頼れるお姉さん
商店街から裏道へ入って行くと、ぽつんとさびれた場所に一軒の酒場がある。
赤い提灯とのれんには「猫目石」と書かれ、店内から漏れる明かりが裏通りの道を明るく照らしていた。
中からは賑やかな声が聞こえて来ては物が壊れる音や、店内で暴れ回っているような騒音までもが聞こえてくる。
そして綺麗な声音をした女性の怒鳴り声がこだました。
『もう! いい加減におし!
このお嬢さんが、あんた達みたいな粗野な連中のことを怖がったらどうすんの!』
女性の喝で、店内は一気に静まり返った。
それまでの賑やかさが嘘のようにぴたりと止まり、突然静寂に包まれた中……他人事のように素っ気無い口調で猫又が水を差す。
『つっても、こんな連中に後れをとるような気性じゃねぇけどな……こいつは』
猫又の厭味な台詞に、カウンター席で小さくなっていた響子がむっとして猫又のことを睨みつける。
しかしすぐにまた周囲の客達に向かって視線を配ると、再び肩身が狭いような仕草になって縮こまった。
綺麗な着物姿の女主人、涼子が苦笑いを浮かべながら響子に気を使って優しく話しかける。
『本当にごめんね、騒ぎ立てることしか知らないような連中ばかりだから……。
怖がらせちゃったかしら?
でもそんなに固くならなくていいんよ。
みんな根は良い物の怪達ばかりだから、お嬢さんのことを取って食おうなんて考えたりはしないから』
そう涼子に言われながら、響子はふと奥のカウンターに座っている毛むくじゃらの謎の物体や、入り口前の客席でお酒を酌み交わしている鋭い牙を剥き出しにしたイタチのような生物と、黒い塊にぎょろりとした目玉と子供のような細くて白い手を生やした何の生物なのかわからない物体を目にしながら、とてもじゃないが涼子の台詞に素直に賛同する気持ちになれずにいた。
(……てゆうか、こいつらに悪意がないとかどうとか以前の問題なんだけど。
妖怪自体を目の当たりにして平気で居られる神経なんて持ち合わせていないわよ、あたし……)
ここは主に妖怪物の怪、魑魅魍魎達が集う居酒屋。
あまりにさびれた一角に建てられているので、普通の人間が立ち寄ることはまずないのだが、たまに迷い込んだ酔っ払いなども店を訪れたりもするが、その時は普通に接客するようになっている。
特に何かしらの結界というものが張られているというわけではない。
ただ単に周囲から見れば「どこか入りづらい」という、ある種の警戒心を抱かせるような雰囲気を店の外観から醸し出されている……そんな気にさせる店であった。
響子も長くこの地域に住んでいるが、今までこんな店があったこと自体知らなかった位である。
そして入ってみれば店の作りなどはごくごく一般的な、どこにでもある居酒屋であったが訪れる客は異様そのものだった。
居酒屋「猫目石」に連れて来られた響子がこの店に入った時にはすでに店内の客達は出来上がっている状態で、中を覗いた瞬間目を疑うような光景にすぐさま固まってしまったのを響子は忘れない。
特撮か何か、そんな風に真っ先に考えたがどう見ても体の大きさや特殊メイクの凝り具合から察して、それらが「本物」であると響子が理解するのにさほど時間はかからなかった。
響子は安心安全だと促されながらも自然と足は、他の客達と最低限接触しない距離感を保つ為に、あえて一番奥のカウンター席に向かっていた。
響子が一人ぽつんと席に座ると、店の入り口手前で酒を飲んでいた猫又が響子の存在に気付き、響子の隣の席へと移動してちょこんと座る。その時は特に深く考えることのなかった響子であったが、何人かが人間である響子の存在を訝しげに感じて声をかけようと近寄って来た所を猫又が適当にあしらって響子に近付けさせないようにしていた場面を目撃していた。
そこで初めて、猫又が他の物の怪達が人間である響子に害を与えないように、自分がその境界線として響子の隣に陣取ったのだと察した。だがそれを知った所でどうしても素直に接することが出来ない響子は、猫又の気遣いに気付きつつも決して感謝の言葉を述べるようなことはなかった。
店に入って涼子が酒を勧めようとしたが、響子はまだ未成年であることを涼子に告げる。
すると涼子は酒以外の飲み物を冷蔵庫から取り出し、コップに冷えた麦茶を注いだ。
響子は麦茶の注がれたコップを口に持って行き、とりあえず気を落ち着かせる為に冷えた麦茶を口の中に含む。
これだけ妖怪だらけの店を経営する人物の事……、見た目は京都風の綺麗なお姉さんではあるが恐らく普通の人間であるはずがないと、響子は心の中でそう推測していた。
そもそも猫又によって幽霊や物の怪を見ることが出来る能力を与えられるまでは、響子もそれまでそういった存在を目にするどころか実在することさえ知らなかった位である。
それが妖怪達を専門とするような居酒屋を営む位なのだから、君彦と同等の霊媒能力を持っているか。
もしくは涼子と呼ばれる女性自身が、実は物の怪だという可能性も否定出来なかった。
そう考えると余計に落ち着かなくなってしまうので、響子は冷静さを取り戻す為にどんどん麦茶を口に含んではきょろきょろと落ち着きなく店内に視線を走らせていた。
そんな落ち着きのない響子を見て、猫又は二又の尻尾を左右に振りながら前足をカウンターの上に乗せて響子に話しかける。
『ところで、なんでこんな所まで来たんだよお前。
確か黒依達と一緒にパーティーか何かするはずじゃなかったのか?』
そう訊ねる猫又に、響子は眉根を寄せながら聞き返した。
「えっ、あんた……何でそれ知ってんのよ!?」
驚く響子をちらりと横目で見て柔らかく微笑みながら、涼子はヒラメのえんがわを猫又に差し出す。
猫又はふふんと鼻を鳴らしながら、出されたえんがわの匂いを嗅ぎ、それからむしゃむしゃと美味しそうに食べ出した。
響子の質問に答えることなく貪り食う猫又の姿に、少しだけ怒りを覚えた時……涼子がくすくすと上品に笑いながら猫又の代わりに説明してくれた。
『猫又さんはね、あの犬神のお兄さんと犬神のことが苦手みたいでねぇ。
誘われる前にウチの店に逃げて来たってわけ』
慶尚が猫又を誘う為に君彦のアパートに行ったが、誰も部屋にいなかったと言っていた理由がこれで分かった。
どちらにしろいつかはパーティーをさせられそうな雰囲気であったことから、今逃げた所でまたいつか誘われるに決まっているのだと思った時、再び猫又が訊ねて来る。
『そんで? なんでお前がこんな所まで来てんだよ。
君彦を誘いにバイトの店まで行ったんだろ、黒依達と。
それがなんで妖怪達が入り浸る居酒屋に来る羽目になったのか、ちょっとばかし興味あるなぁ。
ま、どうせお前が一人でいきなりキレ出して君彦と不毛な喧嘩でもしちまったんだろ!?』
無責任な笑い声を上げながら大笑いしていると、そんな猫又の頭をぴしゃりと軽く小突いた涼子が唇を尖らせて非難する。
『猫又さん、そんな言い方失礼でしょ!
お嬢さんにはお嬢さんなりの理由があるんだからね。
どうせそんなの、オスにわかりはしないだろうけど』
涼子のお叱りを受けた猫又は、ふてくされた表情になって押し黙った。
そんな奇妙な光景を目にしながら響子は、ここに来た理由を説明しようと思ったが猫又が側にいる以上どうしても話し出すことが出来ずに、恨めしそうな視線で猫又をちらちらと窺う。
そんな響子の仕草を見た涼子が勘を働かせると、奥で騒がしく飲んでいる妖怪を呼び出すと猫又にどんどんお酒を勧めるように連れ出させた。
『にゃっ! あんまり飲むと君彦に怒られるっ!』
『大丈夫よ、今カナが君彦さんもここに来るようにって頼みに行ってる所だから。
付き合いの為ならって、きっと君彦さんも許してくれるわよ
これはウチの奢りだからお代は気にしないで飲んでってちょうだい。
……って、猫又さんが飲む酒代だけだからね!?
あんた達はちゃんと払いな、わかった!?』
威勢の良い声と共に猫又は一つ目小僧と毛むくじゃらの何かに体をがっしりと掴まれて、奥の客席まで拉致されていった。
「にゃあああ」という低くかすれた声が店内に響きながら、涼子は気を取り直して響子に話しかける。
『これで邪魔者はいなくなったから、話しやすくなったでしょ』
この台詞でようやく涼子が自分に気を使ってくれたんだと察した響子は、呆気に取られながらもどこか安心した表情になって涼子のことを見つめた。
美しく、強く、そして周囲への気配りを怠らない彼女の姿に、響子はどこか惹かれるものを感じる。
それはまるでこれから自分が目指したいような、そんな理想的な女性像を涼子に感じ取ったかもしれない。
彼女なら信用出来るかも。
心の内を打ち明けても、きっと大丈夫かもしれない。
響子は初めて、身内ですら明かすことの出来なかった思いの丈を話せる相手を見つけたと確信し、話し始めた。
自分自身にも理解し難い、複雑な思いを。
君彦に対する、不可解な苦しみの全てを。