パーソナルスペース
君彦はもう夜も遅いから危ないということで、響子のマンションまで送ることにした。
当然響子は断ろうともしたが、この日ばかりは君彦に逆らうことが出来ずに大人しく従う。
猫目石を出る際に君彦は猫又に釘をさしていた。
食べ過ぎないこと、飲み過ぎないこと、そして他の物の怪達に迷惑をかけないこと。
それだけ言うと君彦は「それじゃ」と涼子に礼を言って出て行った。
君彦と響子を見送った猫又と涼子は、まるで我が子を見守るような温かい眼差しをしていた。
最も猫又にとっての温かい眼差しというものは、皮肉の混じったものでもあるが。
『良かったわね、あの二人。
最初はどうなることかと思ったけれど、何とか上手くやっていけそうじゃないの』
安心したような口調の涼子に、猫又は鼻を鳴らしながらケチをつけた。
『へっ、どうだかな。
君彦のヤツはまだまだ甘ちゃんな所があるし、色情女に至っては根っからの捻くれモンと見たぜ。
これから先も思い知らされること請け合いだと思うがなぁ』
そんな憎まれ口を叩く猫又の小さな頭を、涼子は軽く小突いて叱り付けた。
猫目石を出て響子のマンションまで歩いていく中、響子は何を喋ったらいいのかわからず黙っていたが君彦は何度となく話題を提供してはずっと響子に話しかけ続けていた。
何が一般的なのか普通なのかわからないが、響子の中の一般的なことと言えば「男より女の方がお喋り」だということ。
にも関わらず女である響子は話題が何も思い浮かばず、まだ多少なり抵抗がある異性に対して距離を取りたくなる衝動を抑えることに必死で、自分から話しかけるということが出来ていなかった。
それを察してかどうか響子にはわからなかったが、男性不信である響子に気遣って次々話題を振って来る君彦に対し、変に気を使わせてしまっているのではないかと、とても心苦しくなってしまう。
君彦に気を使わせ、話題を提供させ、きっと自分のことを「疲れる女」だと思っているかもしれない。
そんな考えが響子の脳裏をかすめた時、まるでそれに気付いたかのように君彦が唐突に否定した。
「そんなに気にすることないよ、志岐城さん。
オレって男のくせに喋るのとかすごく大好きだからさ。
別に志岐城さんに気を使って喋ってるとかじゃなくて、自分が好きで喋ってるだけだし。
だからそんな風に逆に気を使うことないよ」
そう笑顔で君彦が言った。
響子は自分で気付かなかったが、君彦の目から見た響子は凄く申し訳なさそうな顔で話を聞いていたらしい。
笑顔は少し引きつり、相槌もたどたどしく、どこか遠慮気味に見えた響子の態度を見て逆に君彦の方が自分に気を使わせているのかもしれないと思ったのだ。
響子はもう一度、君彦の言葉を思い出す。
自己満足かもしれないけれど、他人に笑顔で接したいのは本当の気持ち……。
それこそ目に映る者全てに対して優しく接したい気持ちはあるが、その中でも響子は別格だと。
他人に対して素直に心を開けないところは、かつての君彦と似て通じるものがあったからこそ、助けになりたい。
響子と本当の意味での友達になりたいと、君彦ははっきり響子に告白したのだ。
義務感じゃなく、誰でもいいというわけでもない。
それは響子にとって、自分が特別なんだと言われたように感じた。
勿論君彦の口から直接、響子が特別なんだと言われたわけではないが、響子はそう捉えることが出来たのである。
それはとても凄いことで、今までの響子から考えると有り得ないと言っても過言ではない進歩だったのだ。
君彦のことを他の男同様に不信のままであったなら、きっとこんな都合の良い前向きな考え方はしなかっただろう。
必ずそこには裏があり、下心があるものとして、全く相手にしなかったはずだった。
そんな響子が君彦の言葉に対して前向きに解釈出来たということは、それだけ君彦の言葉が響子の心に伝え届けることが出来たということになる。
色情霊によって世界中の男は全員敵だと認知せざるを得なかった響子には、それこそ人類が初めて月に降り立った時のような凄まじい進歩だと言えるのだ。
そんな君彦の真っ直ぐな気持ちが、時間はかかったけれどようやく響子に通じることが出来た。
だからといってすぐに響子がありのままに心を開けるわけがない。
それだけ色情霊に苦しめられた日々は響子の心に重く深い傷を負わせていたのだ。
しかし今までと明らかに違う。
響子の隣を歩く君彦。
響子にとってのパーソナルスペースは、他の女性とは全く異なっていた。
男に対してのみ、そのスペースの広さは尋常ではない。
それでも君彦は響子の隣を歩くことが出来た。
これがどれだけの成長か、初めて出会ってからこれまでのことを振り返るとよくわかる。
今まで異性の誰一人として、自分のすぐ側を認めた者はいなかった響子。
無意識に響子のボーダーラインを越えて、何度も手痛い目に遭った君彦。
そんな経験をしてきた二人だからこそ、この距離感は少しくすぐったいようで……とても喜ばしいことだった。
響子はすぐに素直になれずとも君彦に自分の隣を許している。
以前のような極度の緊張はなく、まだ反射的な衝動は多少残ってはいるがそれでもなぜか落ち着けた。
色情霊によって苦しめられ続けた響子にとってこれは初めての感覚であり、とても嬉しい成長だった。
何気ない会話(と言っても殆ど君彦が一方的に話し続けていたのだが)をしていると、響子のマンションに到着するのは驚く程に早かった。響子はマンションの近くまで来ると、そこが自分の住んでいるアパートであることを告げて、そして送るのはここまででいいと口にする。
これ以上はマンションに住んでる知り合いに見られるかもしれない。
それはつまり、響子が男と並んで歩いている姿をマンションに住んでいる誰かに見られ、伯父である則雄(通称、蝶野蘭子)に報告されるかもしれないからだ。
もし則雄に知られでもしたら大変なことになるかもしれない。
今はまだ男性不信をほんの少しだけ克服出来たことを、則雄に知られるわけにはいかないのだ。
響子がマンションを背に君彦に向かうと、今日一番のリラックスした笑顔を向ける。
足りないかもしれないけれど、心ばかりのお礼と感謝の気持ち。
数時間前ならば、そんな自分に反吐を吐いていた所だったろう。
「その……、今日はありがと……。
ほんのちょびっとだけど、あんたのことが知れて……良かった」
言葉は少なくても、君彦は嬉しさで溢れていた。
同じように満面の笑みを浮かべると、君彦もまた礼を言う。
「ううん、こっちこそ!
志岐城さんと友達になれて嬉しかったよ、ありがとね」
君彦が放ったその言葉がとてつもなく嬉しかった。
その嬉しさから思わず目頭が熱くなり、再び両目に雫が溢れて来そうになる。
だがこんな所で涙を流してしまっては君彦はきっと誤解するだろう。
何か気に障ったのかと慌てふためき、また自分との間の距離を詰めて来るかもしれなかった。
そんなことをされたらもう衝動を抑えられなくなってしまうかもしれない。
感情のままに大量の嬉し涙を流し、異性である君彦に弱さを見せて抱きついてしまうかもしれなかった。
それだけは避けたかった響子は必死で涙を堪えると、片手を振って別れを促す。
ここまでの一連の流れだけでも、まるで別人のようだと響子は自分で皮肉った。
君彦も同じように片手を振って、自分のアパートへ帰ろうと踵を返した時。
思わず響子は君彦を呼び止めていた。
声を上げるように君彦の名字を叫んだので、まだ何か言いそびれたことでもあったのかと振り向く。
君彦の笑顔の表情を見るとどうしても竦んでしまう。
胸がドキドキして、頭の中が真っ白になってしまう中……それでも響子はどうしても伝えなければいけないことがあった。
これだけは伝えないといけない。
生唾をごくりと音を立てて飲み込み、緊張をほぐそうとする。
響子からの言葉を待ち続ける君彦。
それからゆっくりと、響子は笑みの無い必死の面差しで口を開いた。
「あんたのそれは……、自己満足なんかじゃないから!」
勇気を振り絞ってやっと出た言葉。
それでも響子にとっては崖からダイブする程の勇気と同じものだった。
頭の中で思ってることの半分も言葉にすることが出来ず、必死の眼差しで訴えかけるように君彦を見据える。
そんな響子の心中は、当然君彦に届いていた。
響子が何を言いたかったのか。
君彦に何を伝えたいのか。
まるで今の二人には過剰な言葉など全く必要としないように、不思議と心の中で思っていることが手に取るように分かる。
そんな感覚だった。
君彦は嬉しそうに微笑む。
その笑顔を見て、響子も嬉しくなった。
君彦はたった一言、「ありがとう」と響子に告げて、それから背を向け歩き出す。
そんな君彦の背中をいつまでも手を振って見送り続ける響子。
綺麗に整備されたタイル状の歩道を歩き、角を曲がって君彦の姿が見えなくなるまで響子はマンション前で見送り続けた。
完全に君彦の姿を捉えられなくなると響子は静かに息を吐き、リラックスした状態でようやく自分の部屋へと帰る。
そんな中――――、二人の様子を窺う人物が闇の中から姿を現す。
わなわなと肩を震わせながら、真っ白い上質な生地で出来たフリルのハンカチを口に咥えて悔しがる人物。
歯を食いしばってマンションの中へと消えて行く響子を見つめ、鼻息荒く憤慨した。
「響子……っ、何なの!? 一体誰なの、さっきの男は!?
たった一人の身内であるあたしに何の断りもなく、男と何をそんなにイチャイチャしてるわけっ!?
有り得ない、信じられないわ!
信じられるはずがないわよっ、あたしの可愛い子猫ちゃんに限って有り得るはずがないじゃないっ!
男性不信の男性恐怖症であるあたしの愛しい姪っ子ちゃんが、男と仲良く歩くなんてそんな馬鹿なことっ!」
珍しく店が早く終わって帰宅途中だった、響子の実の伯父である志岐城則雄。
彼(彼女?)は途中からとはいえ、マンション前で繰り広げられていた二人のやり取りをずっと街灯の明かりが届かない路地裏から、恨めしそうに眺めていたのである。
凄まじいアゴの力で遂にはハンカチを食いちぎり、そのまま歯ぎしりするようにハンカチの切れ端も一緒に噛み続ける則雄。
「許せない……っ!
あたしの大切な姪っ子ちゃんに近付く男なんて、このあたしが絶対に許さないんだからねっ!?」