこの場に留まり、言われるがまま子猫を死なせないように嫌々頑張って来た。
自分の命の灯火があと少しで消えるかもしれない。
激しい空腹と、凍えるような寒さと、ダンボール箱の中に取り残された絶望と、かつての自分の愚かさに気付いた三毛猫は、ここに来てようやく自分が今一番何をするべきなのかを悟ったのだ。
ここに残れと言われたから残ってるわけじゃない。子猫を守れと言われたから守ってるわけじゃない。この子には今自分が必要なのだ。今まで何も出来なかった自分は、今こうして子猫を生き長らえさせることが出来ている。本当ならもうとっくに寒さと空腹で死んでいたかもしれない小さな猫を、ここまで生き延びさせることが出来たのは自分の努力あってなのかもしれない。傲慢かもしれないがそう信じることで消えかけていた命の炎が再び灯されるような、そんな不思議な活力が戻るような気がしていた。
せめて黒猫が戻って来るまで。いや、もし戻ってこなかったら? それでも親切な誰かに拾ってもらえるまで、この子が生き延びられるようにしなくちゃいけない。生まれたばかりで、まだろくに話すことも出来なくて、か弱い不幸な子猫。
この哀れな子猫に生を感じさせてやりたい。自分は幸せだったのか不幸だったのかよくわからない日々を過ごしてきたけれど、せめてこの子だけは幸せに生きる権利があるはずだ。
何もわからず、何の為に生まれてきたのかもわからないまま死ぬなんてあまりに不憫過ぎる。自分が無為な時間を過ごして来た代わりに、この子には有意義な毎日を送って欲しい。そんな風に自分以外の者のことを真剣に思ったことなど、これまでただの一度もなかった三毛猫が今初めて自分以外の誰かの幸福を心から願っていた。
――お前ならきっと、幸せになれるからな。
子猫の幸せを願った時、三毛猫は今まで感じたことのない程の充足感を得られた。こんなどうしようもない自分でも、こうやって命を張れることが出来るんだ。それがわかっただけでも、自分はきっと幸せになれたに違いない。
三毛猫の両目は、そのままそっと閉じられた。
ざぁざぁと降り続ける雨の中、三毛猫は子猫を抱えたまま動かない。それまで呼吸をする際の腹の動きで子猫は安心することが出来たが、今はもうぴくりとも動かない。
息を引き取って抜け殻となった体でも、雨を遮る壁の役割なら出来る。
三毛猫は死してもなお子猫を守る壁となって、子猫の側に居続けた。
更新が遅くなって申し訳ありませんでしたm(_ _)m
これから先も定期的に月曜更新出来ないかもしれませんが、どうぞ見捨てないでやってくださいまし。
きちんと完結目指して頑張るのでよろしくお願いします。そしてここまで読んでくださって本当にありがとうございます。