黒依の涙
通学時に色々あったが響子は全速力で教室まで走って行ったから何とかホームルームには間に合ったが、犬塚は面倒臭かったのかあえて急いだりせずにマイペースで教室に向かったので案の定遅刻扱いされてしまっていた。すでにホームルームは始まっており担任が朝の挨拶をしている最中にガラッと教室のドアを開けて入って行く・・・堂々と。
「い~ぬ~づ~か~、貴様は何をそんな胸を張って遅刻して来てるんだね!? もうちょっと急ぐとか、息を切らしながら教室のドアを慌てて開けるとか何とかあるだろうが!?」
担任はツバを飛ばしながら犬塚に説教した、しかし犬塚は相変わらずの無表情で淡々と意見した。
「・・・廊下は走ったらいけないんですよね」
「そうだけど! 廊下は走ったらいけないんですけどねっ!? もうちょっとこうなんかあんでしょうよ! 何、学級崩壊のつもりか? 先生潰すつもりか? お前の両親モンスターペアレントか!?」
顔を真っ赤にして怒鳴り散らす担任を余所に犬塚は視線をあからさまに逸らしながら、耳の穴を小指でほじくる仕草をしながら自分の席へと歩いて行く。その態度に余計腹が立ったのか担任は勇ましく犬塚の学ランの裾を掴んで引き止めようとした。すると担任は犬塚の残りがと言うわけではないが、微かに煙草の臭いがついていることに不審を抱きぐいっと引っ張って自分の方に向かせる。
「おい、ちょっと待ちなさい。君これ・・・煙草の臭いだろ、そうだろ!? 貴様、未成年のくせに喫煙してんじゃないだろうね!?」
なおも担任は犬塚の学ランに染みついた匂いを嗅ぎ、それが煙草の臭いであることを突き止めた。さすがにこれにはクラス中がざわつき、全員が担任と犬塚に注目している。しかし君彦だけはまるで犬塚の存在を無理矢理無視するかのように、頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。
犬塚は担任を見下ろしながら、黙り込んでいるが―――――――しばらく間をあけた後にようやく答える。
「いえ、これは清めの煙です。オレん家、神社なんで」
「―――――――え、そうなのか?」
そんな問答をしている間にベルがなり、一時限目が始まろうとしていた。結局犬塚の喫煙疑惑はうやむやにされたまま授業が始まる。君彦が肩を竦めながら淡々と机の中から教科書やらノートを取り出していると、黒依はしきりに君彦の方を気にしながら授業を受けた。
―――――――一時限目が終了し、いつものように犬塚の回りには女子達が集まり出していた。話題はホームルームにも出ていた煙草について、吸ってるのか吸ってないのか本当の所はどうなのかという話題から犬塚の家が神社である話題まで、黄色い声に囲まれながら犬塚は少し鬱陶しそうな顔で対応している。
そんな中、ちらちらと君彦の方に視線を送る犬塚に―――――――君彦は気付かないフリをして全部無視していた。たまりかねた黒依が君彦に話しかける。
「ねぇ君彦クン、猫又ちゃんがいなくなってもう一週間以上経つんだよね?」
黒依に話しかけられるのは心から嬉しかったことだが、その話題が猫又のこととなると君彦の笑顔に少しだけ陰りが見えた。しかし大好きな黒依にせっかく話しかけられたのだから笑顔で対応しないと失礼だと思った君彦は、いつも以上に笑顔を作って明るい声を出す。そんな君彦の無理した笑顔に気付いている黒依の顔にも、寂しさが滲んでいた。
「うん、もうそんなに経つかなぁ。先週からやっとバイトが忙しくなって来たからすっかり忘れてたよ、家に帰る頃には疲れてくたくただったからね」
にっこりと微笑む君彦の態度がやけに痛々しく感じられた黒依は、それでも君彦を傷付けないように根気よく話しかけた。
「ねぇ・・・、もう無理しなくてもいいんだよ? 君彦クン、猫又ちゃんがいなくなってから無理して笑ってるの・・・あたしわかってるんだから」
「そんなことないよ、黒依ちゃん! な、何言ってんの? オレはいつも通りこんなに元気だよ!?」
両手を上にあげたりして「元気で明るい」ということを必死でアピールする君彦、しかし黒依の顔にはもはや笑顔はなく必死で訴えかけるような表情に変わっていた。
「本当は猫又ちゃんがいなくなって寂しいんだよね? でもクラスのみんなに心配かけないようにって、無理矢理明るくしてるんでしょ? だっていつもの君彦クンだったらもっと変で、奇特で、優しいのに・・・」
(―――――――それって、褒めてもらってんのかな?)
何となく違和感を感じながらも君彦は黒依が必死になって心配してくることが不思議で仕方がなかった、どうして猫又がいなくなった位でこんな風に言われなくちゃいけないんだろう? 大体猫又の姿は一部の人間にしか見えないのに、黒依ちゃんには見えないはずなのに。存在がどうとか言えるヤツなんかじゃないのに・・・。
たまりかねた君彦は、猫又が消えたことを割り切ろうとしていた自分の考えを黒依に聞かせた。そうすることで黒依にも納得してもらおうと思ったからである。これ以上―――――――自分の前で猫又の話題を出してもらわないようにする為に・・・。
「大体さぁ、今までがおかしかったんだよ。猫又なんて妖怪に取り憑かれてるなんて・・・普通じゃないんだよ黒依ちゃん? そう考えたら今の方が普通だ、自然な形に戻ったってことなんだよ! これが本来の日常生活なんだ。だって猫又がいなくなったおかげで朝のトイレを順番待ちすることがなくなったし、ご飯にケチをつけられることもないし、見たいテレビ番組も見放題だし、家中猫の毛だらけにならずに済んでるから掃除もラクになったし、いいことだらけだ!」
君彦は思い出せるだけ猫又がいる不便さを次々とまくし立てた、それを聞いた黒依は「随分猫又に尻に敷かれてたんだな」と思いながら呆気に取られている。君彦は―――――――言った後に、それらが今後二度と経験出来ないものなんだと再認識させられたような感覚に陥ったのか、少しだけ気落ちした様子だった。
まくし立てた後、一瞬だけ君彦の顔に孤独に満ちた寂しげな表情が現れた。それを見逃さなかった黒依は、席に座ったままの君彦の目線にまで態勢を低くするともう一度だけ君彦のことを説得しようと試みる。
「君彦クン、それが―――――――家族ってものじゃないの? いつも一緒にいて、悪いこともいいことも・・・全部二人で分かち合ってたんじゃないの? あたしには今の状態の方が不自然だよ、足りないの」
それから黒依は本当の気持ちを君彦に告げた、この言葉を言えるのはきっと今だけ―――――――今を逃したら二度と話すことが出来なくなるかもしれないと、黒依は宥めるような気持ちで君彦に話して聞かせた。
「あたし、君彦クンの話を聞いてすごく・・・すっごく楽しかったんだよ? 君彦クンが猫又ちゃんに取り憑かれて共同生活を始めるようになってから、その話が出来るのはあたしだけなんだって―――――すごく嬉しかった。君彦クンの制服の上に猫又ちゃんが寝転んで猫の毛だらけにしちゃって毛玉を取るのが大変だったって愚痴ったり、猫又ちゃんが魚の骨を喉に刺しちゃって他の人には姿が見えないのに動物病院へ連れて行くべきかどうか本気で悩んだって聞いた時も――――――あたし大笑いしちゃったし。君彦クンにとっては何でもない出来事でも、あたしにとっては毎日が楽しくて羨ましくて・・・とても大切な時間だったんだ。あたし一人っ子だから君彦クンの話を聞いて、まるで兄弟みたいだなって―――――――そんな風に思ってた。だから・・・っ! だから今の君彦クンは、まるであたしの知らない君彦クンみたい・・・。猫又ちゃんが何をしたのか、犬塚クンに何をされたのか・・・あたしは知らない、わからない。でも・・・でもね? 君彦クンには猫又ちゃんが必要なんだと思う! 一緒にいるべきなんだって、あたしでもわかるもの! だからお願い、無理して笑おうなんて思わないで? 寂しかったらあたしを頼って欲しい、辛かったら助けを求めて欲しいの。猫又ちゃんがいなくなって良かっただなんて、そんな悲しいこと言わないで?」
黒依は全てを告白した、中学生の時―――――――君彦と初めて出会って、猫又に取り憑かれているという話を聞いて黒依にとって君彦が話してくれる内容全てがとても大切だった、それを君彦に面と向かって初めて打ち明けたのだ。黒依が必死になって自分に訴えかけていることを理解出来ない程、君彦は愚かではない。
そんな気持ちを聞いて心が動かないわけではなかった、しかしそれを言われたところでどうしろと言うのだろうという思いだけは拭い去れない。猫又は祖母を殺した、愛する家族の命を奪った敵なのだから―――――――!
胸の痛みに耐えながら君彦も言わずにはいられなかった、どうしても自分の気持ちを理解して欲しかった。猫又のことばかりじゃない、自分のことも見て欲しかったのだ。
「だったら黒依ちゃんは・・・、自分の家族を殺した殺人鬼と仲良く暮らせって―――――――そう言いたいの?」
「―――――――っ!」
君彦は黒依に八つ当たりするつもりなんて毛頭なかった、しかし衝動を抑えられない。溢れ出る感情を止められなかった。辛くて、苦しくて、今にも悲鳴を上げて暴れ出したい気持ちをようやく抑えるものの―――――――猫又の心配ばかりする黒依に、我慢出来なくなってしまったのだ。
苦痛に少しだけ表情を歪めながら、君彦は震える手を押さえて―――――――言葉を続ける。
「黒依ちゃんは許せるの? 自分の身内を殺したかもしれない犯人のことを笑って許せって? オレはそこまでお人好しなんかじゃないよ、そこまで馬鹿じゃない。せめて―――――――猫又が本当のことをオレに話すまでは絶対に許さないって、誓ったんだ。だから・・・っ!」
最後まで言うまでもなく、君彦は黒依を見て胸が痛んだ。心臓をナイフで突き刺されたような激痛が走り、一瞬だけ呼吸を忘れてしまう程の衝撃を受ける。君彦が言い放った言葉に対し、黒依は大きな瞳から大粒の涙を零して―――――――泣いていたのだ。
大好きな女性の涙を見て、後悔に襲われた。君彦は慌てるように椅子から立ち上がると、おろおろしながら謝罪する。
「あ―――――――えっと、その・・・ごめん黒依ちゃん! 黒依ちゃんのこと泣かすつもりなんて全然・・・っ!」
「ううん・・・、違・・・何でもないから・・・っ。ごめんね―――――――君彦・・・クン」
黒依は零れ落ちる涙を拭いながらどうしても止められないことを悟ると、自分の席に戻ってハンカチで涙を拭いていた。君彦は追いかけてもう一度謝ろうとするがちょうどその時に二時限目が始まるベルが鳴ったので、君彦は挙動不審になりながらも黒依の方を気にしつつ自分の席に戻った。
黒依は授業が始まってからも下をずっとうつむいたまま、声を殺して泣いていた。隣に座っている女子生徒に小さく声をかけられ、大丈夫と返事しながらも―――――それでも授業が終わるまでずっと君彦に言われた言葉が黒依の頭の中を反芻している。
―――――――黒依ちゃんは許せるの?
―――――――自分の身内を殺したかもしれない犯人のことを、―――――――笑って許せって?
(そんなことはわかってる・・・、わかってるもの・・・っ! 許せるはずがないって・・・、でもあたしは・・・っ!)
―――――――オレはそこまでお人好しなんかじゃないよ。
(・・・許されない、―――――――これは許されないことなんだ。いくら優しい君彦クンだって人間だもの、憎しみのひとつやふたつ抱いてたって不思議じゃない。そう、どんなに言い繕っても罪は罪。悪いことは悪いことなんだ・・・っ!)
ごめん、―――――――ごめんね君彦クン。
―――――――・・・本当にごめんなさい。