8. 夢見の聖女は自転車の練習をする(2)
広い公園の芝生。
少し離れた場所ではルイスの祖母と猫たちが見守っている。
シャツと幅広のスラックス姿のシルヴィアは、自転車にまたがりハンドルを握った。
「行きます!」
小さく「はい」と祖母の声が耳に入った。
ペダルを踏み、反対の足で芝生を蹴って勢いよく漕ぎ出す。
しっかり前だけ見て、ふらつかないようにハンドルを強く握り、ぐらつく前にペダルを踏む。
三回、四回。
シルヴィアは足を着かず自転車を漕いだ。
「の、乗れてる……! お、おお、おばあさまー! 乗れてますー!」
顔を上げて大声を上げると、微笑んだ祖母の顔が目に入った。
嬉しくなってより足に力を入れる。もっと、勢いをつけて。もっと、もっと。
と、その途端、バランスを崩した。
「きゃあっ!!」
がっしゃんと派手な音を立て、シルヴィアは盛大に転んだ。
しかも芝生の範囲を超えてしまい、地面が土となっているところにしたたかに左半身を打ち付けてしまった。
痛い、調子に乗った。自転車に乗れたことに気分が上がって、スピードを出してしまった。
「……痛ったー」
「大丈夫かい?」
しばらくうずくまっていると、祖母と猫が心配そうに寄ってきて、自分を見下ろしていた。
よろりと体を起こす。骨が折れたということはなさそうだ。だが、左膝が痛い。
「あちゃー」
左足のスラックスを上げると、左膝を派手に擦りむいていた。皮が剥け、広く血が滲んでいる。それに、左肘も。
どうしよう、と見上げると「ルイスのところへ行っておいで」と祖母が言った。
「え、ルイスさんのところですか?」
「診療所。診てもらいな」
そういえば彼は医者だと言っていた。
大した怪我ではないとは思うが、消毒くらいはしてもらっても迷惑にはならないだろうか。
シルヴィアはよっこらせと立ち上がり、ルイスの家へ戻ることにした。
エドアルド家の庭から建物の表に出ると、診療所の入口がある。自宅部分の反対側だ。
初めて来た時には白い扉が閉まっていたが、日中は扉は開いてガラス戸になっており、患者が入りやすいようになっている。
反対側にあるエドアルド家の自宅部分で居候しているものの、診療所には入ったことがない。
シルヴィアがガラス戸越しに中を窺うと、待合室には患者が一人待っていた。
待合室からカーテンの奥が診察室のようで、カーテンの横には看護師が座っている。受付らしい。
「あのう……」
そうっと音を立てないように入ると、座っていた患者と看護師がぎょっとして腰を浮かせた。
「せ、聖女さ……、あっ、いや、どっ、どうしましたか!?」
「あのう、ちょっと怪我しまして、診て頂けますか」
「だ、大丈夫ですか!? ちょっと、先に診てもらった方が」
「いやあの、大したことないので順番通りでお願いします!」
待っていた患者が順番を譲ってくれようとしたのでそれを留め、席に着く。少し転んだだけだと言うと、看護師もほっとした様子で受付に戻った。
先に待っていた患者が呼ばれたのでそれを見送り、力を抜いてソファに体を預けた。
目をつむる。
窓が開いていて、風が入る。気持ちが良い。
消毒薬の匂い。
カーテンの奥からわずかに話し声と、カチャカチャという金属の器具の音が聴こえた。
「次の方ー」
看護師に呼ばれ、シルヴィアははっと目を開けて立ち上がった。
危ない、寝てしまうところだった。
「すみません……」
カーテンを開けて中に入ると、白衣姿で机に向かっていたルイスがこちらを見て瞠目した。
急に真剣な顔になって上から下まで探るように見てくるものだから、居たたまれなくなり慌てて患者用の丸椅子に座る。
「何かあったか」
「すみません、怪我を……」
「どうした、誰かに襲われたか」
「いえ、自転車で転びました」
「な、なんだ……」
脱力したルイスの横で、若い女性看護師がぷっと笑った。
スラックスの裾をまくり膝を出すと、服で擦れて出血が広がっていた。
濡らした脱脂綿で看護師が優しく拭い、それから消毒薬をかけられてシルヴィアは悶絶した。
「ひええぇ、しみますぅぅ」
「我慢しろ、あと腕も?」
「しみるうぅぅ」
一通り消毒され、傷口にガーゼを当てられて終いだ。
「自転車の練習もほどほどにな」
「はい……、ありがとうございました」
待合室へ戻ろうとよろよろとカーテンを開けると、待合室は人であふれんばかりになっていて、今度はシルヴィアがぎょっとした。
ついさっきまでガラガラだったではないか。
なぜか集まってるのは女性がほとんど。しかも皆が皆、興味津々の顔で自分を見てくるものだから、シルヴィアは顔を引きつらせて後ずさりした。
「ええと……」
「あの、聖……、いえ、最近先生のところに越してきた方よね?」
女性陣の中でも少し年上くらいの女性にそう問われ、反射的にシルヴィアは頷いた。
「そ、そうです」
「町で見かけるようになって気になっていたのよ。私、パン屋のベティ。これから私たちお茶会するから一緒にいかが?」
「お茶会……!」
お茶会。シルヴィアは身構えた。
中央教会で聖女であった頃、お茶会に頻繁に参加していた。
それは予知夢のためだ。予知夢の聖女は身近な人物や、会った人の予知夢を視る。
そのため、日中は様々な人たちと懇談し、会食し、情報を得た。そして夜に彼らの予知夢を視て、情報を中央教会に共有されていたのだ。
つまりシルヴィアにとって、お茶会とは予知夢を視るための事前情報収集の場である。
「えっと……」
逡巡したシルヴィアに、ベティと名乗った女性はからりと笑った。
「なにも取って食ったりしないわよ! どうせその怪我じゃもう自転車の練習も出来ないでしょう?」
「え、ええ」
「じゃあいらっしゃい!」
自宅にいる祖母とアナに断りを入れてから、女性たちに囲まれてあれよあれよと連れて行かれたのはパン屋の隣にある集会所だった。
石造りの塀で外から見えないようになっているが、蔦の絡まったアーチをくぐると芝生が広がっていて、庭のようになっている。
長方形の白い簡易テーブルが一つ。それから同じ色の椅子が点在していた。奥には塀と同じ石造りの小さな建物が建っている。
「私たち、歳の近い仲間で月に二回ここで『お茶会』をしてるの」
ベティが言うには、集まっているのはカージブルに暮らす二十代から四十代くらいまでの女性。
大半は既婚者で、家で作ったものを持ち寄って集まり、ここでお喋りしているという。
シルヴィアの知っているお茶会では給仕してくれるメイドがおり、出されるのは小さな焼き菓子やケーキなどであったが、ここでは少し印象が違った。
白いテーブルの上に並べられているのは、魚介のたくさん入ったパスタやパエリア。
それからボウルに山のように盛られたサラダだったり、様々な種類の焼き立てのパンだったり。
お茶会というよりはさながらランチパーティのようだ。
ちょうど時間も昼時。自転車の練習後のシルヴィアの腹は料理を前にし、ぐぅと鳴った。
「聖女さま、お名前を教えてもらえます?」
「シルヴィアです」
もはや互いに聖女であることに気付いていたことも気付かれていたこともさらりと流す。シルヴィアは参加者に紹介され、お茶会という名のランチパーティが始まった。
ベティがパン屋の女将であるように、皆、町で働く女性のようだ。互いに持ち寄った料理を勧め合う。
「シルヴィアさん、これうちで漬けたカブ。食べてちょうだい」
「飲み物もう少し冷やしておくわね」
「ねえ、そっちの取り皿取ってー」
「これ上手に焼けたのよお、食べて食べて」
自分の知っているお茶会とは少し違う。
勧められるままに料理を口に運び、シルヴィアは周りの会話に耳を傾けた。
主な話題はどうやら家族と、町のことである。
「うちの人が急に腰痛めちゃって、仕事にならないったら」
「お祭りの準備進んでる?」
「先週うちの子がお邪魔しちゃってごめんなさいね」
「ああ、今日の夕飯どうしようかしら」
話を聞くに、パン屋の女将であるベティには子どもが二人。その隣で椅子に腰掛ける青果店の妻は妊娠中。
宿屋の女将は姑の愚痴を語り、夫が腰を痛めて忙しいと自身も腰を叩く陶芸工の妻。
話題が生活に直結している。
シルヴィアは食べる手を止めずも、興味深く会話に聞き入った。
聖女であった頃、お茶会で同席していたのは貴族子女が主であった。
文化や教養、芸術といった話題が中心で、思惑を探り合い、家の力を暗に誇示して互いに牽制しあっていた。
予知夢を視るシルヴィアのことを警戒していたことに加え、個人的な話が醜聞に繋がることを避けていたようにも思える。
つまりシルヴィアは夢の中で貴族子女たちのプライベートを見ていたわけだが、表では彼女たちのことはよく知らなかったのだ。
だが、ここにいる人たちは随分と違う。
表向きは聖女の力を失っているので警戒されていないという点もあるだろう。しかしあまりにもあけすけに話すので、夢を視ずとも個人情報ダダ漏れだ。
「シルヴィアさん、先生って家でどんな感じ?」
興味深く話を聞いていたシルヴィアだが、急に話を振られてパスタを巻いていた手を止めた。
どんな感じ? 一瞬考えて、答える。
「とても親切です」
「あー、そうよねぇ」
「それからお料理が上手で自転車にも乗れるのがすごいです」
「料理も出来るの? アナが家政婦として行ってるわよね?」
「はい、普段はアナさんが作ってくださってますが」
「へえー」
すると一番の年長者の女性が、「先生にうちの娘どうかと思ったんだけどねえ」とため息混じりに言った。
シルヴィアは目を輝かせた。
「それは縁談という意味ですね!?」
「そうそう、でも先生は結婚しない主義だから」
「まあ」
そういえば、夜におしゃべりした時にもそんなことを言っていた。
この国では司祭でも婚姻は可能だ。むしろ教会を家で繋ぐために子を持つことが望まれる。
しかしながら、いま教会が機能していないこと、司祭であるはずのルイスの父親が不在であることからも、何か事情があるのだろう。
すると隣にいた若い女性が、内緒話をするようにシルヴィアに顔を近づけた。
「先生の未婚主義はね、お母様のせいよ。先生の母親はね、よそに男を作って出て行っちゃったの」
「えっ!」
「司祭の妻が不倫して家出て行ったなんて、教会としては面目立たないっていうか、縁起悪いでしょ。だからあそこで儀式挙げる人たちが激減して、父親も出稼ぎに行っちゃったってわけ」
返す言葉を失っていると、ベティが「やめなさい」とピシャリと言った。
「先生の家の事情はシルヴィアさんには関係ないことでしょう」
「あっ、はい。ごめんなさい」
その話は終わり、すぐに話題は変わった。
シルヴィアは今の話を考えながら、食事の手を再開した。
先ほど疑問に思っていた、『エドアルド家の事情』が理解できた。
司祭の醜聞に、世の中は厳しい。
清く正しい司祭がそれにそぐわぬ行動を取ったり、あるいは聖職者らしからぬトラブルに巻き込まれたりすることがあれば、非難に晒される。
たとえそれが個人的なことであっても。
ルイスの母は家を出ていったという。
司祭の妻が不倫の上、出奔したということは大変な噂になったであろう。特にこのように小さな町では。
そしてそれが仮に母親の責であっても、醜聞の的になるのは残された者たちだ。
出ていった母と、司祭を辞めて出稼ぎに出ている父。
祖母と二人、町に残るルイス。
ルイスは町の人々に慕われている。
しかしここまで来るのに、どれほどの心労が彼にかかっていたのだろう。針の筵の中、耐えてきたのだろうか。
聖女の勤めを途中で放棄し、中央教会から逃げ出してきたシルヴィアは、その強さを少し眩しく思った。