涼子の気持ち
主に物の怪達の溜まり場となっている居酒屋・猫目石の女主人である涼子は、うっかりマタタビを浴びてしまったことで気分が高揚し、すっかり泥酔状態となって猫又に甘えていた。
普段は姐御肌で気丈な女性として振る舞っていたが、季節のせいもあってか理性を失った彼女は猫の本能のままに猫又の温もりをひたすらに求めて来ている。勿論涼子の現状は全てマタタビのせいであると理解している猫又は、うっとりとした眼差しで自分を欲している涼子のことを無下にすることも、そのまま放っておくことも出来なかった。
いつも冷静な涼子が泥酔したことにより我を忘れ、このまま外へ出て行ったらどうなるか。
想像しただけでも恐ろしかった。
今は妖怪化、つまり人型をしている為に外見上は人間とさほど変わりはないが、元々彼女は猫である。
そんな涼子が発情したまま外出し、その欲求を晴らそうと本能剥き出しになった場合には、目標となる対象は当然オス猫相手になってしまう。ただ単に両手で抱き抱え、愛でるだけならば愛猫家の人間でもよく見かける光景となるが、涼子の場合はそうではない。
確実にオス猫を襲っていることだろう。
人の姿をした涼子がそこらの猫を犯す姿……。
猫又は涼子に首根っこを強く掴まれたままそんな光景を想像しつつ、首を大きく横に振って事態の収拾に全力を尽くそうと決意する。
しかし神通力の違いで言えば明らかに猫又の方が上であるにも関わらず、相手は猫又と違って人間の姿をしている。
思った以上に涼子の握力などが強く、掴まれた猫又はそれを振り解くことが出来ずにいた。
涼子をどうにかする前に自分がどうにかされそうな状況で、猫又はほんの少しだけ泣けてきそうになる。
しかしこんな所で打ちひしがれている場合ではない、というよりそんなことを考えている間に自分が犯されそうな状況なので四の五の言ってられないのだ。
ずるずると引きずられるように猫又を引っ張る涼子は、いつになく女の表情になっていた。
涼子がこんな顔をするのは猫又が気まぐれで猫目石を訪れた時……、涼子と猫又が二人きりでお酒を酌み交わす時に時折見せる顔だった。穏やかに、嬉しそうに、どこか安心するような微笑みで注いでもらった酒はまた格別であったことを猫又は思い出す。
この表情は違う。
ふと猫又はそう察した。
涼子がこんな表情をする時は、彼女が心から安心している時だけだろう。
決して欲情している時の表情ではない、多少の強引さは見受けられるが決して猫又を手篭めにしようとしているわけではなさそうだと猫又は涼子の嬉しそうな顔を見て思った。
その瞬間涼子に引っ張られないように踏ん張っていた足の力を抜くと、そのままひょいっと体が宙に浮く。
両脇を抱えられながら猫又の脂肪たっぷりの体はだらりとぶら下がった状態になり、そしてすっぽりと涼子の胸に納まった。
ほんのりと白梅香の香りが猫又の鼻をくすぐる、その香りに一瞬頭の中が麻痺したような感覚に陥る。
しかしここで自分までもが冷静さを失うわけにいかないと、猫又は必死になって甘ったるい状況に耐え忍んだ。
『り……涼子、苦しいから放せって!』
猫又は涼子に刺激を与えない程度にやんわりとした口調で注意した。
だが猫又を抱き締める力は緩まることなく、それどころか更に力を加えたように抱き締めるものだから猫又は圧迫感で息苦しくなってきた。身悶えたような表情で口を大きく開けながら何とか呼吸しようと必死になっていると、猫又の耳元で涼子が囁いてきた。
『猫又さん……、羽九尾なんかにならないで……』
『――――っ!』
猫又は一瞬聞き間違えたのかと思った。
しかし確かに聞こえた、「羽九尾」と――――涼子は確かにそう口にした。
そしてようやく気付く。
猫又を強く抱き締めながら、涼子は微かに肩を震わせ……小さな嗚咽が聞こえてくる。
泣いている。
猫又を抱き締めているので涼子の顔を確認することは出来なかったが、涼子は確実に泣いていた。
なぜ彼女が静かに涙しているのか、その理由がわからないまま猫又はどうしたらよいのかわからずただ大人しく抱かれていた。
すると小さく、ぽつりぽつりと涼子が話し出す。
猫又は何も言わず、ただ黙って彼女の言葉に耳を傾けた。
『カナから聞いたわ。
猫又さん……ついこの間、猫神化したんですってね。
猫又さんが猫神化する為に必死になってるのは、ウチにだってちゃんとわかってるつもりよ?
でも……、あの時の猫又さんはまるで別の……全く異質な存在だったって、カナが言ってた。
まるで自分が知ってる猫又さんじゃないみたいだって。
ウチも……、この町に住んでる物の怪達だってそうよ。
みんな猫又さんに居てもらいたいのに……、どうして今まで通りじゃ駄目なの?』
声を震わせながら懇願する涼子に、猫又は何も言えなかった。
そもそも猫又は精神的ショックによって一時的に猫神化したという事情もあり、その時の記憶が一切残っていないのだ。
猫神化した時の記憶がすっぽりと抜け落ちていて、気付いた時には君彦のアパートで寝ていた。
我を失っていたのか、それとも全く別物に変化してしまったのか、その詳細はわからない。
だからこそ猫又が猫神として神格化した時、その後どうなってしまうのかなんて猫又自身まるで考えていなかったのである。
ただ猫又の目標はあくまで神格化することであった。
そうなったらこの町が一体どうなるのか、物の怪達は、涼子は。
今こうして改めて涼子から聞かされ、猫又は考えもしなかったことを告げられ、途端に迷いが生じたのだ。
その迷いが猫又の言葉を詰まらせる。
あくまで猫又の最終目標は変わらない、それは何があっても決して揺らぐことはない。
だがしかし自分の周囲の事まで視野に入れていなかったという事実を突き付けられ、改めて考えさせられた。
ここまで関わってしまったからには、とてもなかったことになんて出来そうにない。
回りは全て自分と深い関わりなんて持つ必要の無いものばかりだと思って接して来たつもりであった、しかしこの迷いに気付いた今となってはこれら全てが「必要の無いもの」だなんて到底思えない。
その事実に猫又の胸は突然、締め付けられたような痛みを感じた。
この痛みは「あの時」の痛みに似ている。
この世で最も大切な者を失った時の痛みに……。
『……涼子』
猫又は自分でも無意識に涼子の名を呼んだ。
自分を抱き締めながら静かに泣き続ける涼子、決してマタタビによって本能を剥き出しにし発情していたわけではない。
マタタビによって今まで堰き止めていた思いが一気に爆発し、思い悩んでいたことをこうして猫又にぶつけてきたのだ。
どれだけ辛かったろう。
涼子はこの町の物の怪達に頼りにされる存在、そんな涼子が弱みを見せられるはずもない。
だからこそ誰にも悩みを打ち明けることが出来ず、一人でずっと抱えて来たのだ。
そんな涼子の不安に気付いてやれず、今まで何も……深く考えることなく今日まで来た猫又は途端に申し訳ない気持ちで一杯になってきた。涼子の悩みに気付いてやれなかったことだけではない、どんなに懇願されようと猫又は自身が羽九尾猫又になることをやめるわけにはいかないということに、申し訳なさを感じていたのだ。
こればかりは誰に言われようとも、それが例え君彦だったとしても猫又の願いを妨げることは出来ないだろう。
猫又は自分を抱き締める力を決して緩めようとしない涼子の頭を、優しく前足で撫でると消え入るような声で囁いた。
『……悪ぃな、涼子』
たった一言、そこには涼子の願いを聞き入れることが出来ない理由も、どうしても羽九尾猫又にならなくてはならない理由も、何も説明することなく、たった一言だけ謝罪の言葉を述べるだけにとどめていた。
それが猫又の答え。
どんなに自分が他人に慕われようとも、必要とされていようとも、猫又はそれら全てを捨ててでも成し遂げなくてはならない目的があった。猫又のことを慕う涼子の頼みであろうと、猫又はそんな彼女の制止を振り切ってでも進まなくてはならない。
たった一言の中に、それら全ての思いを詰め込んだつもりだった。
それ以上の言葉は必要ない。
多くを語らず、猫又は泣き続ける涼子に抱かれたままの状態で、彼女の頭を優しく撫でていた。
――――と、その時。
猫目石の硝子戸が勢いよく開けられると、そこには学ランにたくさんの猫の足跡を付けた君彦がぼろぼろの状態で現れた。
「猫又っ! やっぱりここに――――っ!」
一瞬の沈黙、少し眼鏡の位置がずれた状態で目の前に居る猫又に釘付けになる君彦。
猫又もまた涼子に抱き締められたままで、まずい場面を見られたと言わんばかりの表情になり全身の毛が逆立つ。
すると君彦は一瞬にして全てを察したのか気まずそうな笑みを浮かべながら、猫又に向かってまるで他人行儀のように軽く会釈すると、そのまま硝子戸を閉めて出て行こうとした。
そんな君彦の態度が明らかに何かを勘違いしているようだったので、猫又は咄嗟に声を張り上げ訂正する。
『ちょっと待てーい、君彦ーっ!
そんなんじゃないからな!? これはそんなんじゃないからなーっ!?
おいこら、聞いてんのか君彦! 戻って来いっつってんだ、このボケーっ!』
だがしかし猫又の必死の呼びかけも空しく、君彦が猫目石に戻って来ることはなかった。
同時に君彦が訪れたことにより正気を取り戻し、涙を払拭させた涼子は先程まで強く抱き締めていた猫又を無残にも床に放り出し、すっと立ち上がると何事もなかったかのようなしれっとした態度で接して来た。
『さ、君彦さんも心配してることだし早く行ってあげたら?』
その顔にはわずかに涙の跡が残っていた、それでも気丈に笑顔を取り繕った涼子の表情は気持ちを吐露する前とは打って変わって清々しいものへと変わっていたことに、猫又は気付いていた。