気付く
響子は一瞬、既に今昼休みに入ってること自体忘れかけていた。
だからかもしれない。今自分の目の前に他のクラスであるはずの君彦がこの場に居るのがとても不思議に思えた。
頭の芯がぼんやりとして思考が思うように働いてくれない。周囲から浴びせられていた冷たい視線はいつの間にか響子から、響子のことをかばっている君彦へと注がれていた。
響子が何も言えないまま君彦の背を見つめ続けていると、突然君彦は振り向き話しかけて来る。
「志岐城さん、大丈夫? 怪我とかしてない?」
「あ……あたしは別に、平気……」
なぜそんな風に聞かれたのか一瞬わからなかった。これも思考が鈍くなっているせいかもしれない。それ以前に他人から自分の心配をされることなんて滅多になかったからなのかもしれない。
咄嗟に言葉を返したが、君彦の気遣いがとても不自然で違和感のような思いを感じずにはいられなかった。なぜなら響子は目の前に倒れ伏している男子生徒を思い切り殴り飛ばしたからである。男子生徒がカッターナイフで響子のことを襲ったなんて、教室内の誰一人として気付いていないし、恐らく見てもいないだろう。
クラスメイト全員が響子一人を悪者扱いするような眼差しで、侮蔑していたのだから。
周囲からすれば響子は一方的に暴力を振るうような乱暴者であり、クラス共通の「敵」であるのだ。
色情霊に惑わされていない男子生徒もその中に含まれる。色香に惑わされていなければ彼等は正気を保ったままで、響子の振る舞いを目の当たりにするのだから、その暴力的な行動で一線引くのは分かりきっていた。
今まで身内である蝶野蘭子(志岐城則雄)以外、響子に手を差し伸べてくれる人物などただの一人もいない。
ただここに来て初めて、響子に対して優しく手を差し伸べてくれる人物に出会えたのだ。
その相手が今――男子生徒に暴力を振るった響子のことをかばってくれている。
響子にはそれがとても嬉しくて堪らないはずなのに、急激な不安に襲われた。
なぜかはわからないが、とても嫌な予感がしたのだ。
そしてそういう予感だけはなぜか当たってしまう。
「なんでそんな女をかばったりするのよ、普通逆じゃない!?」
今まで散々響子のことを罵っていた女子生徒が騒ぎ出す。それまで男子生徒を殴ったという驚きによって言葉を失っていた彼女達であったが、余所の生徒である君彦の乱入によって敵意を蘇らせたのだ。
その言葉を皮切りに女子生徒がこぞって君彦のことを非難し出した。
「あんたでしょ、志岐城さんと仲が良いっていう男は。
今こっちは取り込み中なんだから余所者は引っ込んでてくれない!?」
「あんた達もしかしてデキてんの!? やっだキモ~イ!」
「てゆうかさぁ、こいつってほら……あの有名な猫又って生徒じゃない?」
「あぁ知ってる! ここら辺じゃ頭のおかしい奴って有名よ」
「頭のおかしい男と暴力女か、最低のカップルね!」
猫又をターゲットに悪口雑言を浴びせ笑い者にする女子生徒達、下品な笑い声を上げて指をさす。その光景を、言葉を見聞きした時……響子の中で何かが弾けた。
体中の血液が逆流するように全身が熱くたぎってきて、腹の奥がふつふつと煮えたぎるような感覚だった。
気付いた時には響子のことをかばっている君彦を押しのけるような形で、響子が前に出て怒声を浴びせていた。
「あんた達、いい加減にしなさいよ!」
怒りに任せた怒声は教室中に響き渡り、一瞬にして静まり返った。
今まで散々沈黙や無抵抗を貫いて来た響子がここで遂に怒りを露わにする。
この高校に入学して、このクラスに入って、自分に対して卑猥な行為を仕掛けて来る男子生徒に鉄拳を浴びせたことはあっても、それ以外の生徒に向かってこのように声を荒らげたのは初めてだった。
「今こいつのことは関係ないでしょうが、あんた達が貶めたい相手はこのあたしでしょ!?
だったらこいつの悪口なんて言わないで!
こいつのことを悪く言っていいのはあたしだけなんだから、誰一人としてこいつのこと悪く言うのはあたしが許さないわよ!」
照れ隠しでもなくそう言い放ったのは響子の本心であった。
性格の歪んだ自分が善良な君彦のことを悪く言うのは仕方がない、それは響子自身の性格が歪んでしまっているから悪いようにしてしまうのは不可抗力なのだ。ただし君彦が響子以外の他の誰かから悪く言われるような、そんな悪い人間ではないことは分かりきっている。だからこそ響子は自分以外の人間から、君彦が悪く言われるのは堪らなく嫌でしょうがないのだ。
君彦が周囲から悪意ある言葉を投げかけられるような、悪い人間でないことは響子が一番わかっている。
響子のことをかばって味方してくれている良い人が、酷い扱いを受ける必要はどこにもないのだ。
こいつはとても軟弱で、お人好しで、いつもへらへら笑っていて、どこか頼りない男だ。
だから自分がかばってもらう必要なんてどこにもない。
むしろ自分が守ってあげなくちゃ、危なっかしくて仕方がない。
本当は「守られたい」って思ってても、守られるだけじゃ駄目なんだ。
今まで響子に集中していた冷たい視線が、一斉に君彦の方へと移って行く。響子をかばったことで響子一人に定まっていた敵意が君彦にも定められたと瞬時にわかる。君彦は関係ない、ましてや別のクラスの人間、巻き込むわけにはいかなかった。
響子は自分を守ろうとしている君彦の腕を掴んでこちらへ無理矢理向かせる。
その時、響子は初めて見た気がした。
真剣に自分を守ろうとする逞しい君彦の真剣な面差しを。
しかしそんなことで心が揺れている場合ではなかった。今はとにかくこの状況から君彦を追い出さなければならない。
「あんたもよ。
あたしのことは放っておいてちょうだい。一人でも全然平気なんだから!
大体あんたには関係ないことなんだし、いちいち首を突っ込んで来ないでよ。
前から言ってるでしょ、余計なことに自分から巻き込まれようとしないでって!」
そう告げる響子に、君彦はいつものような能天気な笑みを浮かべることなく、どこか不機嫌を思わせるような厳しい表情で響子を見つめ返して来た。こんな風に君彦が笑みの無い顔を見せたことはない。怒っている風にさえ見えた。
君彦は自分の腕を掴んでいる響子の手を、逆に握り返す。
ぎゅっと力強く握って来る君彦の手に響子は心が折れそうになった。
「放っておけるわけないじゃないか。それこそ今まで何度も言ってることだ。
友達が困ってるのに見て見ぬふりなんて出来ないよ。
それに志岐城さんが泣いてる姿なんて、オレはこれ以上見ていたくないから」
そう言われて初めて気付いた。
響子の頬に温かい雫が流れている。頬を濡らす涙に片手で触れ、それを目にしてようやく気付いた。
周囲の人間に罵られ、罵倒され、敵意を向けられたことなんて今までに何度もあった。
その度に辛かったけれど決して人前で涙など流さなかった。
それが今こうして次々と涙が零れ落ちて、止めようと思っても止まらなくて、次第に視界が歪んでしまう程に涙が溢れて行く。
意外そうに涙を拭い続ける響子に、君彦は胸が痛くなった。
こんなになってまで虚勢を張って来た響子、強くあろうとした健気な響子を見て、今まで響子が「何か」と一人で戦ってきたことに今初めて気付いた。
そういえば、初めて会ってからこれまで……響子が友達と一緒にいる所を見たことがあっただろうか?
一緒に弁当を食べることになった時、響子に躊躇いがなかったことになぜ自分は疑問を抱かなかったのだろうか?
クラスに友達がいたのなら、何かしらそういう素振りがあったはずだ。
今日はクラスの友達と弁当を一緒に食べるから行けない、とか。一緒に食べる曜日を決めるとか。
そういったこともなく、自分が頼めば響子は何でも了解してくれると、どうしてそんな風に安直に思えたんだろう。
響子が抱えている問題は色情霊だったはず。それがなぜこうやってクラスの殆ど全員から邪見にされなければならないのか、それを何とかしなければ響子が本当に心からの笑顔を見せてくれるはずがない。
そう察した君彦がクラスメイト全員に向かって言葉を投げかけようとした時、先に行動したのは慶尚だった。
慶尚は勇んで言葉を投げかけようとした君彦の肩を掴んで止めると、相変わらずの表情でねめつける。
彼もこの者達と同類なのかと一瞬考えてしまったが、どうやら違ったようだ。
慶尚は君彦を片手で制したまま、響子のクラスメイト全員に向かって低い声で脅しをかける。
「何がどうなってるかよくわからないが、これ以上何かするようならこの変人が黙っていないぞ。
こいつの影の噂を知っている人間ならある程度わかっているはずだからな。
妙なことになりたくなければ、もう志岐城にちょっかい出すのは止めろ……いいな」
言葉の半分以上が脅迫であったことは間違いない上に、でたらめな部分も含まれているのは承知出来ることであったがクラスメイトの全員が慶尚の外見と口調ですっかり萎縮してしまい、反論する者は誰一人としていなかった。
しん、と静まり返った教室内であったが黒依の黄色い声によってようやく時が動き出したように、全員の視線が黒依に集中した。
「とにかく、これまでのことは一旦全部なかったことにして。早くお弁当食べに行こうよ。
嫌ってる人間に向かっていつまでも醜い言い争いをしたって時間の無駄だし、それこそ馬鹿馬鹿しいものね。
相手にするだけ自分が愚かしいって思えばいいじゃない。
だから早く行こうよ、君彦クン、志岐城さん」
その言葉に同意するように慶尚は掴んでいた手を君彦の肩から放すと、無言のまま教室から出て行った。まだ刺すような視線がいくつかあるが、その視線から逃れるように教室を去るのはどこか釈然としないがこのままここに残った所で自分に何が出来るのか、具体的なことがわからない以上、響子の状態を見て一旦この場から去った方が得策かもしれないと思った君彦は、響子の肩を片手で支えながら一緒に行こうと促す。
響子はまだ涙を抑えきれていなかったが、黙って君彦に従い、手には弁当の入ったきんちゃく袋を掴んだまま一緒に教室から出て行った。昼休みが終われば響子は一人でこの教室に戻らなければいけない。それまでに何とか響子を宥め、対策を考えなければいけない。きっとこの昼休みはその話題ばかりになりそうだと思いながら、君彦達は教室の戸をぱたりと閉めた。