漆黒の美女
梅雨が終わり君彦の高校ではついに夏休みが始まった。
君彦は部活に入っておらず、成績もさほど悪くなかったので補習を受ける必要もない。再び学校へ行くのは夏休みが終わってからだ。しかし君彦の夏休みは忙しいまま終わりそうだった。
夏休みの宿題だけにとどまらず、君彦は夏休みの大半をアルバイトをして過ごすことがほぼ決まっていた。もちろん夏休みの間すべての日数を出勤するわけではないが、これまでと違って平日の夜間も出ることになっていた。
そんな忙しそうな君彦に対して猫又は暑さにバテているのか、日陰になっている台所の床の上でお腹をぺったりと付けた状態になっている。その姿は野生の猫らしからぬ無様な姿であった。
『なぁ、お前なんでそんな働きたがるんだよ。確か親だかじいさんだかの遺産で、成人するまではバイトなんかしなくてもフツーに暮らせるだけの金はあるんじゃなかったのか?』
気だるそうな声で君彦に問いかける。猫又は君彦が施設から出て一人暮らしを始めるまでを共に過ごしてきたので、そのいきさつは大体わかっていたのだ。施設で暮らすことが出来たのは十五歳まで。つまり中学校を卒業するまでだった。人間社会のことを詳しく知っているわけではない猫又はそれ以上のことはわからなかったが、君彦が高校へ行く際に祖父である征四郎が残した遺産を相続することで自立することが出来たのだ。
その遺産がどれほどのものかも想像がつかない。しかし成人するまでは必要な費用は受け取れるということだったので、それなりの額が君彦に渡ったことに違いはない。そう思って猫又はアルバイトを始めた君彦にこのような問いをしたのだ。
君彦はまだ若い。学生としての本分もあるのだからあくせく働く必要なんてないと思った。しかし君彦はそんな猫又の言葉にあっけらかんと答えた。
「働きたがるっていうか、自分のことは自分でしたいじゃないか」
『してるだろ。お前と同じ立場のあいつらだって別にバイトなんてしてねぇじゃねぇか』
猫又の言う「あいつら」というのは、君彦の友人である三人のことだ。黒依はもともと家が裕福ということもありアルバイトする必要性すら感じない。響子のことは猫又も詳しく知らないがアルバイトをしてる風には見えなかった。君彦の隣人でもある慶尚に至っては言うまでもない。すぐ隣に住んでいるのだ。毎晩部屋でどこにも行かず何かをしているのはわかっていた。
だから別段お金に困っているわけでもない君彦が学業とアルバイトを両立する必要性が理解できなかった。
「他の人は関係ないだろ。ていうかお前にも関係ないだろうが」
毎日てきぱきと過ごしている君彦と違い、猫又は暑さに弱くほとんどこのようにダラダラと過ごしていたので、自分の行動に関してあれこれと言われたくなかった。それ故、つい口調がきつくなってしまう。
猫又がうつ伏せになっていた床に体温が移ったせいか、そのままごろんと転がって冷たいままの床に移動する。今度は仰向けだ。
『関係あるわ! お前がいない間、オレは腹を空かせてお前の帰りを待ってなくちゃいけねぇんだぞー』
いくら猫又とはいえ何でも自分で出来るわけじゃない。猫缶だって開けられないし、ドライフードの入ったチャックを開けることも出来ない。そこはさすがに人間と猫の身体的構造の違いがどうしても出てしまう。猫又といっても魔法使いになったわけではないのだ。
ごろごろと自堕落全開の猫又を見て君彦はため息をこぼす。本来なら猫のこんな姿を見たら「かわいい」と思うかもしれないが、君彦は猫又の本性を知っていた。どれだけ性格が悪いか、どれだけ憎たらしいか。よって猫又のこんな姿を見ても別段「愛らしい」などと思えることは微塵もなかった。むしろその太ましい体型から「暑苦しい」と思うだけである。
「別にオレの帰りを待たなくたって、そんなにお腹が空いてるなら涼子さんのお店に行けばいいだろ。ドライフードなら必要な分は入れっぱなしにしてるのに、それを晩ご飯の時間まで待たずに全部食べてしまうお前が悪いんじゃないか」
猫がそんなルールを守れるはずがない、と反論しようとした猫又であったが君彦は「あっ」と声を上げて居間にあった時計を見る。時計の針は九時半になっていた。
『バイトは夜だけだろ? どこ行くつもりだよ』
「今日は黒依ちゃん達と図書館に集まって宿題するんだよ。オレの部屋はエアコンがないし、女の子の部屋に上がるわけにもいかないだろ?」
『犬塚のヤツがいるじゃねぇか。前にあの部屋行った時めちゃくちゃ涼しかったぞ』
猫又はたまに犬神をからかいに慶尚の部屋を訪れることがあった。その時に慶尚の部屋にエアコンがついていて部屋がとても涼しかったことを君彦に散々愚痴ったものだ。自分達の部屋にもエアコンが欲しい、と。
「バカ! あんな野獣の部屋に女の子二人を入れるわけにいかないだろ! 何があるかわかったもんじゃない!」
君彦はあからさまに嫌悪感をむき出しにした表情で反論した。ただでさえ慶尚が嫌いなのに、そこへ片想いの相手である黒依を連れて行くことに強い抵抗感を持っていたのだ。人間の恋愛関係のもつれに何の興味もない猫又はつまらなさそうに毛づくろいをしながら返事をしたようなしてないような曖昧な声を出す。
『そんなことより急いでるんじゃなかったのか?』
そう言われ、君彦は慌ただしく出かけていった。図書館へ宿題をしに行くだけなら帰りもそんなに遅くならないはずだ。そう思った猫又であったが、なぜか奇妙な胸騒ぎを覚えた。しかし猫又は遮光カーテンの隙間から入ってくる強い日差しに目を瞠り、こんな日に外出するのは命取りだとでも言うように視線を逸らした。
そしてまた体温で生温かくなった床から逃げるように、ごろんと転がって暑さを凌ぐのであった。
猫又を放っておいて君彦は足早に図書館へと向かった。図書館までの道のりは最寄りの駅を通り過ぎて、更にその先にある大型公園を横切った先にあった。駅までの距離はおよそ十五分、大型公園まで更に十分、ここまで来れば図書館まで五分とかからない。
午前中であろうと日差しは強かった。待ち合わせの時間は十時なので早歩きでもしなければ時間前に到着は出来ない。汗だくになるが女の子達を待たせるわけにはいかないので君彦は急いで図書館へと向かう。
君彦が家を出た際、同じく図書館で一緒に宿題をすることになっていた慶尚も出てくるかと思いきや顔を合わせることはなかった。すぐ隣が彼の部屋なので本当ははち合わせることのないように時間に余裕を持って家を出たかったのだが、案の定猫又にあれこれと邪魔をされて結局ギリギリの時間に出る羽目になってしまった。
慶尚の性格はいい加減なものだと君彦は勝手に思っている。時間を守るようにも思えない。だから慶尚も時間ギリギリに家を出るものだと思ったので、家を出た時にバッタリと顔を合わせてしまうものだと思っていた。
しかし出てくる様子は見られなかったので、まさか自分より早く家を出たのだろうかと勘ぐった。しかしいくら猫又とやり取りをしていたとはいえ、彼が家を出る時の物音に気づかないほど家の壁は厚くない。
だとしたら彼は君彦よりもっと遅い時間に家を出るつもりなのだろうか?
それならそれで別に構わないと思った。どうせなら来なくていいとさえ思っている。なぜ自分がこんなにも慶尚のことを嫌っているのか意識したことはないが、単に気に食わないと言ったらそれまでだ。性格の不一致もあるだろうし、彼の態度や言動がいちいち癇に障るのだ。君彦がこれほど他人を嫌うことは初めてだった。それだけに余計に歩み寄ろうという気になれない。
理由まで考えたことはない。もしかしたら考えたくないのかもしれなかった。
そんな途方もないことを考えながら君彦はまずは駅へと向かう。
君彦が住んでいる町は特に田舎でもなければ都市部というわけでもない。大型商業施設などが駅周辺にドンと構えているわけではなく、生活に必要な商店が並んでいる程度だった。精肉店、鮮魚店、衣料品店、美容院にドラッグストア。遊び場としてはカラオケ店やゲームセンターが何軒かある程度である。
もっと大きく充実した娯楽を楽しむなら、電車に乗って他の場所へ行くしかない。それでも君彦にとっては生活に必要なものは大体この町にあるお店で事足りるので不満に思ったことは一度もなかった。
駅前にある商店街は様々な年齢層の客であふれている。夏休みということもあるのだろう、親子連れであったり、子供たちが友達と寄り集まってゲームセンターに群がっていたりする。特にいつもと代わり映えしない光景だった。
これだけの人通りがある商店街のある一角に入って行くと、まさか普通の人間では見ることも入ることも出来ない居酒屋が存在しているなんて誰も思わないだろう。
店主である猫娘の涼子の話によれば、居酒屋「猫目石」は普通の人間の目にすればただの空き家にしか見えないという。それならその空き家を解体や改装などを理由に取り壊されたりはしないのだろうかと思ったが、不思議とそういう展開にはならないようだ。
そこが人間の常識では計り知れない謎な部分だと君彦は思う。妖は人を化かす。そういった働きかけが店の存続につながっているようだった。追求したい点ではあるが、君彦にとって「彼らの世界」に深く関わろうという気も特別な興味もないので、あえて考えないようにしている。追求したところで相手も説明するのが面倒だろうと思っていた。聞いてもどうせ理解できないかもしれない、という思いもあった。
猫目石へと続く道が目に入った時に、ふとそんなことが頭の中をよぎったが、今はそんなことを考えているヒマはない。早く図書館へ行かなければ。君彦はすぐさま視線を前方へと戻し、駅の方へ早歩きで向かっていった。
駅前は小さな町にしては少し大きな広場があり、少なからず緑もある。目の前がロータリーになっており、交通に必要なバスが出たり入ったりしている。この広場を通り過ぎた先に大型公園がある。君彦が足早に広場を通り過ぎようとした時だった。
のどかで平和で見慣れた光景だったはずの広場に異様なものが目に入った気がした。周囲に溶け込んでいなかったせいだろう、それは無意識に目に飛び込んできた。いや違う、あまりに目を引く様だったので君彦の目が勝手にその姿を追っていたのだ。
それは女性だった。
真っ黒な日傘を差して広場の真ん中辺りで一人佇んでいる。しかしそれだけなら同じような人が他にいても不思議ではない。君彦が異様に感じたのはそのような点ではなかった。
女性の髪は漆黒の闇のように黒く艶やかで、その長さは腰の辺りよりずっと長かった。思わず触れたくなるような真っ直ぐな黒髪はわずかに吹く風になびいて、柔らかそうにサラサラと波打っている。
肌は寒気がするほどに白い。あまりの肌の白さに黒い髪が更に際立って見えた。しかし女性の肌が見えている部分はあくまで顔と首の辺りだけだ。この暑い中を全身衣服で覆い隠している。紫外線や日焼けを気にする女性がよく日除けのために手袋やショールなどで素肌を隠したりするが、女性のそれは少し違って見えた。
一見着物のような黒い衣装は首元や裾の部分がレースやフリルであしらわれている。腰帯も脇腹に近い部分は大きなリボン状になっており、和服と洋服(この場合ゴシックスタイルと言うのだろう)でデザインされていた。上半身は明らかに和の部分が勝っているが、下半身は足首まで長さがあるタイトスカートになっていて女性のスタイルの良さが遠目でも窺えた。
少し際どいスリット部分から見える長い足もまた黒のレースタイツをはいており、かなり高いハイヒールもまた黒で統一されている。全身を黒一色で包み込んだ女性は、遠目ながらも真っ直ぐに君彦を見つめているように感じられた。
その女性の存在に気が付き目が合った時、君彦はこんな暑い中でも寒気を感じたほどだ。これは明らかに普通じゃない。
(もしかして幽霊? こんな時生きている人間と全く変わりなく見えるのが嫌になるな。いつもなら死因となりそうな傷跡が残っていたり、体が半透明になってたりするのに。今回のはやけにはっきり見えるし、もしかして普通に生きてる人間なのかも?)
そんな風に考えながら君彦は何事もなかったかのように視線を逸し、そのまま通り過ぎようとした。得体の知れない人間にしろ幽霊にしろ、関わっちゃいけないものがある。君彦は本能的に女性を避けることに決めた。
しかし……。
「ねぇ」
女性に声をかけられ、もうダメだと思った。
何かされるかもしれないと思ったわけじゃなく、このまま通り過ぎることが出来ないとわかったからだ。恐る恐る女性の方に振り向く。やはり君彦に声をかけているようだ。他の誰でもなくこの自分に。
「えっと、はい……」
このまま振り切ることも出来ないまま君彦は応答した。しかしその顔はこわばったままだ。暑さではなく冷や汗が流れていくのがわかる。背中なんてびっしょりだった。
しかしその女性はそんな君彦の様子を気にすることなく微笑みながら話しかけてくる。間近で見た女性の顔はこれまた背筋が凍る位に美しく、その大きな黒い瞳に魂まで吸い込まれそうになるほどだった。女性の微笑みは穏やかなものでも、柔らかいものでもなく、どこか冷たさを感じさせるものがあったが、それがまたこちらの心を釘付けにするような妖艶さが感じられた。
この微笑みに抗ってはいけないという本能が働いたかのように、君彦は逃げることも出来ず素直に応じるしか術がなかった。
「この近くに猫目石っていう居酒屋があるはずなんだけど、ご存知かしら?」
女性のこの言葉が決定的だったかもしれない。少なくとも生きている普通の人間の口から猫目石に関する話を聞くことなんてあり得ないと言っても過言ではないからだ。やはりこの女性は幽霊か妖なのではないか。全く消えることのないこの寒気も、女性のこの世のものとは思えない美貌も、生きている人間から感じられるようなものではないように思えた。
「えっと、あの……、あなたは?」
女性が何者かわからない以上、猫目石に関する情報を簡単に漏らしてはいけないような気がした。普通に道を聞かれたのならばすぐに教えるなりわからないなり言えるのだが、仮にも知り合いの店の場所を聞かれているのだ。何か問題があってはいけない。
君彦の意図に感づいたのかそうでないのか女性の表情からは窺えなかったが、女性の微笑が崩れることはなかった。
「安心して大丈夫よ、危害を加えるつもりはないわ。こう見えて私、れっきとした生きている人間だもの」
その言葉に君彦は驚きを隠せなかった。反応が素直過ぎたのか、女性はクスクスと笑いながら続ける。
「あなた、猫又君彦君でしょう? 君の噂は色々と聞いているわ」
思わず後ずさりしてしまう。初対面の相手に自分の名前を当てられ、更にどんなものかわからない噂話まで聞いてると言われると誰だって身構えてしまうはずだ。君彦の冷や汗は加速度を増し、緊張のあまり肩に掛けているカバンを両手で強く抱きしめた。
すると女性は日傘を持った手とは逆の右手を差し出した。握手を求める状態で自分自身を紹介する。
「初めまして、猫又君彦君。私の名前は妃紗那、(きさな)、神代妃紗那よ」