戻って来た日常
ゴールデンウィークが終わって学校へ行く準備をする君彦、ぼうっとする頭で台所に立って弁当と朝ご飯を作っていると、居間と寝室が一緒になっている部屋から気だるい声が聞こえて来た。
『う~……、全身が重だるい』
小さな鼻の穴から鼻水を垂らしながら猫又がのしのしと重たそうに歩いて来る、君彦もまた鼻をすすりながら猫用の底が少しだけ深い皿にキャットフードを目分量で軽く入れた。
猫又は虚ろな眼差しで皿を覗きこみ、それから物言いたげな眼差しで君彦を見つめる。
「体調悪いのに缶詰食べるわけにいかないだろ、今日は栄養たっぷりのキャットフードで我慢しろ。
大体風邪引いたら普通食欲わかないはずなのに……、お前の腹は一体どうなってんだよ」
ぶつぶつと小さく文句を言いながら君彦は水受けのお皿に水道水を入れると、こぼさないようにキャットフードが入ったお皿の隣に置いた。猫又はしばらくキャットフードを黙って見つめていたが、とうとう諦めてガツガツと食べ始める。
君彦はズルズルと垂れて来る鼻水に耐えかねて、ティッシュで鼻を噛みながらキャットフードにがっついている猫又をじっと見つめていた。いつもの光景、いつもの朝……。
ついこの間まではこの日常がどれだけ大切なものだったか、気付いてなかった。
しかし今は違う、こんな何でもない毎日が……いつもと変わらない会話が君彦を満たしていたのだ。
メタボ気味な猫又は腹を全部床につけながら座り、キャットフードを食べては水を飲み、またガツガツと食べていた。あれだけ文句言いたげな態度を取っていたにも関わらず、結局最後まで綺麗に食べ尽くす猫又。それを君彦は穏やかな表情で見つめていた。
するとにこにこしながら見つめている君彦に向かって、猫又は少し不快そうな顔で言葉をかける。
『おい、君彦……』
猫又の明らかに不機嫌そうな表情に、君彦が微笑ましい顔で見つめていたのを嫌がったのかと思って、すぐに君彦は反抗的な顔に変わって文句を言った。
「な……、なんだよ猫又。オレが笑いながら見てるのが、そんなにおかしいかよっ!?」
すると猫又は左前足でコンロを指すと、呆れたように注意した。
『卵焼き、―――――――――焦げてるぞ』
「―――――――――っ!」
猫又の言葉に急いで君彦は振り向いた、見るとフライパンで焼いていた卵焼きは見るも無残な姿になって黒い煙を上げている。
「わああああああああっっ、しまったああああああああっっ!」
どたばたと慌てふためく君彦の後ろ姿を目にしながら猫又は、ふふんっと鼻を鳴らして満足そうに微笑んだ。
久々の登校、風邪気味、そして猫又が帰って来たことで少し浮かれていた君彦は朝から料理を失敗して落ち込んでいた。
テレビを見ながら朝食を食べる、チャンネル権はなぜか猫又に奪われているが君彦は特に気にしていない。
いつものように「今日のにゃんこ」を見ながら、猫又は自分の方が賢いだの、この猫はまだまだなっていないだのとテレビに向かって文句を言っている。
そんな時でも君彦は学校に行く為の準備で頭が一杯になっていた、忘れ物はないか、宿題も提出するレポートも全部カバンに入れたか、たまにチェックする為にもう一度カバンを開けて確かめたりしている。
すると猫又は「今日のにゃんこ」と「今日の星座占い」を見終わった途端に、裏の硝子戸を開けてふらりと出掛けようとしたので君彦は慌てて声をかけた。
「……って、おい猫又っ!
お前どこに行くんだよ、一緒に学校行かないのかっ!?」
猫又が振り向くとそこには不安そうな君彦の顔が目に映った、まるで親に見捨てられて泣き出しそうな子供みたいに、不安一杯の君彦の顔を見て猫又の胸が少しだけちくりと痛んだ。
いつもなら適当にあしらってそのまま出て行く所であったが、ゴールデンウィークの間ずっと君彦に行き先も告げずに姿を消していたことを思い出した。
猫又は足を止めると、大きなガラス玉の瞳を大きく見開いて君彦を真っ直ぐに見つめると明るく振る舞いながら、とりあえず行く予定にしている場所をきちんと告げた。
『なに心配そうなツラしてんだよ、大丈夫だって。もう行方をくらましたりしねぇって!
ちょっくら涼子ん所に挨拶しに行くだけだ、犬塚の件で随分心配かけちまったからな。
あいつも普段穏やかなだけにヒス起こしたら手がつけられなくなるからよ、お前も世話になったんだろ?
一緒に礼言っとくから、用事が終わったらすぐ戻るって』
それだけ言うと猫又はもう一度君彦を見据えながら、最後に言葉を付け足した。
『だからそんな泣きそうな顔で見るなって、心配すんなよ。
そんじゃ、……行って来るぜ』
猫又の二又の尾がピンっと上に立って振り振りしている、その光景はまるで尻尾で手を振る仕草をしているようだった。
君彦はぐっと堪えながら、猫又に向かって憎まれ口を叩く。
「だ……誰が泣くかよっ!
とにかく夕飯までには絶対に帰って来いよな、約束だぞっ!
―――――――――行ってらっしゃい」
何だか照れ臭かった。
考えてみれば猫又はいつも好き勝手に暮らしていたようなものだったので、さっきのように出掛ける時猫又が君彦に向かって「行って来ます」と挨拶したことが、一度もなかったからである。
だから君彦も家族に向かって「行ってらっしゃい」と口にするのは、本当に数年振りのように感じられた。
そんなくすぐったい経験を味わいながら、君彦は一人で学校へと向かった。
猫又はまだ乾き切っていない塀の上を歩きながら、猫娘の涼子が経営している居酒屋「猫目石」へ向かわずに別の方向へと向かっていた。途中お馴染みの野良猫に捉まって適当に話をしながらも、後で猫目石に行くからと言い残して目的地へと急ぐ。
辿り着いた先はさびれた場所、誰にも手入れされていない高台になっている場所にぽつんと立てられた小さな祠。
猫又は祠の中に祀られている石造りの、赤い前掛けをしているお稲荷様の首にかかっている鈴を前足で猫パンチすると、小さくちりんと音が鳴った。
それから少しだけ後方に下がり、猫又は社全体を目を眇めるようにして様子を窺う。
すると先程鳴らした鈴から白い靄のようなものが現れて、それが煙のように上へ立ち昇って行くとだんだん人の形を成していった。
人の形をした靄は祠の側にある大きな石に座ると、今度は白かった靄にうっすらと色や輪郭が少しだけはっきりしてくる。
半透明で猫又の前に姿を現した人物は外見だけ見た限りではおよそ二十歳前後、黒髪の短髪に物腰穏やかそうな表情、甚平に下駄を履いた姿へと定着させた。
猫又はその人物を睨みつけながらも、どこか安心しているような表情になっている。
半透明の姿で現れた人物も目の前に座っている猫又を見つめ、軽く笑みを浮かべていた。
先に声をかけたのは猫又だった。
『よぉ、こうして会うのは何年振りになるだろうな。
なぁ……? ―――――――――征四郎』
征四郎と呼ばれた男は何も言わず、猫又に向かって満足そうに微笑んだ。