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雨の日の記憶(2)~自由を得た猫~


 さむい……。


 おなかもすいたし、すごくさむいよ……。


 何が起きたのかわからない。ここがどこなのか、自分に何が起きたのか。何もわからない。

 ただわかっているのは、とてもお腹が空いてることと、ものすごく寒いということだけ。


 「彼」の目はまだよく見えていない。足を動かして移動しようにもお腹が減り過ぎて、もはや立つことすら出来ない。なので鼻を動かし周囲のにおいを嗅いでみた。何かの湿った臭い。それが何の臭いなのか、幼過ぎる「彼」にはまだ理解することが出来なかった。

 「彼」がいる場所は小さな箱の中。無情に降り続ける雨によって古びたダンボール箱はこれでもかという程水分を吸収し、湿った臭いを放っていた。ダンボール箱の隙間から水が漏れているので、箱の中に水が溜まって「彼」が溺れるということだけは幸いにも免れたようだ。箱の中にいるのは「彼」だけではなかった。「彼」より少し体が大きい三毛猫と、右目を怪我した黒猫が一匹ずつ。

 三毛猫も黒猫も生後三ヶ月は経っていたのだろう、「彼」とは違い心身ともに発達していたせいか、自分達の置かれている状況をきちんと把握、理解している様子だった。

 自らの運命を憐れんでか、溜め息交じりに三毛猫がぼやく。


『あ~あ、これでオレ達も終わりか。考えてみれば短い命だったな……』

 

 悲観的に呟く三毛猫に対し、黒猫が黄金色の凛々しい瞳を向けて叱咤する。


『まだ終わりって決まったわけじゃない。自由を手に入れたって思えばいくらか気が楽だろう』


『そうは言っても、オレ達これでも飼い猫だったんだよ? 基本的な餌の捕り方なら、まぁ何とかなるかもしれないけどさ。ここは人間社会なんだよ? 最近じゃ野良猫や野良犬を捕まえる人間までいるって言うじゃないか。捕まったら二度と助からないって。オレやだよ、そんな危ない生き方するの。……怖いよ』


『な~……ん』


 今にも泣きそうな声で弱音を吐く三毛猫に、「彼」は小さく鳴いた。二匹の猫が何の話をしているのか「彼」にはよくわかっていない。だけど一匹は明らかに怖がっている。「彼」と同じように不安で仕方ないのだ。「彼」が鳴いたところで何の慰めにもならないかもしれないが、同じように不安に思っている自分がいるんだと鳴いて知らせることで、少しでも励ましになるんじゃないだろうか? もしかしたらそれを求めていたのは「彼」自身かもしれなかったが、そこまで自分の心情がわかる程「彼」の心は成長していない。

 少しでも自分と同じ者が欲しくて、「彼」自身が擦り寄りたかったのかもしれなかった。

 「彼」の弱々しい声を聞いた二匹は、小さく震える珍しい毛色をした子猫を見下ろした。彼等も猫の毛並みの種類の全てを把握しているわけではない。多くを知っているわけではなかったが、それでも灰色をしたキジトラ猫を見るのは珍しかった。

 まだ目も開き切っていない、生後間もない子猫が雨に打たれ、寒さと空腹に苦しんでいる。きっと自分がどんな状況に置かれているのか何もわかっていないんだろう。そう思うと自分達よりこの子猫の方がどれだけ不憫か、とても哀れに思えた。

  すると黒猫が雨でずぶ濡れになった「彼」の顔を優しく舐めると、顔を摺り寄せ「大丈夫だ」と安心させようとする。


『見ろ、こんな小さな子もいるんだ。オレ達がしっかりしなくてどうする? この子はまだ自分の足で立つことすら出来ない子猫なんだぞ。餌の捕り方だって、自分の状況だって何ひとつ理解してない哀れな子猫だ。オレ達で守ってやらなくてどうするんだ』


 せめて子猫がこれ以上雨に打たれないようにと、黒猫は自らを雨避けにするように子猫の上に覆いかぶさった。その姿はまるで母猫が子猫を抱き締めるかのようだ。黒猫の言うことは一理ある。猫としての先輩だ。何より置かれた状況を子猫よりは理解している。この先どうすればいいのか全く見当がつかないが、ここで弱音を吐いていても雨は止んでくれないし、餌だって与えてもらえない。


『じゃあさ、どうする? ここから離れる? もしかしたらオレ達のご主人様の心が変わって、またオレ達を連れ戻しに来るかもしれないって思ってさ、あれからもう随分時間が経ったよ!? 朝が二回も来た。それでもご主人様は来てくれない。代わりにオレ達のことを汚いゴミを見るように通り過ぎる人間ばかりが来るだけだったじゃないか。大体ここからどこへ行ったらいいんだよ』


 三毛猫の言いたいことはわかる。確かに黒猫がここを離れようとしなかったのは、三毛猫が言ったように飼い主が戻って来てくれるかもしれないという、淡い期待を捨てられなかったからだ。しかしその期待は裏切られた。自分達は飼い主の手によって捨てられたのだ。もはやここでいつまで待っていても飼い主が来てくれることはないだろう。

 

『それにそいつ、お腹が空き過ぎて自分の足で立てないならさ……。オレ達で連れて行くしかないじゃない。きっとさ、凄く大変だよ? 自分達のことだけで精一杯なのにさ。一体どうすんのさ?』


 それも確かにその通りだ。今から当てもなくどこか安住の地を探し回る為にこの箱から出たとして、子猫を咥えながら移動するのは大変過ぎる。途中で何者かに襲われないとも限らない。かと言って子猫を箱に残したまま移動するのも危険だ。子猫の面倒をみる為にどちらか一匹が残った所で効率も悪いだろう。それじゃいつまで経っても安住の地を発見出来ないどころか、自分達の分の餌にだって在り付けるかどうか……。


『一回この周辺のパトロールしてみたじゃない? どこも他の猫の縄張りになってたよ。あいつら、オレ達が捨てられたばかりの猫だからせめてもの情けで襲わずに放置してやるって言ってたけど、こうも言ってたじゃない。放置してやるのは箱の中でだけだって。箱から出て縄張りをうろつけば、子猫だって容赦しないって』


 捨てられた当日、夜間に一帯を縄張りにしているボス猫に襲撃されたことがあった。その時に右目を鋭い爪で引っ掻かれ、黒猫は右目を失った。今も傷は完治しておらず膿んだ状態である。雨で傷口がズキズキと痛むが、その傷と自分達の置かれた立場のおかげで何とか殺されずに済んだのもまた事実である。

 捨て猫の末路は悲惨なものだ。捨てられた直後に心優しい人間に拾われるならまだマシだろう。しかし多くは野犬に襲われるか、戦う力がなければカラスの餌にされてしまうか、人間の子供によって面白半分に虐待されるか、はたまた人間の大人によって命を弄ばれるか。最近よく聞く噂では「保健所」というものが率先して野良猫を回収することが増えたという話。そのどれにも属さなかった場合、自分の力が及ばなかった際に待っているのは、凄惨な死――つまり餓死である。

 それだけは御免だ。せっかく小さな箱庭のような場所から出ることが出来、自由を得たというのに。確かに飼い主に飼われている頃には餌に困ることなどなかった。自分専用の寝る場所だって与えられた。ただし自由と引き換えに。外を出歩くことさえ許されず、生活出来る場所は小さなケージの中。好奇心でケージから出て行こうと脱出したら鞭で打たれた。よく見れば他のケージに入っている猫達は皆、どこかに傷を負っていた。ご主人様に逆らえば体罰が待っている。皆、外への憧れを捨ててしまった。ただ生きるに不自由しない環境さえあれば、それでいいのか? 違う。そんなのは猫の生き方じゃない。猫は自由であってこそ、猫なのだ。


『猫は自由であるべきなんだ……』


『え?』


 黒猫は箱から出た。それを慌てて止めようとする三毛猫。


『ち……ちょっと待って! どこ行くの? オレも行った方がいいの? でもこいつどうするの? それにここから出て行ったらボス猫が黙ってないよ!』


 半ばパニック状態に陥っている三毛猫は足元にいた子猫に気付かず、後ろ足で軽く蹴り飛ばしてしまっていた。しかし空腹でもう声を出すことすらままならなくなっている子猫は、「痛い」と言いたくても言えない状態である。

 箱の中の状況にまで目が行き届かないせいで黒猫もそれに気付かない。ただ三毛猫の方へと振り向き、伝えた。


『オレはとにかく何か食べる物を探して来る。何か腹に入れなきゃどこにも行けないからな。この辺を縄張りにしてる連中の目を盗んで行動するなら、一匹で行動した方がやり過ごしやすいかもしれない。だからお前はここに残って子猫を守っててくれ』


『えぇっ!? オ、オレが!?』


 突然大きな役割を任され驚愕する三毛猫。子猫を守れと言われ足元を見た時、箱の端で子猫がぐったりしている姿を目にした。守れと言われた矢先に死なれたら困ると思った三毛猫は慌てて子猫の体を舐めた。するとぴくりと反応があったようなので一安心する。しかしほっとしている場合でもなかった。三毛猫は今度こそ子猫をぞんざいに扱わないように、子猫の首根っこを咥えて自分の懐に寄せてから再び黒猫の方へ視線を戻す。

 黒猫は言った。まだ傷を負った右目の激痛が治まっていないはずなのに、三毛猫と子猫を気遣うように黒猫は言い放った。


『その箱から動かなければ安全だと、そう言ったのは奴等だ。だからお前達が奴等に襲われることはない、安心しろ。ただしカラスや人間共に限ってはその理屈は通用しない。そうなったらその子を咥えてひたすら逃げろ、いいな。オレも早く戻るようにする』


 三毛猫が声をかける暇もなく、黒猫は走り去ってしまった。雨の中、全身ずぶ濡れになったまま箱の中に取り残された三毛猫と、寒さで小刻みに震える子猫。餌が手に入らなくてもこの際構わない。だからどうか無事に戻って来て欲しい。自分と子猫だけがここに残されるなんて寂し過ぎる。いや、もしかしたら体力のない子猫はもう持たないかもしれなかった。もし子猫が死んでしまったら自分一匹だけになってしまう。そんなのは嫌だ。だから早く戻って来て! 三毛猫は必死に心の中でそう祈った。




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