26. 夢見の聖女は幸せになる
「グラス残ってたんだな、ごめん」
「い、いえ、いいんです、このくらいやります」
袖を捲ったルイスが左隣に立ち、シルヴィアが洗ったグラスを流していく。
「…………」
水の音とカチャカチャという食器の音のみが耳の奥でやけに響く。
どうしよう。何を話せばいいんだろう。
今夜はたくさん来客があり、二人で話す機会はなかった。
自分は他の人たちに囲まれていたし、ルイスは黙々と食事していた。
ありがとうございましたとお礼を言うべき?
いや、それは明日出て行く時にも言うだろうし、堅苦しいだろうか。
ルイスと祖母だけプレゼントをくれなかったことを冗談っぽく「何かくださいよー」となじるべきだろうか。いや、でも。
これまで散々夜食に付き合わせ、べらべらと話していたというのに、いま、何を話せばいいのか分からない。
だって、きっともう、今夜が本当に最後。
もう二度と、この人と会うことはない。
シルヴィアは左隣を見上げた。
「好きです」
自然と口から出た。
言葉にして、これは言うつもりなかったのにという気持ちと、いややはり伝えたかったのだという気持ちがないまぜになった。
ルイスが目を見張って固まってしまい、シルヴィアも言葉が続かない。
それから見つめ合って数秒後、ルイスが言った。
「俺も」
──お、俺も!?
それはどういう意味で!?
シルヴィアは動揺し、瞬きしながらルイスを凝視した。
当の本人といえば、話は終わったとばかりに洗い物に戻ってしまっている。
どういうことなのだ。本当にこの人は言葉が少ないし気持ちが分かりづらくて困る。
気持ちが昂って発言した一言ではあるが、非常に重要なことを伝えたというのに。
「え……と……」
シルヴィアも目を逸らす。
混乱する一方で、こういう人だよなぁとも思った。
いつも落ち着いていて、凪いでいるような人。
言葉が少なくて、辛いことがあっても自分で呑み込んでしまう人。
人のことを想って、行動できる人。
あ、と気付いた。
だからかもしれない。今の「俺も」というのはこちらの気持ちを慮っての返事かも。
きっと彼と自分の気持ちは違う。
一緒に暮らしている間、過ごしている時間は穏やかだったので、嫌われてはいないと思う。
けれど、それは身近にいて不快ではないという類で、自分のような恋愛感情ではないだろう。
いいではないか。好きな人に嫌われてはいないのだ。
ありがたいことだ。
シルヴィアも洗い物を再開し、努めて明るい声を出した。
「わあ、よかったです! 私、ルイスさんに鬱陶しがられてたんじゃないかと思ってたんですよ、よかったー、嫌われてなくて……、あれ」
言いながら、涙が出てきた。
「あれ、すみません、なんで」
涙を止められない。
両手が濡れていてどうにもならず、袖口で拭こうとしたがうまくいかない。
どうしよう、全然無理である。
涙があふれて止められない。
「ふっ、うっ、ルイスさんごめんなさい」
「シルヴィア」
「ごめんなさい、私……、ルイスさんのことをすごく好きになってしまったんです」
「…………」
「ルイスさんの気持ちとは違う。あなたに恋をしてしまったんです」
しゃくり上げながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
取り繕おうと思ったのに、結局それも出来なかった。
情けない。嘘泣きが得意技だというのに、出てくる涙は止めることができないなんて。
すると、涙を懸命に拭いていた手を取られた。
びしょびしょの顔を上げると、微笑んだルイスと目が合った。
「……俺もだよ、同じだ」
「え……」
「俺は両親がうまくいかなかったから、きっと誰かと一緒になるなんて思ってなかった。でも、シルヴィアが来てくれて毎日楽しくて、それが普通になってて」
手を取られたまま。
ルイスが続ける。
「いなくなるときも、シルヴィアが自由で幸せだったらそれでいいって思ってたんだ。でも実際、すごく寂しくてつまらなくて、だから」
「ルイスさん」
優しい声。
「だから、もしもシルヴィアがここにいてもいいと言ってくれるなら、俺と家族になろう」
目を思い切りぎゅうとつむって、開く。
夢じゃない。
大好きな人が、家族になろうと言ってくれた。
手を握られたままなので涙も拭けないし、言葉にならない。
嬉しい。
繋がった手の熱さから、気持ちが伝わってほしい。
シルヴィアはこくこくと頷いて、少し落ち着いてから口を開いた。
「なります、よろしくお願いします」
「よかった」
それから大変厚かましいと自覚しながらも、上目遣いで言った。
「あの……、抱きついてもいいですか。手がびしょびしょですが」
「どうぞ、背中で拭けば」
そうっとルイスの背中に手を回して遠慮なく服で手を拭いてやると、頭上でルイスが笑ったのがわかった。
自分の背にも彼の手が触れている。
胸に頭をもたれ、耳をつけると少し速い鼓動が聴こえた。
本当にこの人に好かれているんだ、とシルヴィアは目を閉じた。
「そんなの、全然分かりませんでした……」
「俺とばあさんだけ、餞別を用意してなかっただろ。どうやって引き止めようかと悩んでたんだ」
「本当ですか? ルイスさん、私のこと好きなんですか? 夢じゃなく?」
「夢見の聖女は現実を疑うのか?」
からかうような声のルイスが身動ぎし、シルヴィアの背中に回っていた手が怪しい動きをしだした。
くすぐるように背を撫で、指が腰の線をなぞる。
びくりと震えたシルヴィアの体を逃さぬように反対の手の力が強くなった。
さらにルイスが耳に唇を落とそうとしてきたのに気付く。
「あわわわわわあぁぁ、何を!!」
悲鳴を上げたシルヴィアは、慌ててルイスの腕の中から逃げ出した。
今のは、明らかに親愛の域を超えた接触であった。
以前、夢に出てきた場面が鮮やかに脳裏によみがえる。あれは予知夢ではないと思ったのに。
混乱するシルヴィアを尻目に、ルイスがしれっと言った。
「前に、エロいことしてみたいって言ってたから」
「今じゃない! 今じゃない!」
顔を真っ赤にして距離を取ったシルヴィアに、ルイスが声を上げて笑った。
♦
盛大にお別れパーティを開いてもらったのに、シルヴィアは町を出て行くことなくエドアルド家に留まり、そしてルイスと婚姻を結んだ。家族になったのだ。
アナやヒューゴを含む町の人たちは、この結末を呆れたように笑った。だが、皆総じて祝福してくれた。
シルヴィアは少し恥ずかしかったものの、幸せな気持ちだった。
故郷の家族にも連絡し、好きな人と結婚することにしたこと、いずれ顔を見せると伝えると、祝いの言葉が届いた。
それから、やはり妹の産んだ子は女児だったようだ。
また、シルヴィアは丘の上の教会で司祭になることになった。
アナとヒューゴの結婚式をきっかけに、教会での式典の依頼が少しずつ増えてきたのだという。
しかしながらルイスは診療所の方の仕事があるので両立は難しい。そこを、シルヴィアがやってくれないかと提案を受けたのだ。
この国では基本的に司祭は男性のみ。
シルヴィアは女性である自分が司祭をすることに対して「いいんですか?」と訊いた。しかしルイスからは「なにか問題ある?」と逆に聞き返された。
考えたが、特に問題はない。
予知夢の力を騙っていた元聖女が司祭をやっているということで忌避されることもあるかもしれないが、教会の現在の家主であるルイスが問題ないというのであればいい。
それに司祭として申請すべき中央教会だって一連の出来事で混乱しており、立て直しに時間がかかりそうだ。
別に小さな教会の司祭を元聖女がやっていたって、気に留める余裕はないだろう。
さて、エドアルド家の三名、ルイス、ルイスの祖母、それからシルヴィアは丘の上の教会にいた。
主祭壇に立つのはルイスの祖母。
その前には真っ白のワンピース姿のシルヴィアと、シルバーのフロックコートを着たルイス。
三人は、家族だけでひっそりと結婚式を挙げることにしたのだ。
「ふふふ、えっへへ」
「え、なに」
「いえ、素敵だなあと思って」
今日ルイスが着ているフロックコートはシルヴィアが選んだものだ。
いつだったか、「おめかしの機会があったら私がコーディネートしますね!」と言ったのを実行したのである。
ルイスの黒髪と、光沢が弱めで落ち着いた色合いの上着がよく似合っている。
「うっふふ、お洋服を選べてよかったです」
「ドクロの眼帯を着けろと勧められるんじゃないかと思ったけどそうならなくてよかった」
「しませんよ!」
喋っている二人に対し、主祭壇の向こうに立つルイスの祖母が、眼鏡片手に聖教書に顔を近付ける。
「ええと…………、ちょっとお待ち、字が小さくて」
「おばあさま、大体でいいですよ、大体で」
「適当だなあ」
この教会の司祭はシルヴィアになったが、さすがに自分の結婚式の司祭をするわけにはいかない。
代役はルイスの祖母である。
とはいえ祖母に司祭の経験は無いため、進行は難航していた。
「うーん、やっぱり長いから自分たちでお読みよ」
「分かりました」
「読むんだ……」
シルヴィアは主祭壇に置かれた聖教書も見ずに、ルイスの両手を取って彼の目を見つめた。
「こほん、ルイスさん。あなたは新婦と共に互いを尊重し、互いの必要性を理解し、幸せな時も、困難な時も、愛と安らぎを持続させるよう努力し、慈しみ、貞節を守ることをここに誓いますか?」
「はい、誓います」
「私も誓います!」
にっこりと微笑む。
通常はこの言葉の後、誓いのキスを交わす。
優しい瞳で見つめられ、この人に恋してよかったとシルヴィアは思った。
恋愛は想像していたような美しい気持ちだけとは違って、苦しくなることもあれば、自分の醜い部分を見ることもあった。
けれど、人を大切にし、されることが尊いことだと知った。
繋いだ両手を引かれ、ルイスが近付く。
シルヴィアはそっと目を閉じ、わくわくとその時を待った。
──が、重大なことに気付いた。
「そういえば、誓いのキスって二回目じゃないですか!?」
ルイスがぴたりと止まった。
シルヴィアの言葉に、祖母が疑いの眼差しをルイスに向ける。
「違う、何もしてない。むしろ俺が襲われた側」
「あっ、そうです。ごめんなさい」
確かに今の発言だと、婚姻前に過度な接触をしているように聞こえてしまう。しかしながらそうではない。
初めて出会った時、この教会でうたた寝していたところをルイスに起こされ、寝ぼけて彼の唇を奪ってしまったのだ。
確かにキスは二回目であるが、あれは誓いの意味合いではなかった。事故に近い。
だが、せっかくの初めてのキスが今ではないというのは残念なところだ。
「あー、なんか残念です。自分のせいだというのに」
「ま、いいじゃないか。そんなこと言われるまで忘れてたし」
「忘れないで下さいよ」
「だってなんか色々あったから……」
「二人、するならするで早くおしよ」
「はい! すみません、します!!」
祖母に促され、二人は誓いのキスを交わした。
《 おしまい 》




