妃紗那とハク
全身黒ずくめの美女に呼び止められた君彦は狼狽していた。
その美女がこの世のものとは思えない美しさであるが故、君彦は幽霊だと思ってしまったこともひとつの理由ではある。それ以上に初めて会った美女に自分のことが知られているという、言い知れぬ不気味さが何より君彦を動揺させた。
見ず知らずの相手は名乗った。神代妃紗那と。
(知らない名前だ……。同級生にも知り合いにも、当然親戚にも神代なんて名字の人は誰もいない……)
そんな君彦の動揺は初めから承知の上だったのだろう、妃紗那は面白そうに微笑みながら更に続ける。
「もしこの後時間があるのなら猫目石まで案内してくれないかしら? そこで詳しく話してあげられるんだけど」
妃紗那の言葉に君彦は迷った。なぜ自分のことを知っているのか、どんな噂が流れているのか、何より妃紗那が何者なのか。様々な疑問が君彦の頭の中を駆け巡ったが、了承するわけにいかない大きな理由がある。
「あの、友達と待ち合わせしてるんです。もう待ち合わせの時間には間に合わないけど、早く行かないといけなくて。オレ……、あ、いや……僕は携帯とか持っていませんので」
「そんなにかしこまらなくていいのよ。普通にしてくれて構わないわ」
まるで小動物か愛玩動物でも相手にするように、日傘を持っていない方の手を口元に持って行きころころと笑う。仕草はとても女性らしく、その美しさも手伝ってか、君彦はドキリとした。しかし黒依の時のようなドキドキ感とは全く違っていた。まるでそう、響子に取り憑いた色情霊を目の当たりにしたような、背筋がぞくぞくするような感覚に近かった。
「でも、そうね。先約があるなら残念だけれど仕方ないわ」
もっと切迫した展開なのかと思いきや、妃紗那はあっさりと諦めたような様子だった。妃紗那の引き際の良さに君彦は少し拍子抜けしてしまう。てっきり都合はつかないのか迫られるものだと思っていたから。
君彦は腕時計に目を落としながら完全に遅刻だと焦りつつ、このまま立ち去っていいものかどうか迷っていた時だ。妃紗那はビシリと君彦を指差しきっぱりと告げた。
「残念だけれどあなたの友達には私が事情を説明しておくから、今すぐ猫目石へ案内なさいな」
「はぁ?」
予想だにしなかった言葉に君彦は素っ頓狂な声を上げた。あまりに間抜けな声だったので、すぐそばを通った通行人は奇異な視線を君彦に向けている。そんな視線には慣れていた君彦は通行人のことなど全く気に留めず、目の前の問題に必死になって反論した。
「どうしてそうなるんですか? 今から猫目石へ案内って、黒依ちゃんたちにはいつどうやって事情を説明するつもりなんです」
「黒依ちゃん、ね。へぇそう、若いっていいわね。この後デートだったの。それは残念なことをしたわね」
全く悪びれた様子もなく、意地の悪い笑みを浮かべて君彦のことをからかう妃紗那。黒依とのデートだと言われ顔を真っ赤にさせる君彦であったが、そんなことに動揺してる場合ではなかった。
せっかく黒依や響子たちと会う約束をしているのにすっぽかすわけにはいかない。自分がいい加減な人間だとマイナス評価を与えられるわけにはいかなかった。……犬塚相手ならなおさらだ。
「そういうことを話してるんじゃなくてですね! 友達の約束をすっぽかすわけにいかないんで、申し訳ないんですけど」
言いかけた君彦を遮るように妃紗那は突然片手を真上へと突き上げる。そんな仕草ですらどこか荘厳であり、不思議な気高さを感じさせた。何事かと思った君彦は思わず妃紗那の突き上げた手の真上を見上げた。なんとなく上に何かがあるように感じたからだ。するとまるで天から舞い降りて来るように何かが迫ってくるのが見て取れた。
それは半透明であったが君彦の目にはっきりと映っている。どれほどの長さがあるのかわからないが恐ろしく長い。十メートルはあるように見えた。半透明のそれは全身が真っ白で、上空から舞い降りると同時に妃紗那の突き上げた手に絡みつく。
大きな円を描くように、妃紗那の体に触れるか触れないかという距離感を保ちつつ、真っ白いものは妃紗那の体全体に巻き付くように収まった。
「大きな……白い、蛇……?」
巨大な蛇だった。実際に目の当たりにしたことはないが、その白蛇はアナコンダほどの大きさと長さを持っている。もしかしたらアナコンダよりもっとずっと長いかもしれない。その目は赤く、舌をチロチロと出している。
妃紗那は愛おしそうにその白蛇の頭を撫でながら紹介した。
「この子の名前はハク。今からこの子があなたの友達に事情を説明しに行くから安心してちょうだい」
「あなたは一体何者なんですか?」
やっぱり普通じゃない。神代妃紗那と名乗った女性は普通の人間ではなかった。君彦が最初に抱いた違和感は間違っていなかった。外見の奇妙さなど問題ではない。それ以上に妃紗那の持つ雰囲気、そしてハクという名の白蛇を手懐けているところから、明らかに特殊な力を持った何者かに違いなかった。
「だからそれを今から猫目石で説明してあげると言ってるの。これで少しは案内する気になったかしら?」
妃紗那の表情、そして声に否定的な言葉を返せない威圧感のようなものがあった。反論したら殺されてしまいそうなほどのプレッシャーを感じる。この世のものではない白蛇の存在がすぐそばにあるからではなく、その圧力は妃紗那一人によって発せられている。
ごくりとツバを飲み込んだ。まるで全身金縛りにでもあったかのように体が硬直してしまっている。気圧されてしまっていた。黒依たちには事情を説明すると言っているのだ。その説明をこの白蛇がするというのだ。
絶対に彼女たちを驚かせるのは目に見えて明らかだった。それが気の毒のように思えたが、しかしそれがかえって大きな説得力になるのも間違いなかった。こんな白蛇が君彦の代わりに現れたのであれば、君彦の身に異常なことが起きていると把握するのは明白だった。
(どうする? この白蛇が黒依ちゃんたちに危害を加えないなんて保証はあるのか? 何よりこの人についていってオレは無事でいられるんだろうか?)
いつもなら人を最初から疑うようなことはしない君彦であったが、妃紗那の持つ迫力と白蛇の存在を目の前で見せられたとあったら、さすがの君彦でさえ不安を覚えてしまう。どうしようか迷っているところに肝心なことを思い出した。
(そうだ、犬塚! 今は待ち合わせの時間はとっくに過ぎてる。この白蛇がどれくらいの時間をかけて黒依ちゃんたちのいる図書館に着くのかわからないけど、いくらなんでもその頃合いには犬塚だって図書館に到着してるかもしれない! 犬塚のそばには常に犬神がいた気がする。この白蛇が危害を加えるような危険な存在だったなら、犬塚が対抗してくれるに違いない!)
それからしばし思考を巡らせる。
(ダメだ! 保証がなさすぎる! そもそも家から図書館に行くまでに必ず通るこの駅前広場にさえ犬塚が通ってないじゃないか! いや待て! オレが家を出る時、隣は静かだった。もしかしたら図書館へ行く前にどこか寄る所があって早めに家を出てるだけかも? だからここを通ってないだけかも? ダメだ、あいつの行動がわからない! 白蛇が到着する前に犬塚が図書館に着いてる確率が圧倒的に低すぎる!)
どうしても信用できる要素のない犬塚に対し君彦が自問自答していると、それを見かねた妃紗那の表情からは笑顔が消えていた。
「なかなかに決断力のない男ね、そんなことじゃ女の子に嫌われるわよ」
「うぐっ!」
『妃紗那様、これじゃ埒が明きませぬ。やはりここは私の力でその猫目石という店、探してご覧に入れましょう』
初めて白蛇が言葉を話したことで君彦はさきほどの妃紗那の言葉によるショックから立ち直る。白蛇、ハクの声は女性にしては少し低く、男性にしては少し高い、中性的な声音であった。どちらかといえば女性、メスのように感じられる。
「それではダメだと言ったでしょう。猫目石には結界が張ってある。結界を通り抜けるにはこの少年を連れて入らなければいけないわ」
『妃紗那様ほどの霊力の持ち主ならばそのような結界、破るのは容易いでしょう』
「普通の結界ならね。この町のほぼ全域に張られている結界はそうはいかないのよ。他の誰でもない、あの猫又ちゃん自らが張った結界なんだからね」
「……猫又?」
妃紗那とハクの会話をすぐそばで黙って聞いていた君彦は驚愕し、とっさに声を張り上げた。まさかこんな所で猫又の話が出てくるとは思わなかったからだ。
まるでその会話をわざと君彦に聞かせたかのように、どこか含みを帯びた笑みを浮かべて妃紗那が見据える。
「そう、君がよ~く知っているあの猫又ちゃんよ? これでさっきよりは興味を持ってくれたかしら」
「……どうせ、どうして猫又のことを知っているのか聞いても、猫目石に行かないと教えないって言うんでしょう?」
「飲み込みは早いみたいね、その通りよ。さぁ、どうする?」
妃紗那が一体何者なのか、ここで問答しても決して答えてくれないのはわかった。それならどうしたらいいのか、もう君彦に残された選択肢は一つしか残されていないも同然だった。少なくとも君彦が思いつく限りは。
「そのハクって白蛇、本当に黒依ちゃんたちに何も危害を加えないって約束できるんですか?」
君彦は警戒の色を宿した瞳でハクに視線を移した。ハクのことを蔑んだ言い回しをしたつもりはなかったが、君彦の言葉に感情を高ぶらせたような様子はない。蛇だから表情がわからないだけかもしれなかった。それでもハクが猫又や犬神のように突っかかってくるような様子は見えなかったので、君彦は少しだけホッとした。
「それはこの私が保証してあげるわ。ハクは絶対に私の命令に逆らわない、絶対にね。もし万が一にもこの私に逆らおうものなら、死んだほうがいいと思うような壮絶な苦痛を与え、尊厳すら失わせるほどの屈辱を与え、そして最期には完全なる無を与えることでお仕置き完了。そうなるくらいなら一生私に服従していたほうがずっと幸せでしょう?」
再び微笑む妃紗那であったが、その言葉を聞いて君彦は妃紗那の笑顔が恐ろしいものにしか見えなかった。初めて目にした時から感じていた寒気は、妃紗那のこういった一面を表していたからかもしれない。それを肌で感じたせいかもしれなかった。
「……わかりました。猫目石に案内します。その代わり本当に黒依ちゃんたちのことは……」
「わかっているわ。……わかっているわよね、ハク?」
『御意にございます、妃紗那様』
「さ、そういうことだから早速行きましょうか!」
明るい言葉で気を取り直した妃紗那に続き、ハクはさきほどと同じように空高く舞い上がると図書館のあるほうへ飛んでいった。君彦は複雑な気持ちを抱きながら、本当にこれでよかったのかと自信なさげになりながら猫目石へと案内するのであった。
神隠し的なハクとは一切関係ございません(;^ω^)