さいごの晩餐
夕方、四丁目の高台にある祠で君彦の祖父である征四郎と一通り話を終えた後、その場に現れた涼子と共に物の怪御用達の居酒屋「猫目石」に直行していた。
数日もの間、行方をくらましていた猫又のことを心配して、多くの物の怪や幽霊、野良猫達が集まってちょっとしたお祭り騒ぎになりかける。このまま朝までどんちゃん騒ぎをしようと息巻いていた連中であったが、主役である猫又の言葉によってそのテンションは一気に静まり返ってしまった。
『そんじゃ涼子、悪ぃけどオレは先に帰るぜ。
酒ありがとな』
そっけなく言うと猫又は特等席であるカウンターの席からジャンプして床に飛び降りると、そのまま出口へと向かう。
カウンターから大忙しでつまみを作っていた涼子が慌てて声をかける。
『え、猫又さん!? もう行っちゃうの!?』
涼子の声に猫又が帰ろうとしていることに気付いた物の怪達は、こぞって猫又の方に注目すると口々に引き止めた。
『そりゃないよ猫又さん!
せっかく町の英雄さんが帰って来たってのに、もう行っちゃうんですかい!?』
坊主頭に子供用の着物を着た一つ目の少年が、涼子の作った団子を口一杯に含みながら声をかける。
『みんな猫又さんが無事に戻って来てくれて喜んでるんだ。
もう少しゆっくりしてったらどうだい!?』
同じように全身茶色い毛むくじゃらな姿をした物の怪も、お酒の入ったお猪口に向かって舌を伸ばしてぴちゃぴちゃと飲みながら一応猫又を引き止める。
その場にいたおよそ半数は、猫又の帰還祝いを喜んで参加しているわけではなく、それに出て来る酒や食べ物につられてやって来た者が殆どだと最初からわかっている猫又は、特にそんな態度を気にしていないせいか……彼等の相手をすることなく振り向き、とりあえず世話になった涼子にだけ挨拶がてら理由を話した。
『君彦の奴が夕飯までに帰って来いってうるさいからよ。
ここで酒や食い物をたらふくもらうわけにはいかないのさ、そういうこった。
とりあえずこの後はお前達で好き勝手に楽しんでな』
何の未練もなくそう言い放った猫又はそのまま玄関の方に向き直って、二又の尻尾だけ振り振りと左右に振って合図を送る。
涼子は少し寂しそうな眼差しで見送る。
『そんじゃ猫又さん、また明日な~!』
猫又のお陰で今夜の酒にあり付けた物の怪達は、感謝を込めて猫又に手を振った。
硝子戸が閉まって猫又が出て行った途端、涼子はキッと鋭い眼差しに早変わりして店内の客全員を睨みつける。
『本当にあんた達は! 猫又さんがいないんじゃあんた達、単なるタダ飯食らいじゃないさっ!!』
猫又がいなくなった途端、店内の客に向かって涼子の怒りが爆発するもこの店の常連客が何とか彼女を宥めたことによって、何とか涼子の鋭い爪による引っかき傷を負う客が出ることはなかった。
夜、何とか夕食の時間までに戻って来た猫又は玄関の前で一旦立ち止まると、両の前足を口元に持って行ってはぁ~っと口臭を確認する。息を吐き出した後くんくんと匂いを嗅いで、お酒臭くないことがわかると猫又は「よし」とすました顔になって、家の中に入って行った。
裏口にある小さな硝子戸は猫又の為に常に開放してあり、そこから家の中に入ると目の前にハンドタオルが置いてある。
猫又はそのハンドタオルで前足と後ろ足を掻くようにして適当に砂や汚れを拭き取った。
これは猫又が好き勝手に外出する際に足の裏に付いた汚れを拭き取ってから家の中に入るよう、君彦から耳にタコが出来る位教えられた猫又家の作法だった。
こまめに部屋の掃除をする君彦のこと、この作法を守らなかった時の説教は征四郎の上を行く位、君彦はとても口うるさい。
最初の内は適当に誤魔化したりしてやり過ごそうとしていたが、段々飽きることなく長い説教を続けて来るのでさすがに猫又の方が折れて、今は君彦の言う通りに足の裏を綺麗にする作法だけは毎日きちんと守っていたのだ。
猫又は前足の肉球を見つめて、とりあえず砂などが付いていないことを確認するとくんくんと鼻を動かす。
台所では君彦がエプロンを付けて夕食を作っていた。
飼い猫のように首に鈴を付けていないので、猫又が帰って来たことに君彦はまだ気付いていない様子だ。
猫又は忍び足で畳の上を歩いて行くが体重のせいで、普通の猫のように音もなく歩くことが出来ず、みしみしとわずかに足音を鳴らして歩いて行ったのですぐに帰って来たことが君彦にバレてしまった。
君彦はちょうど味噌汁を作っていて、おたまに味噌汁を少しだけ入れて味見をしながら振り向く。
「あ、お帰り猫又。
ちょっと待ってろよ、これが終わったら夕食だから」
猫又のことを自然に笑顔で出迎える君彦。
それから味噌汁を味見して顔に笑みがこぼれるとそのまま火を消してお茶碗にはご飯を、そしてお皿にはおかずをよそってトレイに乗せると一間の部屋へと運んで行った。
猫又は君彦が一間に来るまでにテレビを付けて、好きなお笑い番組がやってないかチャンネルを順番に押していく。
「ほら、お前の分も入れるから」
夕食はいつも一緒に食べるので、君彦は自分の分をテーブルに並べたら今度は猫又の夕食を出す為に冷蔵庫を開ける。
猫又も毎日の繰り返しのように自分の夕食が出て来るのを待った。
すると君彦は冷蔵庫から缶詰めを取り出す時に妙な笑みを浮かべてこっちを見ているので、猫又は気持ち悪いものを見るような目で君彦を見る。
「ふっふっふっ、猫又。
今日はこのオレに感謝するといい!」
勝ち誇ったような君彦の言葉と笑みに、猫又は呆れた顔で聞き返した。
『はぁ? だから一体何なんだよ、気色悪ぃな』
暴言を吐く猫又であったが、今日の君彦はどこか機嫌がいいのか。
そんな暴言には耳を傾けることもなく、にっこり微笑んだまま持っていた缶詰めを猫又に見せつけた。
『……ん?』
猫又は見せつけられた缶詰めを目にして、一瞬動きが止まる。
それからゆっくりと口を大きく開いて、今にもアゴが外れそうな位にあんぐりとさせて大きな瞳を更に大きく輝かせた。
『き……、き……、君彦おおおおおおおおっ!
こっ、これはああああっっ!!』
驚きの余りそれ以上言葉に出来ないのか、あうあうと震えながら目の前に差し出された缶詰めに向かって、まるで崇めるような大袈裟な態度で缶詰めと君彦を交互に見つめた。
異常な程に驚いている猫又の反応を見て満足したのか、君彦もまた両目を輝かせて口にする。
「そうだよ、お前がずっと前から食べたがってた高級缶詰め……モンプティだ!
色んな味があったけどお前、ミャオの中ではまぐろ味が一番好きだったろ?
だからとりあえずまぐろ味にしてみたんだ、もうすっごい高かったんだからな!?
でもお前が帰って来たご褒美だと思えば安いもんだよ。
ちょうどバイト代も入ったばかりだったし!
毎日は無理だけどさ、バイト代が入った時のお祝いとして毎月一回だけなら買えるから。
有り難く思えよ、猫又!」
猫又と同じようにとても嬉しそうに話す君彦。
そんな君彦の優しさに触れた猫又は瞳をうるうるさせながら感動で全身を小刻みに震わせていた。
そしてあまりの嬉しさに本来の斜に構えていた性格を自分で忘れてしまったせいか、感激の余り思わず君彦に向かって甘えた声を出してしまう。
『に……っ、にゃ~~~~~んっっ!!』
いつもふてくされたようにムスッとした顔ばかりしていた、あの猫又が……。
初めて君彦に向かって見せた、猫又の両目を輝かせた可愛らしい顔と甘い鳴き声……。
甘えた姿を見せたことがなかった猫又の今の姿を見て、君彦はほんの一瞬だけ戸惑ったがせっかく心を開いてくれた猫又に悪いと思い、顔には出さず心の中にしまい込んだ。
今日は特別に缶詰めの中身全部をお皿に移して、スプーンでよくほぐしてやる。
今か今かと待っている猫又のお座りしている姿を見つめながら、君彦はその姿が本当にただの猫みたいに見えて初めて憎たらしかった猫又のことが可愛く見えた。
(何だ……、こいつでもこうやって素直な態度を見せることってあるんだな。
猫又に対してこんな風に思うのって初めてだけど、こうして見たらこいつもなかなか可愛いじゃないか)
君彦は心の中でそんな風に思いながら、モンプティをほぐし終えると猫又に向かって微笑んだ。
「ほら、お前が先に食べてみろ。
猫用缶詰めの中で一番高いやつなんだからな、しっかり味わって食べろよ」
言い終わる前に猫又は待ち切れないと言わんばかりに既にガツガツとがっついていた。
さっきまで可愛らしかった猫の姿から一変……今は三日間何も食べてないハイエナのように、ものすごい勢いで食べる猫又の姿に君彦は嬉しいやら醜いやら複雑な気持ちになった。
しかしそれもつかの間、食べ始めて五秒と経たない内に、突然猫又はピタリと動きを止める。
がっついたのはモンプティを五口程食べただけ。
それから徐々に何かを考え込むような感じでゆっくりとお皿から距離を離して、もごもごと口だけを動かしている。
そしてごくんと口の中で噛みまくっていた物を飲み込むと、うつむいたまま何も言わない。
不思議に思った君彦は、モンプテイの余りの美味しさによく味わって有り難がって食べているものと思い、感想を聞いた。
「どうだ? やっぱ高級食材は味が違うか?」
期待に満ちた微笑みで猫又からの感謝の言葉を待つ君彦。
しかし返って来た言葉はあまりに残酷で酷いものであった。
『――――――――まずい』
一瞬にして訪れる沈黙。
君彦は猫又が発した言葉を聞き間違えたのだと思い込み、もう一度顔をひくひくさせながら訊ねる。
「……え?
よ、よく聞こえなかったな。今何て?
これものすごく高かったんだぞ? いつも買ってるミャオの4倍の値段だぞ?
今気のせいかマズイ……って、まさかな!
オレの聞き間違いだろ、そうだろ!?
――――――――何とか言えよ猫又~~~っ!!」
今にも怒りで飛びかかりそうになりつつも必死で理性で抑え込みながら、君彦は口元を一文字に引き締めながら問いただすような眼差しでもう一度猫又の反応を窺う。
すると猫又はすっかり目の前に残ったモンプティに興味がなくなったのか、呑気に前足をぺろぺろと舐めて目線を泳がせながら、あっけらかんと正直な感想を述べた。
『ま、所詮は人間が作った食材だったってことだな。
猫の気持ちを全然理解してねぇ、ただ脂身乗せりゃいいってもんじゃねぇんだよな~。
これでもオレ様、コレステロールとか気にしてるからよ。
こういったギトギトしたのは好みじゃねぇの、これ以上食べたら胸やけしそうだ。
高いっつってもこんなもんなら、今まで食ってたミャオの方がまださっぱりしてて美味かったな。
あ、君彦! もうモンプティ買わなくていいから。
オレが一番好きなまぐろ味でコレなら、他もたかが知れてるからな』
それがトドメであった。
猫又が次々と素直な感想を述べる毎に、君彦の怒りのボルテージはどんどん上昇して行き、猫又が最後まで言い切った頃には完全に君彦の堪忍袋の尾は切れてしまっていた。
頭に血が上った君彦は怒り心頭の顔で、猫又に向かって怒鳴り声を上げる。
「もぉ~~~お前には何も買ってやらないからなあああああっ!」
『な……っ、何だよ!
オレはありのままを述べただけじゃねぇか、何でそんなにブチギレてんだよっ!?』
「もう知らん知らん知らーーーーんっ!
お前みたいにワガママな猫はもう知らーーーーーーーーんっっ!」