猫又の災難
『ぎにゃあああああああああっっっ!』
町中にこだまする醜い悲鳴。
その絶叫を聞きつけ木々にとまっていたスズメ達が飛び立ち、声の届く範囲にいる飼い犬達は一斉に吠え出した。
分譲住宅で建ち並んでいる屋根の上から何かが大きな音を立てて走り回っている。
先頭を走って行く足音の持ち主を追い掛けるように、次から次へと大勢のメス猫達が黄色い声を上げて走っていた。
可愛らしい鈴の付いた首輪を付けた真っ白い猫から薄汚れた野良猫まで、殆ど町中に住んでいるであろう猫達が一斉に追いかけ回しているもの……それは。
『だああああああっ、しつこいわお前等ああああっ!
オレをそこらのオス猫と一緒にしてんじゃねええええっっ!
言っておくがオレはお前等なんかに興味はねぇんだよおおおおおっっ!』
息を切らし、脂肪で伸び切った腹を左右に揺らしながら走り抜けるアメリカンショートヘアの毛並みをした肉肉しい猫、猫又は自分を追いかけて来るメス猫達を振り切ろうと必死になっていた。
まるで猟奇殺人鬼に狙われたヒロインのように必死になって逃げ回っている猫又であったが、当然追いかけて来るのは猫又の命を狙っているわけではない。
メス猫達が狙っているのは――――。
『待ってぇーん、猫又ちゃーん!』
『いやんイカスわ、貴方のその逞しい体つき~!』
『だからお願いよ~ん』
『貴方の子供を産ませてちょうだ~~~~い!!』
そう、今はメス猫達の発情期。
妖怪化した化け猫といえども、猫又はれっきとしたオス猫。
この町に住まうどの猫よりも長く生き、逞しい生き様、そしてその強さと支配力。
どれを取っても他の猫達に引けを取らない猫又の子孫を残そうと、町中のメス猫達はこぞって猫又を追い掛け、交尾に持ちかけようと必死なのである。
当然妖怪化した猫又にも子孫を残す本能は残っているが、それ以上に理性も備わっている為、メス猫の求愛に応じて交尾に至ろうという気持ちなど、今の猫又にはさらさらなかった。
そもそも猫又は以前からどのメス猫とも子孫を残そうとはせず、自分だけの自由を満喫して来た自由そのものの猫。
今更子供を残そうという考えや、メス猫をはべらせようという欲求さえも殆ど興味がないに等しかったのだ。
だが猫又自身がそういった考えであったとしても、発情期を迎えたメス猫には関係ないこと。
こうして毎年毎年猫の発情期が訪れる度に猫又は町中のメス猫達に追いかけられ、交尾を迫られて来たのだ。
いつもなら発情期の間だけでも君彦と一緒に住んでいるアパートに引きこもって、時が過ぎるのをひたすら待ち続けていたものだが今回だけは例外であった。
犬塚慶尚との戦いにより神通力を大量消費した猫又は、本来の強い力を失ってしまいとても脆弱な状態にまで落ち込んでいたのだ。
それでも霊力のない一般人に見えない程度には神通力を維持出来ているし、低級な悪霊を退ける力もまだ残っている。
しかし少しでも賢しい悪霊相手ともなると力がわずかに及ばず、本来の力を出せない所か動きも少々鈍ってしまっていた。
消費した神通力を早く取り戻すには君彦の側に控えることと教えたのは、君彦の実の祖父である猫又征四郎。
彼の助言により猫又は、君彦の側にずっと控えていたのだ。
君彦もまた文句を言いつつも邪見にすることはなく、猫又が学校について来てもまるで空気のように自然に振る舞っていた。
そして今、君彦と一緒に登校している途中。
発情期の季節になっていたことをすっかり忘れていた猫又は、うっかり野良であるメス猫に見つかるや否や他のメス猫達にも追いかけられる羽目になったというわけである。
その際に君彦もメス猫を退けようと奮闘していたが、多勢に無勢……猫の波に対抗する術もなく引っ掻かれ、蹴り飛ばされ、踏みつけられる様となってしまった。
黒い学ランが猫の足跡だらけになって地面に這いつくばった状態となった君彦を救おうにも、メス猫達の狙いはあくまで猫又。振り返り戻りでもすれば捕まって貞操を奪われてしまうのは目に見えていた。
猫又は大きなダミ声で君彦に謝罪すると、そのまま君彦を見捨てて住宅街の塀を駆け上がり、そのまま屋根伝いに駆け抜けることとなったのだ。
だがこのまま走り続けても太った猫又の方が体力が尽きて、いずれメス猫達に取り囲まれてしまう。
そう悟った猫又は進行方向をとある場所へと向けて走り出した。
向かう先は商店街、……の外れにひっそりと佇む一軒の居酒屋。
裏道を駆け抜ける猫又を追い掛けながら、メス猫達は途中の障害物で足を取られたり他のメス猫と衝突して大惨事を招いたりと、狭い路地裏での障害物競走が功を奏し、何匹か巻くことに成功した。
しかしそれでも猫又を追い掛けて来るメス猫の勢いは後を絶たず、次から次へとどこから湧いて出てくるのか疑いたくなる位に鳴き声を上げて追い掛け回して来た。
その度に猫又は舌打ちし、鬱陶しい顔つきになりながらも急いで目的地へと向かう。
恐らく猫目石に逃げ込めば、猫娘である涼子の力で何とかなるだろうと思ってる猫又であったが、それでもこれだけ大量のメス猫を引き連れて店に逃げ込むわけにはいかないと考える。
せめて半分だけでも数を減らさなければ、涼子から謂れの無い嫌味が飛んで来そうでそれもまた億劫であったからだ。
猫又は息も絶え絶えになりながら走っていると、どこからか突然粒子のようなものが降ってきた。
茶色い物質が宙を舞い、咄嗟に猫又は両方の前足で頭を抱えるようにしてそれらの粒子が目に入らないようにガードする。
猫又を追い掛けていたメス猫達はそのまま降ってきた粒子をかぶってしまい、短い悲鳴を上げながら足を止めた。
中には粉が目に入った猫もいたらしく、激痛に転げ回る者が何匹かいた。
何事かと猫又は前足を解いて後ろを振り返って様子を窺った。
するとそれまで興奮状態で猫又を追い掛けて来たメス猫達に異常が見られる。
降って来た粒子を浴びた猫達の殆どは、急に地面に横たわり無防備な状態になり始めていた。
ごろごろと喉を鳴らし、電信柱や引っ繰り返ったゴミ箱に顔をこすりつける行動を始めたりと……、まるで泥酔状態になって発情期による興奮が冷め切った様子を見た猫又は、先ほど降り注がれた粒子が「マタタビ」であったと理解した。
しかし問題は一体誰がメス猫達めがけてマタタビを放ったかであったが、その謎はすぐに解消される。
『ほら、猫又さん!
早くウチの店に来て頂戴、全部のメス猫がマタタビで酔ったわけじゃないんだから!』
いつの間にか猫又が向かおうとしていた進行方向に涼子が立っており、片手にはマタタビが大量に入った袋を持っていた。
慌ててきたのか、涼子は少し髪を乱し、いつもきっちりと着こなしている着物が少しはだけている。
『涼子!』
猫又はなぜ涼子がここにいるのか、なぜ猫目石に向かおうとしているのがわかったのか、色々聞きたいことはたくさんあったが、その言葉の全てを飲み込んで、とにかく涼子の言う通り急いで店に避難することにした。
最後尾にいた辺りのメス猫達にはマタタビ効果がなかったらしく、黄色い声を上げながら地面で恍惚状態に陥っているメス猫達を器用に避けながら追い掛けて来るので、猫又は慌てて先導する涼子の後に付いていく。
神通力が最高潮に高まっている時は猫又の威嚇により、追い掛けて来るメス猫達を金縛り状態にすることも可能であったが、今はそれが出来ないだけにもどかしく、情けないと思いながら涼子の背中を追い掛け、そして店内へと逃げ込んだ。
猫又と涼子は硝子戸をぴしゃりと閉めると、そのまま安堵と疲労が一気に押し寄せたのか、腰が抜けたようにその場に座り込んでしまう。居酒屋・猫目石には微量な結界が張られている為、猫又の気配そのものを認識することが出来なくなり、完全に見失った状態のメス猫達は猫又を探すようにその場から去って行った。
やがてメス猫達の発情期特有の鳴き声が遠くの方から聞こえるようになり、そして完全に聞こえなくなるまで猫又は本当の意味で完全に安心することが出来ず、だらしなく座り込みながら未だぜぇぜぇと息を切らしたままであった。




