9. 夢見の聖女は教会を整える
お茶会で聞いたエドアルド家の過去の話を、シルヴィアは聞かなかったことにした。
ルイスや祖母との間で特に話に挙げるようなことでもないし、過去に色々あったのは互いに同じだ。
さらにいえば、シルヴィアは予知夢を視られなくなったと偽って聖女を逃げ出してきたという秘密も抱えている。
誰しも過去を持っている、そういうことだ。
さて、シルヴィアが自転車に乗れるようになりたいと思ったのには理由があった。
丘の上の教会にまた行きたいと思っていたのだ。
丘の上の教会は徒歩で行くには時間がかかる。自転車に乗れるようになれば簡単に行けるし、帰りはあの疾走感をまた味わえるはず。
「よいしょ……、ふう、ふう」
シルヴィアは丘の下までは自転車に乗っていき、そこから自転車を押しながら坂を上がっていった。
さすがに、勢いをつけて漕ぎながら登る体力はない。息を切らしながら、なだらかな坂をゆっくり上っていき、丘の上に着いた時には汗を流していた。
「はあ、はあ……」
教会から振り返れば、町の景色が広がる。
初めて来たのは夕暮れ時でしかも曇り空だった。今は昼間。太陽の下の街は、あの時とは印象も違う。
「良い景色」
蔦の絡まる外壁に自転車を立てかけ、シルヴィアは教会の扉を開けた。
あの時と同じように、施錠されていない。
小さく隙間を開けて中に入り、後ろ手で閉めた。扉に背をもたれ、息を吐く。
カーテンは引かれているものの、外からの光で中も明るい。ステンドグラスの赤が天井から降っていて、シルヴィアはその下を通って席に着いた。
初めて入った時にも感じたが、この教会はとても落ち着く。自分が教会で育ったからだろうか。いやしかし、当の中央教会は嫌で逃げ出してきたわけだが。
「静か」
しばらく無音の中、背もたれに頭を預けて脱力していた。
だが、そのままだと眠ってしまいそうだ。シルヴィアは「よし」と体を起こして周囲を見回した。
扉は施錠されていないので誰が入り込んでもおかしくないのに、中は全く荒れていない。
誰かが定期的に手入れしているらしい。初めに来た時にも感じたが、埃が積もっているわけでもなければ、座席もきちんと拭かれている様子である。
ルイスではないだろう。彼は診療所の仕事で忙しい。それに祖母も足が悪いのでここまで来るのは大変なはず。
だとすると、アナか、街の誰かか。誰が教会内の管理をしているのか不明だが、シルヴィアの目的は教会内部ではない。
「さて、やりますか」
シルヴィアは立ち上がって教会から出た。
そして自転車の前かごに入れてきた手袋をはめ、教会の周りにぼうぼうに生えている草を引っこ抜き始めた。
シルヴィアが教会の周りを掃除することに、特別な理由があったわけではない。
この誰もいない教会がとても落ち着くので、お気に入りの場所にしたかったこと。
ただ、誰かが手入れをしているのでそれを邪魔するわけにはいけないと感じたということ。
教会の周りが整えられていないのは、教会の掃除をしている人間がおそらくそこまで手が回らないからではないかと思った。であれば、そこを掃除しようと思ったのだ。
しばらく草むしりをして、シルヴィアは引き抜いた草と手袋を前カゴに入れて帰った。
自転車で一人駆け降りる丘も、爽快だった。
♦︎
教会周りの掃除は、シルヴィアの日課の一つになった。
エドアルド家で三人で朝食を食べてから、ルイスが診療所に行くのを見て、シルヴィアも自転車で丘に行く。
午前中は草むしりしたり柵を拭いたりし、教会内で休憩して自転車で戻る。
昼食をとってからは、買い物に出たり、お昼寝したり、本を読んだり。
夕食後に風呂に入り、眠る。
たまに皆が寝静まった後にお菓子を食べに階下に降り、ルイスとお喋りする。
シルヴィアが外出しても、誰からも何も言われない。
ルイスはもちろん、アナも「どこに行ってきたんですか?」などと聞いてきたことがない。
夜、シルヴィアが自ら今日あったことを事細かに話しているためかもしれないが。
ただ、丘の上の教会に通っていることをシルヴィアはルイスにも言わなかった。
ルイスは教会に行っていないようなので、そこに勝手に通うことを多少悪いことのように思ったのだ。初日に勝手に侵入しているので、今さらかもしれないが。
そのようにシルヴィアの生活がルーチン化してきたある日のこと。
いつも通りに教会に行くと、先客がいた。
「あら」
いつも自転車を立てかけようとした場所に、すでに一台。
先客がいたのは初めてである。
シルヴィアは先客の自転車の隣に自らのものを立てかけ、わくわくしながら教会の扉を開いた。
「おはようございます!」
すると、教会の座席を拭いていた人物が顔を上げた。
驚いたような瞳と目が合う。シルヴィアは駆け寄った。
「おはようございます、私は……」
「ちっ、ここに忍び込んでたのはお前か」
思いがけぬ険のある言葉に、足を止めた。
立ち上がったのは同じくらいの年頃で少し身長の高い、男。短い赤毛に胡桃色の瞳で、髪と同じ色の眉を不機嫌そうに寄せた。
「あ、あの、中のものには手を触れていません、わたし」
「近寄るんじゃねえ」
伸ばしかけた手を引っ込める。
「お前、ルイスさんのところに来た聖女だろ。聖女は予知夢を視るって言うからな。気味が悪い」
吐き捨てられた言葉に、シルヴィアは一瞬ポカンとした。
──気味が悪い。
今の言葉を反芻する。
と、じわじわと笑いが込み上げてきた。
笑みを殺そうとしたシルヴィアをますます奇妙な目で男が見てくる。
今の反応、中央教会にいた頃はしばしば遭遇したものだ。
権力者の聖女への対応は二種類に分かれる。
一つは、聖女に自分の予知夢を視てほしいとやたらと接触してくる人物。事実、会話が多い方が予知夢の頻度は上がる。
もう一つは、自分の未来など視られたくないと、接触を拒否する人物。
人のプライベートを覗き見するようなものだ。シルヴィアにもその気持ちはよくわかった。
議会やお茶会に参加させられていたのは中央教会からの指示であり、それはスパイ行動に近い。忌避されても仕方ないと思っていた。
しかしこの町に来てから、こういった反応をとられることはほぼなかったため、目の前の男の反応が非常に新鮮に思えた。
「ふふふ」
「何笑ってんだよ、気持ち悪りぃな」
「私はもう聖女ではありませんので予知夢を視ません。ご安心を」
「信用ならねぇな」
距離を取ったまま、シルヴィアは男にキラキラした目を向けた。
「あの、お名前は? 私はシルヴィアと言います。仰るように今、ルイスさんの家でお世話になっています。あなたはこの教会を管理されている方ですよね? 教会内の掃除を?」
「……随分と口の回る聖女だな」
「恐れ入ります」
呆れたような顔をして、「アナが言ってた通りだな」と男が呟く。
「アナさん? アナさんのお知り合いですか?」
「別に答える義理ないだろ。とにかく、俺の邪魔をするんじゃねぇ。さっさと帰れ」
そう言うと、シルヴィアは男に背を押され、教会を追い出されてしまった。
ガチャリと鍵をかけられ、締め出される。
「ちょっと! まだ話が!」
扉を叩いても無反応。
むう、と腰に手を当てる。普段は施錠されていないのに、勝手に鍵をかけてしまうとは。
もしかして、本当に教会の管理を任されている人物なのだろうか。
気になったシルヴィアは帰宅してから、アナに話した。
「ああ、それはきっとヒューゴですよ」
すぐに彼の素性が分かった。
「ヒューゴさん?」
「ええ、パン屋の息子です」
「ということは、ベティさんの旦那さんですか!?」
「いえ、ベティさんの弟です」
聞けば、ベティの夫は入婿で、弟であるヒューゴはアナと同い年。ということは自分より少し下だ。
彼は家業であるパン屋の手伝いをしながらふらふらしているという。また、教会の掃除をしていることを、アナも知っていた。
「ヒューゴはルイスさんのこと大好きで、憧れてますから」
「大好き……」
ということは、エドアルド家に居候していてルイスに近い自分に嫉妬しているということだろうか。
「ヒューゴさんとアナさんはお友達なんですか?」
「幼馴染ですよ。カージブルは小さい町ですし、同い年ですからねー。あ、ヒューゴに何かされました? だったら私、文句言ってきますよ!」
「あ、いえいえ、少しお喋りしただけです」
嫌な態度を取られはしたが、別に文句を言うほどではない。それに、裏のない態度を取られることはある意味新鮮だし、分かりやすくていい。
♦︎
教会に行く時間が被らないので、ヒューゴと会うことはほぼないだろうと思っていたが、意外とすぐに再会することになった。
「おい、またか」
草むしりに熱中していたら昼近くになっており、やってきたヒューゴに声をかけられたのだ。
しゃがみ込んでいたシルヴィアが顔を上げると、また不機嫌顔のヒューゴが立っており、逆光で眩しい。
「なんで元聖女がこんな小さな教会の掃除してるんだよ? すぐいなくなるんだろ」
「その予定ですが、私はこの教会が気に入ったので、去るまでの間、ここに入り浸りたいと思っています」
「居候が勝手に入り浸るんじゃねえよ」
よいしょと腰を上げ、手の汚れをぱんぱんと叩く。
「ヒューゴさんはなぜ私をそんなに敵視しているのですか?」
「なんで名前を……、って、アナだな」
「ルイスさんに憧れているそうですが、私はルイスさんと恋仲ではありません。ヒューゴさんが気になさるようなこともないですし、邪魔をするつもりもありません。ご心配なく」
真剣に言えば、ヒューゴが目を丸くした。
そして言葉を理解し、「違えよ!!!」と叫んだ。
「なんでそういう発想になるんだよ!」
「ルイスさんを敬愛していらっしゃると聞いて」
「尊敬はしてるけど、さっきの言い方だと俺がルイスさんに恋愛感情を抱いてるみたいだろうが!」
「いえ、別にそこまでの意味では……」
「そう聞こえるだろ! ていうかそんなこと誰から聞いた!」
「アナさんです」
ヒューゴは愕然とした顔で震えた。
「……そ、それはアナもそういうふうに思ってるってことか……?」
考えて、シルヴィアは首を捻った。
アナは、ヒューゴがルイスを「大好きで尊敬している」と言っていた。恋愛感情については言及していなかったが、別にそれが恋愛感情でもそうでなくてもどちらでも良い。
いずれにせよヒューゴの敵視が嫉妬だろうと思ったので、それを否定しただけだ。なのになぜ彼はこんなに怒っているのだろう。
考えていると、焦れたヒューゴに腕を取られた。
「ええい、まだるっこしい! 掃除は中止だ! ついてこい!」
「えっ、えええ」
シルヴィアは草むしりを中断させられ、ヒューゴの後について丘を降りた。