雨の日の記憶(14)~大好きな笑顔~
その日は空がやけに暗く淀んでいた。喜助の気持ちがより一層重く沈んでいくようだった。自分の毛色と同じような灰色の雲が空を完全に覆い尽くしており、はるか上空では獣の唸り声のような音が響いてくる。
台風が近づいてきてるせいかもしれない。風は次第に激しさを増し、暗雲は一層うねっているように見えた。木々はざわめき風音が耳をかすめていく。
喜助は社殿の屋根の上から一つの部屋をじっと見つめていた。風にあおられても、しがみつくようにひたすら目を凝らす。喜助が見つめる先は雨戸でしっかり閉め切られ、中を覗うことは敵わない。それでも喜助は切実な思いで見つめ続けた。
しばらくすると雨戸が開き、中から征四郎が現れた。そばには君彦が立っている。しっかりと祖父である征四郎の手を握っていた。それから部屋の中から一人、二人と親戚が出て行く様子と、部屋の中に真っ白い布団が敷いてあり、そこにハルが横たわっているのが見て取れた。皆、声を殺すようにすすり泣いている。喜助も彼等と同じように泣きたい気分だった。
征四郎と君彦をその場に残し、親戚が全員別室に移動したことを確認すると喜助は軽やかな動作で社殿の屋根から地面へ着地した。屋根の上から何かが落ちてきたと思った君彦は大きな瞳でじっと見つめる。そしてそれが何かわかると嬉しそうな顔で指をさした。
「あー、猫さん!」
いつもなら君彦の遊び相手になってやるところだが、今はそんなことをしてる場合ではない。正直喜助にそんな心の余裕がなかった。喜助は縁側の前で足を止めると征四郎を窺い、許しを乞う。
喜助が征四郎に乞うのは初めてだった。喜助は頭を下げ、必死に食い下がった。
『頼む、ハルに会わせてくれ。これが最期、なんだろ? オレにはわかる。ハルの命の灯火が消えようとしてる。ハルにオレの姿が見えないことも声が聞こえないのも全部わかってる。オレは今までお前の言うとおりにしてきた。君彦や君彦の両親だけじゃなくハルにまで悪影響が及ばないように、ずっと距離を置いてきた。ずっと遠くから眺めるだけで我慢してきた!』
頭を下げたまま喜助は一気にまくし立てる。次第に声はかすれ、涙声になっていった。
『だからお願いだ! ハルがこの世からいなくなる前に、せめてハルのそばにいさせてくれ! ハルはオレの全てなんだ! ずっとずっと大好きな、大切なご主人様なんだよ! 最期くらいハルのそばにいさせてくれたっていいだろ?』
泣き叫ぶ喜助の懇願を聞いた征四郎は君彦の手を引いた。
「おじいちゃん、猫さん泣いてる。ぼくからもお願い。おばあちゃんに会わせてあげて?」
君彦は祖父の顔を見上げ、喜助の願いを聞き入れてくれるよう頼んでみた。
「君彦、わかってる。最初からそのつもりだよ。お前のお祖母ちゃんにとっても、この猫さんは大切な大切な猫さんなんだ。だから二人きりにさせてあげような」
それだけ言うと征四郎は喜助に視線を移し、軽く首を下げた。征四郎は最初からハルの最期を、自分の妻の最期を看取る役を他ならぬ喜助に託そうとしていたのだ。だからさきほどまでハルの部屋にいた親戚を別室に移動させ、自分もまた部屋を後にしようとしていたのだ。
「喜助、行っておあげなさい。ハルさんもきっと、それを望んでいる」
最後にそう言い残すと、征四郎は振り向くことなく君彦とその場を後にした。
喜助は征四郎に、何よりハルに悪い気がした。どうせハルに自分の姿は見えないし、声も聞こえない。それでもハルの最期を姿なき自分に任せようとしてくれたのだ。征四郎も長い間ハルと共に生きてきた、たった一人の妻であり、愛する女性だったはずだ。
自分が最期を看取りたかったに違いない。それでも喜助への義理のために、こうして譲ってくれたのだ。
喜助が征四郎に対し感謝の言葉を告げようとした時だった。
「喜助……、喜助なの……?」
か細い、弱々しい声が喜助の耳に届いた。
見ると部屋の真ん中で横たわったハルが、顔をこちらへ向けている。その瞳はうっすらとしか開かれていないが、まっすぐに喜助の姿を捉えていたのだ。今こうして喜助としっかり目が合っている。
信じられない気持ちで喜助は戸惑っていた。口をぽかんと開いたまま、あまりの衝撃にその場から動けずにいる。するとハルは震える手をこちらへ向けて、手招きするように差し出した。
「こっちへおいで喜助。あぁ……なんてことでしょう、またこうして喜助に会える日が来るなんて。きっと神様が最期に素敵なプレゼントをくださったのね」
そう言うとハルは喜助に向けて微笑んだ。満面の笑みだ。喜助が焦がれていた瞬間だった。
『……ハル!』
そう叫ぶと喜助はハルの元へすぐさま駆け出し、差し出した手に頭をこれでもかというほどこすりつけた。ハルは上半身までかぶっていた布団を退けると、今度は両手で喜助を抱きしめた。その手に込められる力は決して強くはなかったが、喜助はその腕に抱かれ、確かめるように何度も何度もハルの名前を呼んだ。
『ハル、ハル! 聞こえる? オレの声が聞こえる? 何を言ってるかわかるのか? 本当にオレのことがわかるのか?』
こうして抱かれている出来事が嘘のように、幻なのではないかと疑うほどに、喜助は信じられない思いでいっぱいでハルに確認せずにいられなかった。
「えぇ、えぇ。聞こえますとも。ちゃんと聞こえていますとも。あの喜助が私の名前を呼んでくれてる。喜助の言ってることが私にもちゃんとわかるわ。ずっとずっと喜助と話がしたかったのよ。私の子供の頃からの夢が叶って本当に嬉しい」
優しく撫でられ、喜助は思う存分その身をハルに預けた。
話したいことは山ほどあった。色々な出来事が頭の中に浮かんでは消え浮かんでは消え、ハルと体験した全ての出来事について語り尽くしたかった。だがそんな時間がハルに残されていないことはわかっている。
だからこうして全ての愛情を、全ての気持ちをハルに抱きしめられることで、名前を呼び合うことで埋めようとした。喜助とハルの「会話をしたい」という共通の願いが叶った今、短い時間の中で出来ることは限られていた。
だからこそ互いに名前を呼び合い、気持ちを伝えることが出来ただけで十分に満たされたと言ってもよかった。
「なんとなくだけどね、私には喜助がずっとそばにいるような気がしていたの。もちろん姿も声もわからなかったけど。きっと征四郎さんと君彦にはあなたのことがわかっていたのね。なんだか悔しいって思うこともあったけど、こうして最期に喜助と会えただけで私は満足だわ。これで、何の心残りもなく逝くことが出来る」
満足そうに微笑みながらハルはそう言った。
その言葉に喜助の胸が痛み出す。信じたくないが、抗いたいが、それが逃れられない現実なのだ。だからこそ今、早く気持ちを伝えないといけない。ずっとハルに言わないといけないと思っていたことが。伝えたいと思っていた言葉を。
『ハル、オレにとってハルは世界で一番のご主人様だよ。死にかけてたオレを拾って育ててくれて、愛情をたっぷり注いでくれて本当に嬉しかった。オレ、ハルのことが大好きだよ。本当に心から、一番大切で大好きなご主人様だから。ずっとこれが言いたかった。もっと早く伝えたかったオレの本当の気持ちなんだ』
ハルの顔を見つめながら喜助は気持ちを告げた。しかし涙で視界がゆがんでしまって、ハルの顔をきちんと見ることができない。こんな大事な時に涙でいっぱいになってる自分が嫌になりそうだった。
それでも喜助の言葉は、気持ちはハルにちゃんと届いていた。届けることが出来ていた。
「ありがとう、喜助。私もあなたのことが大好きよ。今まで一度だって忘れたことがなかった。あなたとの出会いがあったから、今の私があるのよね。あなたは私に幸せをくれたの。幸せを運んでくれたの。だって今こうして、心から幸せだって思えるもの。ありがとう、私がこんなおばあちゃんになってまで会いに来てくれて、本当に……ありがとう」
ハルの手からどんどん力がなくなっていくのがわかった。だからこそあの時伝えられなかった言葉を、もう一度伝えようと思った。
『ハル、笑って。オレ……、ハルの笑顔が……一番、大好きなんだ……』
喜助の言葉に、ハルはゆっくりと微笑んだ。
優しい、穏やかな微笑み。温かく包み込んでくれるような、安心させるような柔らかい笑顔。喜助が大好きだったハルの笑顔は、老女になっても決して色褪せることなく、若く美しかったあの頃と何も変わらない、無垢な少女の微笑みそのままだった。
やがて遠くからぽつぽつと雨音が聞こえてきた。
雨戸を開けっ放しにしていたせいだろう、どんどん雨音が強くなっていくのがよくわかる。その雨音の中に悲しみ嘆く泣き声が混じっていた。だんだんと温もりを失っていくハルのそばで、喜助は激しく泣き叫ぶ。
これ以上ないほどに、まるで子供のように、大声を上げて喜助は長い間ハルの傍らで泣き続けた。
猫又の話を思いついた時、この話が一番最初に浮かんでいて、当初からずっと書きたいと思っていた場面です。
よって泣きながら書いてました(笑)
まずはここまで読んでくださった読者様、ありがとうございます。