雨の日の記憶(13)~喜助の失態~
ハルと征四郎の間に一人、息子がいた。
その息子と妻との間に子供が生まれた。
男の子だった。
名前は「君彦」と名付けられた。
ハルと征四郎にとって初めての孫だ。
ハルはとても嬉しそうだった。
なんせ初めての孫だ。嬉しくないはずがない。
その笑顔は喜助に向けられたものではなかったが、それでもハルの笑顔を見ることが出来て喜助は満足していた。
ハルに自分の姿が見えないと知って絶望に打ちひしがれたが、結局喜助はハルのそばを離れられずにいる。自分の存在に気付いてもらえず、名前も呼んでくれなければ当然会話なんて出来るはずもない。
それでも喜助はいつもハルから少し離れた場所で見守っていた。ハルのそばにあまり近寄れない理由があった。征四郎によると猫又という存在は妖怪であり、その力が強ければ強いほど、たとえ霊感のない人間相手であろうと長く身近に居続けると何かしらの影響を与えかねないというのだ。
当然すぐに納得することは出来なかったが、征四郎には言い知れない恩があったのも事実だ。喜助自身は覚えてないが、猫又となり我を失っていた喜助の意識を取り戻させ、そしてハルの元へ連れ帰った。
本来ならハルに再会することも叶わなかったかもしれないことだ。口では今も憎まれ口を叩きはするが、征四郎に対する恩をこれ以上なく感じているのは事実だった。素直になれない喜助は未だに面と向かって感謝の気持ちを表したことは一度もしていないが。
とにかくハルに何かあったらいけないので、それだけは一応守るように努めていた。
ある日、まだ赤ん坊だった君彦のそばには常に誰か大人がついていた。それは猫又神社の神主である征四郎だったり、祖母であるハルだったり、専業主婦をしている君彦の母親だったり、いつも仕事で家にいることはめったにない父親でも夜や休日には君彦のそばにべったりだった。
それが今日はどうだろう。征四郎は祈祷を頼みに来た参拝客の相手で大忙し、いつもは家にいるハルと母親(みゆきだったか?)はそれぞれ家事をしながらお互い交互に君彦を見る程度。当然父親は仕事でいない。
交代で見てるはずが今日はハルもみゆきもいない。喜助は和室で寝転がっている君彦の姿がよく見えていた。
君彦のいる和室は障子が開け放され、その正面にある桜の木の枝の上からは中の様子がよく見て取れた。
どうせまだ赤ん坊だ、歩き回ることもないから何も心配はいらないだろう。そう喜助が思った矢先の出来事である。
『ん?』
縁側に何かがいる。
見るとそこには一匹の蛇がいた。神社の周囲は木々で覆われており、色んな生物がいても不思議はない。するすると廊下を這って行き、やがて君彦のいる和室へと忍び寄っていく。
『あの野郎! そいつに近寄るんじゃねぇ! にゃぎゃー!』
奇声を発しながら喜助は君彦に近寄ろうとする蛇に向かって襲いかかった。孫が傷ついたらハルが悲しむ。ただそれだけの考えだった。決して人間の子供がかわいいからとか、そういった理由ではない。喜助の頭の中はハルで埋め尽くされていた。
動物の中には幽霊や妖怪の存在を認知することができると昔誰かが言っていた。それを思い出し、こちらへ反撃してくる蛇に対し完全に戦闘態勢に入る。例え猫又という存在が人間に見えなくとも激しく動き回ればその足音などは聞こえるらしい。
しかし今はそんなことを気にしている場合ではなかった。とにかく蛇をやっつけなければ。
喜助はあっちへ飛びこっちへ飛び、蛇を牽制しながら激しく猫パンチを繰り返した。何発かが蛇に直撃し、たまらず蛇は和室から出て行った。勝利したのだ。勝ち誇る喜助。その時だ。
「猫又! お前、なんてことを!」
いきなりの怒声に喜助は萎縮した。振り向くとそこには慌てて駆けつけたであろう征四郎が血相変えてこちらを睨んでいたのだ。何をそんなに怒っているのか喜助はわからない。むしろ褒め称えるべきだろうと反論したいくらいだ。
しかしその機会もなく征四郎は今まで見たことがないくらいの形相でこちらへと歩み寄ってくる。
その迫力に喜助は更に萎縮し、二又に分かれた尻尾の二本ともが喜助の股の間に姿を隠してしまう。
喜助に怒り、おしおきされるのかと思った。だが征四郎は喜助を通り過ぎてまっすぐに君彦へと手を差し伸べた。
「何回だ?」
『は?』
「一体何回、君彦の上をまたいだ?」
質問の意味がわからず呆気に取られた喜助は、さきほどの激闘を思い出しながら数を数える。しかし戦うのに夢中でいちいち数なんて数えていなかった。だから適当に答えた。
『た、多分……六回くらい?』
征四郎の深い深いため息が漏れる。
「そんなにか……。なんてことだ」
何をそんなに嘆いているのか意味がわからない喜助はまたしても征四郎に対し苛立ちを覚えた。考えてみればいつもそうだ。征四郎は恐らく喜助よりなんでも知っているんだろう。それに対して喜助は猫又として生まれ変わってそれほど長くはない。だからわからないことはたくさんあった。
何が良くて何が悪かったのか、それを先に教えない征四郎が悪いのだ。征四郎はいつも先に教えてくれない。それなのに何もわからない喜助に向かって結果だけを突き付けるのだ。
『おい、何がなんだかこっちにはわからないことだらけなんだぞ? お前がどんだけエライか知らねぇが、一体何が起きたのかってことくらい教えてくれたっていいだろ! ていうか先に教えとけよな!』
たまらず愚痴をぶつける喜助に、征四郎はそっと振り向き、答える。その時の瞳はきっと、これから先ずっと忘れないだろう。
「猫又という妖には特殊な力があってな。霊感能力が全くない人間に対し、その力を故意に与えることが可能なんだ。その方法は猫又が霊感能力を与える人間をまたぐこと。一度またげば幽霊の類が目に見えるようになる。それだけでも十分すぎる程の力を与えることになるが、お前はまだ幼い君彦に対し六回もまたいでしまった」
それが一体どういうことなのか。
何を意味するのか。
征四郎は「過去に例はない」と言って、それ以上のことは口にしなかった。ただ言えることは、君彦は幼くして恐らく祖父である征四郎以上の能力を得てしまったのかもしれない、ということだけを喜助に告げた。
「君彦はまだ生まれて間もない。しかしこれが物心つく前から得た力で逆に幸運だったのかもしれないな。でなければそれまで何も知らず生きてきた日常の中で、いきなり死者の霊や妖怪を目にしたとなれば精神が混乱しかねない。生まれつきということにしておけば、私が常に君彦のそばにいて、その環境に慣れさせることも出来る」
そう言いながら征四郎は君彦の頭をそっと撫でる。自分の身に何が起こったのかまだ何も知らない無垢な赤ん坊の頭を。それを見つめながら喜助は言い知れない罪悪感に襲われていた。
自分のせいでこの子の平穏な日常が壊された。大切なハルの孫の人生を狂わせてしまったのかと。
ふと君彦が目を覚ました。ゆっくりと視線を動かして祖父である征四郎の顔を確認すると、安心したような笑みをこぼす。その笑みがまたハルに似てたまらない。汚れのない純粋な微笑み。その笑顔を見ているとこちらまで温かい気持ちになるような不思議な感覚。他人事のようにその様子を横で眺めていた喜助はなんとも侘びしい気持ちになった。
やはりここは自分の居場所ではないのかもしれない。今までずっとハルに対する執着心で猫又神社に居着いていたが、ここがもう限界かもしれないと思った。ここにいてもハルの家族を不幸にするだけかもしれない。現にこうして一人の赤ん坊を不幸にしてしまったのだから。
そうして喜助がその場を去ろうとした時だった。
「だー! あー!」
突然君彦が大きな声を上げたので何事だろうと振り向き、そして驚いた。
君彦の視線はまっすぐに喜助を捉え、そして物欲しそうな眼差しで両手をばたつかせているのだ。今までこれほど君彦のそばへ寄ったことがなかったせいか、こんな出来事は初めての事だった。
君彦には喜助の姿が見えている。
「言っただろう。君彦には喜助、お前の力が流れ込んだ。だからお前の姿が見えるんだ。その辺にいる生きた猫と同じようにな」
征四郎が付け加える。
しかし喜助にはその言葉が聞こえていないのか、唖然とした喜助は君彦を見つめたまま動けないでいる。なおも喜助に触りたいという欲求なのか、じたばたと手足をばたつかせ、言葉にならない声で喜助に向かって声を出す君彦の姿に胸が張り裂けそうになる。
初めて人間の赤ん坊がかわいいと思えた。しかしそれはハルの孫だから、自分の姿を見ることが出来る唯一の赤ん坊だからなのかもしれない。それでも喜助にとってこの展開は喜びに満ちあふれるほどのものだった。
喜助はゆっくりと君彦に近づき、恐る恐る二又の尻尾を目の前にちらつかせる。君彦の手がそれを捕らえるか捕らえないかの微妙な距離感で。君彦は目の前でゆらゆら揺れる尻尾を面白がるように掴もうと試みる。それでも喜助は決して捕まえられないようにした。そんな光景を征四郎は黙って見守る。
『征四郎、オレ……決めた』
君彦の前から尻尾を離し、隣に座る征四郎を見上げる。その瞳は決意に満ちていた。
『こいつのことはオレが責任を取る。オレのせいなんだ。だからこいつに何かがないように、オレがずっとこいつのことを見てる。お前だけに負わせたりしねぇから』
喜助の言葉を聞いて、征四郎は満足そうにうなずいた。その時初めて、喜助は征四郎の笑顔を見た気がした。




