雨の日の記憶(15)~夢から醒めても~
雨の音に混じって声が聞こえた気がした。
湿っぽい風に独特の雨の香り。
――いやだ、まだ行かないで。
そんな気持ちとは裏腹に自分を呼び戻そうとする声がする。
やがて徐々に雨の音とは別に賑やかな声が聞こえてきた。言い争うような声、つっけんどんな声、のんびりとした声。そんな声が少し離れた場所から聞こえてくる中、静かで心配するような声がすぐ近くで聞こえる。
そしてゆっくりと目を開けた。
「猫又、お前どうしたんだ?」
声のする方向へ視線を向けると、懐かしい顔がそこにあった。猫又はまだ寝ぼけているようでぼうっとしている。すると君彦が優しい手つきで猫又の頭を撫で、そして目元を指でなぞる。
「泣いてるのか?」
そう言われて初めて猫又は自分が夢を見ながら涙を流していたことに気付く。それでもまだ頭がすっきりしないようで、前足で顔を洗うようにして涙を拭きとった。
「どこか痛いのか?」
変わらず心配そうに声をかける君彦に対し、猫又はそっけない返事をした。
しかしその態度に腹を立てるどころか、いつもの猫又と変わりないと判断したらしい君彦はひとつため息をこぼすと騒がしい連中の輪の中へ戻っていった。もちろん、君彦も猫又への憎まれ口を忘れない。これが彼らのコミュニケーションなのだ。
猫又は君彦の家に遊びに来ている騒がしい三人の男女の方へと目をやる。
君彦がずっと片想いをしている黒髪の少女、黒依。
ひょんなことから君彦や猫又と関わることになった色情霊に取り憑かれている少女、響子。
そして後で知ったことだがハルの幼なじみでもあった犬塚呂尚の孫であり、犬神を守護霊として使役している無愛想な青年、慶尚。
そう、今この場所が猫又のいる世界なのだ。ハルはもうこの世にはいない。あれは昔にあった出来事を夢で見ただけ。ところどころ断片的ではあったが、とても懐かしい記憶だった。
彼等は猫又の存在を知っている。だからこうして同じ部屋にいても平気だった。空気のように部屋の隅で寝転がって夢を見てても、誰も何も言わない。そんな日常の中で今、猫又は君彦と共に生活している。
猫又はふと彼等から視線をそらし、窓の外を見つめた。
外は雨が降っている。どんよりとした雲、裏庭にはこのアパートの大家が植えた紫陽花が咲いていた。
あの日も雨が降っていた。
猫又がまだ普通の子猫だった頃、他の仲間と一緒に捨てられた時も雨の日だった。数日間降り続いた後、いつの間にか仲間はいなくなり、気付くと目の前に幼い少女が姿を現した。
ハルと出会った日も雨だった。
そしてハルと永遠の別れをした日も、やはり雨だった。
考えてみれば出会いと別れの日は、いつも必ず雨が降っていたように思える。
猫又は苦笑した。
この雨もじきに終わるだろう。梅雨明けはもうすぐそこだ。雨が止んでもこの日常は終わらない。夢から醒めても君彦との生活は終わらない。そしてこの騒がしい連中とも長い付き合いになるだろう。
そう思うと素直に「悪くない」と思えた。
もう猫又は一人じゃない。こうして自分の存在を認識している者がこんなにもたくさんいるのだから。
(ハル、オレは幸せ者だ。この幸せは、ハルがくれたものなんだぞ。だから安心してていいからな)
猫又は愛する主人に向けて、心の中でつぶやいた。
短くなってしまってもうしわけない。
前回、前々回と長くなってしまったので分割したらこうなってしまいました。
猫又の夢、長い間ありがとうございました。
次回からは通常回へと戻ります。
よろしくお願いします。