神童と呼ばれた女
――猫目石。
猫娘・涼子が一人で切り盛りしている居酒屋の看板名であり、そこは人ならざるモノが出入りする店だ。当然店主である涼子も猫娘と呼ばれる猫の妖怪の一種。ごくまれに生きた人間が迷って足を踏み入れることもある。その人間が子供である場合には飴や和菓子などをやって皆で大いに遊び、楽しませ遊び疲れて眠ってしまった子供は店の外に寝そべらせる。目が覚めればそこには人気のない廃屋しかない。
迷い込んだ人間が大人であった場合には酒を振るまい大いにもてなす。そして酔いつぶれ眠ってしまった大人の財布から、相応の金銭を失敬した後に店の外へと放り出す。どちらも昨夜の出来事がまるで夢だと思わせるように。大人は寝てるところでスリに遭ったと思うように。
こうした「何の霊力もない生きた人間」は猫目石に迷い込むこともあるが、それは邪心のない人間に限られる。猫目石に出入りする妖たちにとってはまるで無害なモノだけが偶然迷い込むことがある。しかし「強い霊力を持った生きた人間」や邪心のある人間に対しては猫目石に立ち入れないように結界が張ってある。それは猫目石の主人や客たちに危害が加えられないようにする為に施された特別な結界だ。
結界を張った者以上に強力な力を持っていない限り、その結界が破られることはない。そうやって猫目石の平穏は保たれていた。
平日の昼間、そんな猫目石の店内ではピリピリとした空気が漂っていた。
不機嫌な表情をした店主の涼子、不穏な空気に居心地悪くしている君彦、そしてそんな空気にさせた張本人である妃紗那はご機嫌な表情でのんきに冷水を飲んでいる。
喉が潤ったところでそれまで肝心なことを何一つ口に出さなかった妃紗那が一転、唐突なまでに喋り出した。
「ここまで申し訳なかったわね。私もこんな回りくどいやり方をしたくなかったんだけど、そうも言ってられなくてね。少々強引だったけどこうして会うことが出来てよかったわ、猫又君彦君。それから猫娘の涼子ちゃん、だっけ」
妃紗那に名を呼ばれた涼子は明らかに不快な表情をした。よほど妃紗那に対し警戒しているのか、猫目石に妃紗那を入れてからというもの涼子は終始こんな調子だ。店に招き入れたのは他ならぬ君彦だったので、全くわけがわからないが申し訳ない気持ちで一杯になった。その辺りも妃紗那から聞かなければいけない。いや、ここは涼子に聞くべきだろうか? 君彦がそんなことを頭の中で巡らせている間も妃紗那の話は続いている。
「自己紹介はさっきしたからもういいわよね? そちらのお嬢さんも、私のことはある程度知っているんでしょ」
そう問うたが、涼子は妃紗那とは口をききたくないのかそっぽを向いた。そんな涼子の態度に妃紗那は軽く笑み、それが肯定の意味と捉えて先を続けた。
「私が話したい内容はただ一点に限っているんだけど、君彦君には知りたいことがたくさんあるわけよね。なら本題は後回しにしてまずは私と猫又ちゃんの関係について先に話した方がいいかしら」
会った当初から威圧的で物言いも常に上からだった妃紗那にしては珍しく自分に気を使ってくれるんだと君彦は思った。そもそも彼女がなぜ猫又のことを知っているのか、その関係性を話すことを条件にここまで案内したのだから当然といっては当然のことであるが。
「私と猫又ちゃんはね、古くからの知り合いなのよ。君のお祖父様である猫又征四郎さんを慕ってよく猫又神社まで遊びに行っていたわ。猫又ちゃんとはそこで知り合ったの。だから本来は君のお祖父様の知人、ということになるのかしらね」
「オレのお祖父ちゃんと知り合い? 知らなかった……」
まさかここで祖父の名を耳にするとは思っていなかった君彦は心底驚いた。君彦以上に霊感の強い祖父のことだ、白蛇を従える妃紗那と繋がっていても不思議はないのかもしれないとさえ思えた。だが知人といってもどういった関係の知人なのかまだ謎は残っている。祖父と妃紗那が知人と呼ぶにはあまりに年齢が離れすぎている。その辺りの事情も知りたいと思っていたのが顔に出ていたのか、君彦が質問するまでもなく妃紗那は洗いざらい話してくれた。どうやら本当に君彦の知りたいことを教えてくれるようだ。
「征四郎さんに特別な力があることはお孫さんである君も当然知っていることよね。君にも特別な力があるんだもの。そして私にもその特別な力が備わっていた。ただ私の場合、君や征四郎さんの比ではなかったけどね」
妃紗那の話はこうだ。
生まれつき特別な力、霊感能力を持っていた妃紗那は幼い頃より普通の人間とは明らかに異質な存在であったという。幼少の頃よりその人格も存在感も歳相応のものではなく、同じ年齢である子供達はおろか周囲の大人や親でさえも妃紗那の存在を恐れていた。
幼児でありながらどこか悟ったような雰囲気や言動がしばしば大人達を困惑させた。それだけでなく妃紗那の言葉には予言めいたものが数多く、人の死期を何度か言い当てたことで更に世間は妃紗那を恐れたという。
普通の子供であればそれだけで精神面に深い傷を負ったであろうが、まるで悟りを開いたかのように達観した妃紗那はそんな世間の目にも屈することなく、その他にも生まれ持った才能を次々と開花させていった。年齢にそぐわず口が達者で、他の子供達には難しいと思えるような課題をなんでも器用にこなしていった。
そういった才能を遺憾なく発揮させていった妃紗那に対し、ようやく世間は彼女のことを畏怖の対象として接するのではなく神童として扱うようにまでなった。
しかしそれもまた妃紗那の計算であり、上手く世を渡る術を身につけた彼女の計画通りとは誰も気付かず、妃紗那のこれまでの評価は一変した。幼くして人身を操る稀有な才能と、類稀なる霊能力の高さに誰よりも早く気付き、そんな彼女の身を心配したのが他でもない、君彦の祖父である猫又征四郎であった。
やがて妃紗那と征四郎は師弟関係とも取れるような関係になる。妃紗那の元々の人格が高貴であった為か、大人に対して見下している節があったが征四郎に対してはそのような態度は皆無だった。むしろ妃紗那は今まで出会ったどの大人より征四郎を認めており、尊敬の念を抱いていた程だ。それは征四郎自身が自分と同じように、普通の人間とは違う特別な能力を持っていたことが起因となっているが、それ以上に征四郎の人間性にまず惹かれていた。
征四郎は猫又神社の神主の他に霊媒師として静かに活動していた。いわゆる妖怪退治のようなものであったが、そのほとんどは妖怪を力で強制的に退治するというより話し合いや和解などで解決させるという形が主だった。そんな活動の中で常に征四郎の側にいたのが他でもない猫又だ。
妃紗那は何度か征四郎の活動の場に立ち会ったことがあり、その時に猫又と知り合ったのだ。妃紗那と猫又の関係性は親しいとも不仲だとも言えないという。お互い征四郎を中心にした顔見知り程度のものだ。少なくとも妃紗那はそう言い切っている。
「――とまぁ、大体こんな感じかしら」
妃紗那はまず自分のこと、そして猫又と知り合った経緯を簡単に話して聞かせた。君彦にとっては衝撃の連続であったが、妃紗那の話は淡々と続けられたのでその合間にいちいちリアクションを取る余裕はなかった。そのせいで君彦の頭の中は更なる疑問符で溢れ返っていた。
(この人のことは大体わかった、と思う。けどそれ以前に一体どういうことなんだ? 猫又がお祖母ちゃんの飼い猫だったことは最近知ったことだからいいとして、お祖父ちゃんが猫又と妖怪退治? その時から猫又はお祖父ちゃんと一緒にいたってことだよな。お祖父ちゃんは事故で亡くなるまでオレと一緒に暮らしていた……。ということは猫又はその頃からずっとオレの近くに存在していたってことになるじゃないか。あいつ、そんなこと一言も……)
君彦が新たに仕入れた情報をどうにか整理しようとしていると、突然背後から大きな物音が聞こえてきた。それまで喧騒から遠ざかっていた空間であったが、その静寂は唐突に破られた。出入り口である引き戸が勢いよく開けられ、ガラスと鈴の音が同時に店内に鳴り響く。物音に驚いた君彦が振り向くと、そこには血相を変えた犬塚が立っていた。その後ろには本来会うはずであった黒依と響子も揃っている。
「犬塚? それに黒依ちゃんに志岐城さんまで。一体、どうしてここに……」
と言いかけた君彦の隣で妃紗那が小さくつぶやいたが、はっきりとは聞き取れなかった。何と言ったのか尋ねようとした君彦であったが、その前に犬塚が息を切らしながら妃紗那に向かって言い放つ。
「やっぱりあんただったか……」
何が何やらわからない君彦が戸惑っていると、犬塚の背後で立ち竦んでいる響子が割って入った。
「ちょっと犬塚、どういうことか説明しなさいよ! あの怪しい白蛇を見るなり顔色変えて……。この女の人が何だって言うのよ!」
響子の質問に犬塚はまず切らした息を整えながら、君彦の隣に座っている妃紗那から片時も視線を外さなかった。犬塚の様子から察するに彼はどうやら妃紗那のことを知っているように見えた。それでも突然の展開に君彦の情報処理能力が追いつかない。
明らかに妃紗那に向かって口を開いた犬塚であったが、それでも妃紗那は振り向こうとはしなかった。隣に座っていた君彦だからわかる。彼女は微かに微笑んでいた。まるでこうなることをすでに見透かしていたかのように。
そして犬塚は静かに告げた。
「かつて神童と呼ばれていたこの女は……、オレの……義理の姉だ……」