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慶尚の問いかけ

 険悪な雰囲気を残したまま教室を後にした君彦達は、いつも弁当を食べている屋上へとやって来た。

 慶尚も黒依も、涙が止まらない響子を気遣っているのか。小さく嗚咽を漏らす響子の手を君彦は強く強く握り締める。とにかく落ち着く場所へ辿り着かない限り響子をゆっくり宥めることは出来ないと思ったのか、時折声をかける程度でそれ以上は君彦ですら慰めの言葉を持たなかった。

 しかしそんな微妙な接し方が逆に響子にとっては有り難かったかもしれない。今まで決して人前で涙はおろか弱みを見せたことのなかった響子が、今こうして三人もの人間に弱った所を見せてしまっている。これは響子にとって屈辱とも恥ずかしい行為とも言えた。

 何より相性が悪いと響子が思っている黒依や慶尚にまで、こんな情けない姿を見られてしまっているのだ。今後どんな顔をして彼等と顔を合わせたらいいのだろう。涙が止まらない中、そんなことが頭の中を微かによぎるが、だからどうするのだという答えを考える余裕までは今の響子にはなかった。

 一度折れてしまった心はそう簡単に修復してくれず、零れてしまった涙を引っ込める術もない。ただ今は少しでも長く、それが例えとても格好悪いことだとしても、君彦に手を握り続けて欲しかった。

 そうしてくれると涙を止められそうだと思えたからだ。折れた心の修復も早くなりそうだと思ったからだ。

 屋上に着くまでの間、君彦達は殆ど無言で歩き続けていた。

 ようやく到着するなり先頭切って歩いていた猫又が声を上げる。


『あ~あ、割と一色即発だったなぁ!』


 能天気かつ無頓着な台詞を吐いた猫又に、カッとなった君彦が空いている方の手で二又の尾を引っ掴むと軽く力を込めた。

 短く醜い悲鳴を上げた猫又は掴んだ手をぱっと放された瞬間に駆け足となり、屋上の真ん中辺りまで逃げていった。

 すると先程の猫又の悲鳴を聞いた響子は泣きながらもくすりと軽く笑い、これまで胸につかえていたものが少し軽くなったように気分までも随分とラクになって、自分から繋いでいた手を放した。

 それに気付いた君彦がすぐに響子の方へと振り向くと、そこにはいつものぎこちない笑みが現れていた。


「もう、平気。本当にもう大丈夫だから……」


 そう口にする響子のことがまだ心配だった君彦は、これもまた強がって言っているだけなんじゃないだろうかと思うようになっていた。今まで響子が自分達に弱みを見せたことがない所から、今も君彦達に心配をかけまいと平気なふりをしているだけなのかもしれない。しかしそんな風に勘繰った物言いをして彼女の気分を害してしまうとも限らないと思った君彦は、何て言ったらいいのか言葉に詰まってしまっていた。

 そんな時、またしても黒依が明るい声で弁当を食べながらでも話が出来るだろうと全員に告げる。その言葉には慶尚も賛成したようで、早速屋上の真ん中に陣取ると君彦から受け取った弁当を広げて食事にありついた。

 何事もなかったように、先程の出来事などお構いなしのように見えたが、それは逆だと君彦はすぐに悟る。変に響子に対し気を使って、腫れものを触るように扱うとかえって響子に気を使わせることになるんだろうと、黒依と慶尚が取った行動はそうした配慮からであったのだ。

 今の君彦のように、何かにつけて励まそうと宥めようと気遣っても、それは勝気な性格である響子にとっては逆の効果をもたらしてしまう。それならいっそ、これまでのことは一旦白紙に戻したような態度を取って、互いに気を使うのはナシということにしておけば、きっと響子も普段の響子に戻ってくれるだろうと黒依は考えたのだ。

 少なくとも君彦はそうであると信じていた。

 四人それぞれ弁当を開けると、互いのおかずを見ては意見を言ったりして、少しずつではあるがわだかまりがなくなっていき、いつもの会話になりつつあった。響子も彼等の配慮を察して、心のどこかで情けないと思いつつも有り難いと感謝して、とても素直に食事をしていた。今だけは苦手であった黒依や慶尚相手でも、笑みをこぼすことが出来るような気がした。

 そんな時ふと、重くのしかかっていたものがなくなっていることに今頃気付く。

 重だるい感じがする時は決まって響子の背後に色情霊がべったりとまとわりついている時である。しかし今はまるで全身が羽のように軽くなって空高く舞い上がりそうな程に、体が楽になっていた。

 険悪な雰囲気だった教室からこの屋上に来るまでの間、色情霊に取り憑かれていた感覚を気にする余裕が全くなかった響子は、いつどんなタイミングで自分から色情霊が離れたのか、それはわからない。

 君彦の登場で色情霊が離れたのか、慶尚が一時的に祓ったのか、はたまた猫又が気まぐれに祓ったのか。

 ともかくあの邪悪な色情霊の存在がないことに響子は心にずっと付けられていた重い枷が外されたように、気分までもが晴れやかさを取り戻しつつあった。

 弁当を食べている間は、響子に何があったのか……その話題には誰も触れようとはしなかった。

 空気を読もうとしない黒依や慶尚ならば何かしらそういった話題を口にするかと思いきや、今日の二人は随分と空気を読んでいるのか、場を壊すような真似はしない。そんな二人の様子が少しばかり気にかかってはいたが、たまにそんな日もあるんだろうと楽観視する響子。何より食事時にだけは、響子の普段の生活について触れて欲しくなかったから有り難いことだと思った。

 ここまで一緒に行動するようになるのだから、いつかは話す時が……明かす時が来るかもしれないという予測はしていた響子。それがいつなのか明確でなかったが、君彦という存在のおかげでそんな日は思っていた以上に早く訪れるのであろうと、最近になってよく思うようになっていた。

 今まで他人に対して全く信用することの出来なかった響子がそんな風に思うようになったのは、殆ど奇跡に近かった。色情霊のせいで男性不信に陥り、男を誘惑しているんだと周囲から誤解され、同性から嫌悪されてきた響子にとって、伯父(伯母?)である蝶野蘭子(志岐城則雄)以外の他人は信用することが出来なかったのが本音だ。

 それが今、響子自ら彼等を受け入れようとしている。

 響子もそれを自覚し、自ら彼等に歩み寄ろうと努力するようになっていたのだ。

 ほんの少しだけでもいい。今だけは虚勢を張るのではなく、そのままの自分で接したかった。

 まだ心からの笑顔を上手く作ることは出来なかったが、懸命に微笑もうとする響子の気持ちを察したのか、君彦を始め黒依も慶尚もぎこちなく微笑む響子に対してからかうことなく、自然体のままの態度で接する。

 ぽつりぽつりと何気ない会話をしながらも初めて自分の為に手作り弁当を作ってもらった慶尚が、君彦に向かってダメ出しをしては君彦は怒り狂っていた。そんな二人の漫才のような喧嘩を笑いながら眺める黒依と響子。いつの間にか響子から固い微笑みがなくなり、自然な笑顔がこぼれていた。君彦達がようやく弁当を食べ終える頃には先程までの張り詰めた空気のようなものがなくなり、いつも通りの穏やかな雰囲気に戻っている。

 随分とリラックス出来るようになったところで、猫又が綺麗なガラス玉の大きな瞳で響子を一瞥すると、今度は君彦へと目線を定めて話しかけた。昼休みも長くはない。この場で和んでも意味はないのだ。昼休みが終われば響子は一人で自分の教室へ、響子のことを良く思っていない連中がいる巣窟へと戻らねばならなかった。

 

『おい、君彦。飯が終わったら話し合いとかするんじゃなかったのか?

 だけど今回の件に関しては、オレ達の出る幕ナシだと思うけどな』

 

 それまで和やかな雰囲気になっていたが猫又のこの言葉によって、再び響子の教室での出来事が蘇った。しかし今はそれ程重苦しく感じることはなく、どこか仲間内で作戦を練る……といった雰囲気で話題に入ることが出来ている。これも恐らく君彦のこれまでの努力と、それに応えるように響子が心を少しずつ開こうとした結果なのかもしれなかった。

 今回ばかりは黒依も余計な茶々を入れることなく大人しくしているが、慶尚は何とも表情の読めない仏頂面で何を考えているのかわからない様子である。

 いつも適当でいい加減な態度ばかりの猫又がいつになく真剣に語った言葉に、君彦は首を傾げるような仕草をしながらオウム返しのように聞き返した。


「出る幕はないって……、それは一体どういうことだよ?

 とりあえず志岐城さんがこれ以上不利な状況にならないように、色情霊を何とかしないと駄目だって話のことだろ。

 ここにいる四人で何とか意見を出し合ってだなぁ――」


「だから今回の問題は色情霊が全ての原因じゃないかもしれないってことだろうが」


 君彦が最後まで話をし終える前に慶尚が横から口出しをした。猫又の言葉の意味をきちんと理解していないように感じられた慶尚が、少し苛立ったような口調で短く説明すると君彦はまたしても腑に落ちない表情で眉根を寄せている。

 そんな君彦の鈍い反応に腹の奥が煮えたぎる思いがしたが、慶尚は心の内を表に出すことはなく、いつもの不機嫌そうな表情で君彦をねめつけた。普段から無愛想な顔でいた為に、今この瞬間慶尚が不快に感じていても誰もそうだと気付かない。それはまるで計算されたように、慶尚の本音を悟る者は誰一人として……慶尚の守り神である犬神以外に理解する者はいなかった。

 いつもと何も変わらないように見えた君彦はまたしても慶尚が自分のことを馬鹿にしていると思い、憤慨したように言い返す。


「だから! 志岐城さんのクラスメイト達は色情霊の邪気みたいなやつにあてられて、変な風になったんだろ!?

 そうでなければ同じクラスの生徒に向かってあんな酷いこと出来るわけないじゃないか」


 しかしその言葉はそのまま猫又によって否定されてしまった、実にあっさりと。


『君彦、あれが人間の本性ってやつなんだよ。

 今回こいつに取り憑いてた色情霊は、教室の奴等全員を操ってたわけじゃねぇ。恐らく色情女に殴り飛ばされた野郎だけだろうな。事の顛末を全て見てたわけじゃねぇからオレ様には何とも言えないが……。

 だが他の生徒達は別に色情霊の邪気でああなってたわけじゃねぇみたいだぜ。

 世間一般で言う所のいわゆるイジメってやつだ。人間の中じゃどこにでもある現象なんだろ、そういうの』


 イジメという言葉に響子はぴくりと反応する。自分がいじめられていたという事実を知られることは、とても惨めで居心地の悪いものであったからだ。いつでも強く在り続けようとしていた響子が、実はクラスメイトから苛められていたなんて恥ずかしくて顔を上げていられなかった。自分自身がとても情けなくて、惨めで、恥ずかしい人間のように思えてくる。

 しかしこの場の誰一人として響子のことを惨めないじめられっ子という目つきで見ようとも、扱おうともしなかった。そんなことよりも他に解決しなければならない問題がある。何が最も重要であるかわかってるような彼等の態度に、響子は安心半分不安半分でその場にいた。少なくとも黒依も慶尚も、響子のことを蔑む素振りを見せてはいない。

 むしろ猫又や慶尚と君彦の間にある状況分析の相違に注目しているようであった。

 猫又の言葉に「そんなことはない」と言い返してやりたかったが、その自信も今や君彦の中では揺らぎを見せ始めている。霊に関して特に詳しい知識を持っているわけではないので、響子に取り憑いている色情霊にどこまでのことが出来るのか君彦は何も知らない。

 ただ「色情霊」と聞けば一体何をする霊なのか大体の想像がつくものの、それが人間の悪意を増大させるようなことまでも可能かどうかと問われれば君彦はその答えを持たない。

 自分は余りにも無知で、余りにも非力であった。

 それが浮き彫りにされたことで猫又への反論が躊躇われたのである。

 そんな時、慶尚がふと、言葉に詰まっている状態の君彦に対して疑問を投げかけて来た。


「お前、本当は一体何がしたいんだ」


 唐突な質問に君彦は怪訝な表情を浮かべ、またすぐに慶尚の質問の意味がわからずに眉根を寄せて聞き返す。すると慶尚は無表情の中にも真剣さを帯びたような顔つきで再度繰り返した。


「お前は一体どうしたいんだって聞いてるんだよ。

 志岐城に取り憑いてる色情霊を何とかしたいのか、それとも志岐城の回りの連中をどうにかしたいのか。

 お前達とはそれ程長い付き合いをしているわけでもないし、どういったいきさつがあるのかもオレにはわからない。だからオレが見た限りのことしか言えないがな。猫又――お前が一体何をしたいのかオレにはさっぱりわからないんだよ。最初はお前の立場を考慮して状況を窺っていたら、色情霊を祓うことを目的として志岐城のことを助けてやりたいのかと思ってた。だが黙って様子を見ていればいる程わけがわからなくなってくるんだよ。お前は仕切りにこう言っているよな。

 『志岐城の力になりたい』、『志岐城を守ってやりたい』って。だがそれはどういう意味で助けようとしているんだ? そもそもお前には色情霊を祓う程の力がないとオレは思っている。未だに祓い切れてないからきっとそうなんだろう。だが色情霊にまつわること以外にでもお前は首を突っ込んでは『何かしてやりたい』と躍起になる。そんなお前の行動を見ていたら苛立ってしょうがないんだよ。

 色情霊を祓うだけの力があるってんならオレは別に何も言わないし、余計な手出しをしたりもしない。好きにしたらいい。だがそんな力もないくせにお前は綺麗事ばかりを並べ立て、実現出来ないくせに妙に前向きで楽観的に振る舞う。

 そういうのを見ていたら腹立たしくてムカつくんだよ。結局何がしたいのか具体的なことは何も示さないし、悪霊を祓う力を身につける為の努力もしない。知識を深めようとしている様子もない。

 だったらお前は何から志岐城を守るつもりで、何を頑張っているつもりなんだ」


 今まで慶尚が腹の中で抱えていた疑問や疑念、君彦にずっと抱いていた不快な感情や思い。それら全てを吐き出した慶尚はほんの少しだけ胸のつかえがとれたような気分になった。しかしそれは慶尚がずっと密かに思っていた言葉を口にしただけで、君彦からその答えを得たわけではない。しかしようやく伝えることが出来たという開放感はとても大きかった。

 今この状況であえて口にしたのは、これらをはっきりさせることも現状の解決への糸口に繋がるかもしれないと直感的に感じたからである。勿論その確証はどこにもない。もしかしたら話がただ脱線しただけで、現状打破にまでは至らないかもしれなかった。

 それでも慶尚はこれらの問いかけをすることで、君彦に何らかの答えを求めることが出来るかもしれないと思い、こうして疑問を投げかけたのである。それらの疑問に君彦がどう答えるのか。それによってはまた新たな道しるべが慶尚の前に現れるかもしれない。


 何から響子を守るつもりなのか。

 どうやって救うつもりなのか。

 

 きっかけは何の関連性もないかもしれないが、これを機に君彦の中で何かが変わると――慶尚はそう信じたかった。

 

 

  



 

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