未解決
昼休みが終わってしまった。結局話し合いは慶尚による詰問で時間を取り、この後響子が教室に戻った後どうするべきかの問題解決にまでは至らなかった。君彦にとって今後の身の振り方を改める重要な問題だっただけに、時間を割く原因となった慶尚に対して文句を言うことはなかった様子だ。
それは問題となった君彦自身が一番わかっているからなのか、いつもならば慶尚に向かって文句のひとつも言っているはずであったが、さすがにそれを口にすることはなかった。しかしわかっていながらも視線だけは慶尚のことを恨めしそうに見つめる君彦。
ひとまず広げてあった弁当などを全て片付け、始業ベルが鳴る前に教室へ戻る一行。この後どうしたらいいのか何ひとつとしてアドバイスすることが出来なかった君彦は、響子のことが心配で仕方ない様子で申し訳なさそうに平謝りする。
「ごめんね志岐城さん。結局志岐城さん一人に我慢させることになっちゃって……。オレにもっと何か出来ることがあれば何でもしてあげられたんだけど、こんなに自分が無力だって思い知らされたことはなかったよ、本当に甘かった。これじゃ犬塚の奴に言い返す言葉もない。クラスも別だし、志岐城さんを常にかばうことが出来なくて、本当にごめん」
そうやってまるで自分のせいだと言わんばかりの態度に響子の胸の方が痛み出す。こんな風に謝られても嬉しくない。むしろ彼には自分を支える意味も含めて、笑顔で背中を押してもらいたかった。響子はそんな思いをうまく言葉にすることが出来ず、いつもの憎まれ口で君彦を励ますことしか出来ない自分をもどかしく思う。
「ご、ごめんごめんうっさいのよ! そんな風に謝られたらまるであたしが悪いみたいじゃない! あたしは今までと何も変わりなく我慢すりゃいいだけなんだからあんたが気に病むようなことじゃないわよ。だから……そうやって自分のせいにばかりしないでよね。これからどうしたらいいか一緒に考えてってくれるんでしょ? だったらそれでいいじゃない。あたしはそれで何も文句はないわよ」
顔を真っ赤にさせながら、君彦のことを真っ直ぐに見つめることが出来ずそっぽを向いたまま言い放つ。不器用な中に素直な一面を見せている響子の優しい言葉と心がちゃんと君彦にも伝わったのか、君彦は安心したように柔らかく微笑むと響子の言葉に頷いた。
確かに響子の周囲に対する何かが変化したわけではない。好転したわけでも改善されたわけでもない。それでも確かに響子の心に変化が見られた。響子に対して関わろうと近付き、親切にしようとする人間に対して一方的に拒絶することがなくなった。それだけでも確かな進歩に変わりない。口では相変わらず憎まれ口に近い言葉を発しているが、その中に優しさを見つけることが出来るようになった君彦自身にも進歩が見られている。そんな風に感じることが出来て、君彦は心から嬉しくて堪らないのだ。
「まるで」ではなく、本当の友達となれたことを喜ばずにはいられなかった。
気持ちとは裏腹な言葉を口に出していたとしても、気持ちはなぜか通じ合っているような気がする。君彦と響子はそんな不思議な感覚に、少しだけ胸が熱くなるような、むずむずするような、そんなくすぐったい感じを喜んでいるかのようだった。
そんな中、二人の距離が目に見えて近く感じられる様子をずっと隣で見ていた黒依からは、時折作り物の笑顔が消失していた。口角を上げて笑みを作ってはいるものの、心から微笑むことが出来ず、複雑な気持ちで二人を見つめる黒依。
胸の奥はもやもやとし、君彦へ向ける響子の笑みを目にするとお腹の辺りが高熱を持ったように熱くなって来る。しかしそんな不快な感情を表に出すまいと黒依は懸命に笑みを作り続けた。
響子のことが心配で、響子のことで頭の中が一杯になっている君彦が、黒依の変化に気付くことはない。
ただ一人、不機嫌そうな黒依の態度に気付いていたのはこの場では慶尚一人だけであった。
君彦達が屋上から校舎内の廊下へと出て来た時、すでに殆どの生徒は教室へと戻っており廊下にはほんの数人の生徒しか残っていなかった。そろそろ始業ベルが鳴って昼休みが終わってしまうということもあり、廊下で喋っている生徒はいつでも自分の教室にすぐさま戻れる準備だけは出来ている様子だ。
君彦達の足取りは決して軽くはなかったが、だからといって教室に戻らないわけにもいかない。君彦達にこれ以上心配かけまいと務めて普段通りに振る舞おうとする響子の態度がより一層君彦を不安にさせた。何も思いつかないまま遂に教室の前に辿り着くと、響子は君彦達の方へと向き直って礼をした。
「今日は……その、色々ありがと。なんだかんだ言ってさ、結局毎日のように一緒に屋上で弁当を食べてるから今更って感じがするけど……一応ちゃんと言っとくね。あんた達と一緒に弁当食べるの、悪くないわよ。――結構楽しい。だからさ、明日も明後日もこれから先も……一緒に弁当を食べても、いいかな?」
「当たり前だよ! 明日もちゃんと誘うからね、志岐城さん!」
「うん、全然OKだよ!」
「確かに今更だな」
遠慮気味に、恥ずかしげに問う響子に対しその場の誰もが拒絶しなかった。むしろ当然だと言うように全員が声を揃えて受け入れる。
響子にとってそれは何より心強い言葉だった。
君彦達は教室のドアの前で一旦足を止めて、響子の背中を見送るように見つめ続けていた。その視線に気付いた響子が振り向き、片手を振って大丈夫だと合図する。満面の笑みとまではいかなかったが、気丈に振る舞う響子の姿に君彦は足元にいる猫又に頼み事をしようと思った。猫又の姿は霊感の強い者にしか見えない。猫又が響子を守ろうとするかどうか自信はなかったが、少なくとも響子の様子を見守る程度の情はこの猫にもあるはずだ。助けるに至らなければ隣の教室に居る自分に伝達するという役割をさせることも可能だと思ったが、やはり猫又に頼むにはあまりにも心許ない。
気乗りしないことには一切関わろうとしない猫又が、響子の身を案じて行動してくれるはずがない。少なくとも君彦はそんな風に猫又の気性を認識していた。せめて犬塚が従えている犬神と同じ位、生真面目で忠実であれば任せることも出来たはずだが。自由気ままをモットーにしている猫又にそんなものは望めない。
むしろ君彦自身が響子を守る為に教室までついて行きたいと思っていた位なのだから、君彦の過保護ぶりも相当なものである。それを把握して響子は君彦に対して気丈に振る舞って見せていたのかもしれない。そう考えると響子より自分の方がよっぽど回りに心配をかけているようで、情けない気持ちになって来た。
とにかく事情がどうであれ全く異なる教室の生徒が、響子の教室までついて行けるはずがない。ここは涙を飲んで堪えるしか道はなかった。君彦の心の葛藤に気付いていたのか、それとも単に後がつかえていたからなのか。
ドアの前で立ち止まっている君彦の背中をぐいぐいと慶尚が押して、まだ開いてもいない教室のドアに君彦を押し付けてきた。
「うぐっ! この……っ、痛いだろうが犬塚っ!」
「さっさと入れ。もうベルが鳴ってるだろ」
慶尚にそう諭され意識を響子から外して周囲へと向けると、確かに始業ベルが鳴っていたので君彦は最後に響子の姿を見ることもなく急いで自分の教室へと入って行った。
始業ベルを聞いていたのは響子も同じで、君彦達が教室に入って姿が見えなくなると深く深く、深呼吸をする。昼休み直後の光景が思い出される。教室中から注がれる悪意ある視線、侮蔑の眼差し、明らかな敵意。今までずっと友人を作ることが出来ず、一人でいることが多かった響子であったが、あれ程の敵意を向けられたことは今までに一度としてなかったのかもしれない。
一時的に仲間外れにされたことはあっても、ここまでクラス全員から徹底的に排除されそうになったのは初めてである。このまま教室に入って本当に大丈夫だろうか?
もう君彦はいない。猫又も犬塚もいないから色情霊が戻って来ても、祓うことが出来なくてまた先程と同じように誰かを操って響子を襲わせるかもしれない。そう考えると怖くて仕方がなかった。今度同じようなことが起こればもう二度とこの教室に戻ることは出来なくなってしまうだろう。ここで問題を起こしてしまったら唯一の身内である蝶野蘭子(志岐城則雄)に心配を、迷惑をかけてしまう。何より自分が学校で仲間外れにされていることが知られてしまう。弱い自分は見せたくなかった。そんな情けない人間だと思われたくなった。そんな思いが強いからこそ、今まで強気に振る舞って来た心がいともあっさりと折れてしまい、教室のドアを前にしただけで恐怖で足が竦んでしまっている。
本当ならこのまま逃げ出してしまいたい。そうすればこんな怖い思いをしなくて済むではないか。しかしそんなことをして一体何になると言うんだろう?
逃げ出した後にどうなってしまうのか、容易に想像出来る。午後の授業が始まっても教室に戻ってこない響子に対し、訝しんだ教師はそのまま家族に連絡をしてしまうだろう。そうしたら何があったのか、教師はともかく伯母(伯父?)は黙っていないだろう。
事情説明を求められ、遅かれ早かれ事態を知られてしまう。それは最も避けたいパターンだ。だからこそ響子は逃げる選択肢すら選ぶことが出来ない。最悪の事態を考えれば、このまま険悪な雰囲気を残したままかもしれない教室に戻って、周囲の視線に晒され耐える方が万倍もマシに決まっているではないか。
そう結論付けた響子は思い切り吸った空気を口からゆっくり吐き出して、それから口元を一文字に引き締めた。
完全に恐怖心を払拭出来たわけではないが、このままここで立ち竦んでるわけにもいかない。最悪のパターンを頭の中で何度も反芻させることで、自分の背中を無理矢理押したのだ。教室のドアを横にスライドさせ、響子が教室内を見渡したと同時にそれまで雑談していた声が一斉に静まり返り、沈黙が訪れる。その沈黙がやけに響子の心臓の音を大きくさせたような気がした。怖くて心臓の音がどんどん大きく高鳴って行き、まるでこの沈黙の中にいるクラスメイト全員に聞こえてしまうのではないだろうかという程、響子の心臓は早鐘を打っていた。じわりと嫌な汗が背中を伝うような感じがする。
ドアを開けたほんの一瞬、それぞれのグループ内で楽しそうな笑顔で喋っていた女子や男子がこちらを見た途端に、まるで異物が出現したような顔つきへと早変わりした。一瞬にして笑顔がなくなり、会話も途絶え、冷やかな態度だけが残る。
それでも響子はまだマシな方だと思った。このまま酷い暴言を叩きつけられるよりよっぽどマシだと考えるようにした。てっきりそうなると思っていたのだ。しかし響子の予想とは裏腹にクラスメイト達は冷ややかな態度のまま、悪口雑言を浴びせることも乱暴な扱いをすることもなく、ただ黙って響子を見つめているだけである。
それを救いだと思うようにして、響子は自分の席へと移動した。もうひとつ想定していたことがある。響子が昼休みに屋上で弁当を食べている間、もしかしたら自分の机や荷物がクラスメイト達にどうにかされていないかどうかひやひやしていた。
響子の机がそのまま教室の端か、はたまた教室から出された状態にされていないだろうか。机の上に暴言が書かれていないだろうか。はたまた教室に置いて来た私物が壊されたりなくなったりしていないだろうか。
しかしそれはただの杞憂で終わって響子はほっとした。自分の席に着いて次の授業に必要な教科書やノートを机の中から取り出すフリをして、他の教材や私物が無事かどうかこっそり確認してみる。
するとペンケースも教材もカバンも無事で、どこか変わった様子もない。何もされてはいなかった。響子は安心したせいで小さく安堵の溜め息を吐く。
午前中、そして昼休みに入った直後にあれ程響子一人に対して悪口雑言を浴びせて来たクラスメイトであったが、いじめの定番とも言える行動を起こすまでには至らない様子だったので、これならまだなんとかやっていけると響子は思えた。陰口など以外で私物に手を出したりあからさまで陰湿な行動を起こされたら、さすがに響子も我慢出来る自身がなかったのだ。
だがそれがない以上、ただの悪口を叩かれる程度のことならばすっかり慣れてしまっている響子、一人の寂しさにすっかり慣れてしまっている響子にとって、このレベルで済んだのは不幸中の幸いであった。
色情霊が関わっていようとなかろうと、この問題は響子の問題。クラスメイトと打ち解け合う必要はないとしても、学校生活を普通に過ごすにあたって今の状態では少し窮屈なのは確かである。何より今後何度か聞かれることだろう。本人に悪気はなかったとしても、あれからクラスメイトとの雰囲気や関係はどうなったか、響子は大丈夫なのかと色々心配してくる君彦がいる限り、このまま完全な孤独であり続けるには限界があった。
二年生に進級する際にクラス替えがある。それまで平穏無事に過ごせていなければ。ほんの少しでいいからもう二度とあのような険悪な雰囲気に陥らないように、響子はどうにかしてクラスメイトとの距離を縮める必要があった。
せめて、窮屈に感じない程度に。君彦に色々と心配をかけない程度に、学校生活を送る必要が響子に課せられた。