不機嫌な朝
君彦の朝は早い。
それは学校のある平日だけではなく、学校が休みの日も君彦は毎朝六時には必ず起きていた。
本日学校は休みであり、君彦はいつもと変わりなく起きて朝食を食べ終え、朝の洗濯をしていた時。
何やら隣が騒がしいことに気付き、君彦はふと首を傾げた。
「おかしいな、確か右隣の部屋は空室だったはずだけど。
大家さんが掃除でもしてるのかな?」
君彦は特に気にすることもなく洗濯機を動かしている間、部屋の掃除を始める。
その時、やはり隣から何か大きな物音が聞こえて来たのでどうしても気になってしまう君彦は、掃除する手を止めて隣の部屋の様子を見に行くことにした。
「随分大きな物音だし、もしかしたら大掃除とかしてるかもな。
大家さん一人じゃ大変かもしれないし、何か手伝えることがあるかもしれないからちょっと行ってみよう」
君彦は部屋を出て行く前に猫又の様子を窺う、君彦と違い猫又の朝は遅い。
基本的に猫は夜行性であるが猫又の場合は更に妖怪ということもあり、君彦が学校を休む日の朝だけはとても弱かったのだ。
一応起きてはいるがまだ寝惚け眼でテレビをぼんやりと眺めている、猫又は目を覚ましてから一時間程は非常に機嫌が悪いので君彦は猫又の機嫌を損ねないように、声をかけないまま部屋を出て行った。
玄関のドアを開けると目の前にはたくさんの荷物が置かれていて、ダンボール箱やら家財道具などがひしめき合っている。
「うわ、何だこれっ!?」
君彦が住んでいる所は二階建ての木造アパートで、一階に四部屋、建物の両サイドには鉄筋で組まれた階段があって二階にも同じように部屋が並んでいる。
玄関前には幅狭のコンクリートの段差があり、段差を下りると地面のままで舗装されていない敷地となっていた。
塀に囲まれたアパートの敷地内、つまり地面むき出しの庭にたくさんの荷物が置かれている状態で君彦はすぐに誰かが引っ越して来たんだと察する。
きょろきょろしながら戸惑っていると、右隣の空室だった部屋のドアが開いた。
恐らく右隣の部屋に新しく引っ越してきた住人なのだろう、君彦はとっさに挨拶しようと体を傾けるようにして出てくる人物を覗きこんだ。
「――――――――って、あああああああああああああっっ!!」
隣から出て来た人物に向かって君彦は大声を張り上げる。
驚きの余り思わずまっすぐに指をさしながら、君彦は誰が見ても明らかに嫌悪感を露わにした表情になっていた。
君彦の奇声で振り向いた人物、グレイのボーダーに黒のジャージをはいたラフな格好で首にはタオルをかけている。
そう……、隣に引っ越してきた人物は君彦がよく知っている――――――犬塚慶尚であった。
君彦はあうあうと言葉が出て来ない様子でいると、慶尚は無愛想な表情のまま君彦を一瞥すると足元に置いてあったダンボール箱を両手で抱えて君彦に渡す。
「……え?」
突然ナチュラルに箱を手渡された君彦は、つい素直に受け取ってしまい唖然としていた。
すると慶尚は開けっ放しの部屋の中を指さして、当たり前のように君彦に向かって指示する。
「その箱は、中に入って右側に置いてあるラックの上な」
「――――――――って、何いきなり荷物整理を手伝わせてんだお前はあああああっっ!!
そうじゃなくて! 何でお前がこんな所にいるのかって方が先だろうがっ!
しかもこんな朝っぱらからドッタンバッタンとうるさいったらないよ、近所迷惑だろ!」
箱を持ったまま君彦が声を張り上げていると、二階に住んでいる住人が階段を下りて来て君彦と慶尚の方をじっと見つめていた。
その視線に気付いた君彦は「ほら見ろ」と言わんばかりに胸を張り、二階に住んでいる独身のサラリーマンが慶尚に文句を言うのを待つ。しかしサラリーマンは慶尚を見るなり急に視線を逸らしてそのまま逃げるようにアパートの敷地を出て行ってしまった。
その後も次々とアパートの住民が部屋を出て来るが、誰もが慶尚を見るなり苦笑いを浮かべて声すら掛けて来ない。
君彦はちらりと慶尚を見て、なぜ誰もクレームを付けて来ないのかすぐに理解した。
「お前のその無愛想な顔のせいで、誰も文句を言えないんだな」
「……ものすごく善良な市民なのに」
こればかりは君彦の方がなぜか勝った気になって「ふふん」と鼻を鳴らしていると、両手に抱えて持っていた箱の上に更にもう一つ追加されて、急激に重みが増したせいで君彦は短い悲鳴を上げながら慌てて両手に力を入れた。
「だーかーらーっ!
何でオレがお前の荷物整理を手伝わないといけないんだっつーんだよ!」
変わらず声を張り上げる君彦に慶尚は両手で耳を押さえながらやり過ごしていると、それらの喧騒に遂に我慢出来なくなった猫又が怒り心頭で怒鳴り込んで来た。
『だああああああああっっ!
さっきからやかましいぞ、君彦っ!
お前がぎゃあぎゃあ騒ぐから「今日のワンコ」のナレーション、聞きそびれちまったじゃねぇかっ!』
部屋の前で声を荒らげていた君彦に向かって怒鳴り散らした猫又であったが、すぐに君彦以外の存在に気付く猫又。
見るなり大きなガラス玉の瞳に嫌悪感が現れ、表情を歪めていると慶尚の背後から犬神までもが姿を現した。
『むっ、出たな猫又!
ここで会ったが百年目、この間のケリを今つけてやる!』
現れるなり犬神は猫又に向かって唸り声を上げて威嚇する、いつもなら犬神のことを適当にかわしているはずの猫又が朝の不機嫌モードのせいで怒りのスイッチが入ってしまう。
『オメーもいちいち暑苦しいっつーんだよ!
こちとら寝起きで機嫌最悪なんだ、何なら骨を投げて遊んでやろうか犬っころ!
ちゃんと取って帰って来たら、オレ様の南斗水鳥拳をお見舞いしてやるぜっ!』
『全然メリットがないではないか、このメタボリックショートヘアがっ!』
君彦は両手に荷物を抱えながら慶尚を睨みつけ、猫又と犬神は喧嘩の売買が成立してしまい互いに威嚇し合っている。
そんな光景を他人事のように見つめながら、慶尚は小さく溜め息をついていた。