更け待ち月(ふけまちづき)
御門野が平安時代に旅立って一週間が過ぎた。
学校では、御門野は転校したことになっていた。
陽はいまだに京都の大学に行くことに反対している。この一週間、蒼海と話そうとはせず、会っても目をそらして避けていく、ろくに口もきいてもくれなかった。そうすることで蒼海が折れると思ったのだろうか。陽の態度に戸惑いつつも、決めたことだからと、蒼海も譲らなかったので、家の中がギクシャクしていた。
衣都もそう感じたのだろう。夕食の後片付けを手伝った後、
「もう!最低!家の空気悪くない!」と少し切れ気味に叫んだ。
居間で義父と談笑していた蒼海は驚いて衣都を見た。
衣都の言いたいことは分る。蒼海は申し訳ない気持ちになるが、譲れないものは譲れないのでどうしようもなかった。
蒼海は義父に断りを入れて、衣都に近づくと台所の陽に聞こえない様に小声で謝った。
「衣都、もう少ししたら母さんも諦めて落ち着くと思うから、それまで我慢して欲しい」
「まあ、お兄様がそう仰るなら、もう少しだけ我慢いたしますわ」
衣都はツンと鼻を上げて蒼海を睨んだ後、二階に上がって行った。
蒼海が義父を見ると、仕方ないと言うふうに首を竦めて苦笑いを浮かべていた。
義父は、蒼海が志望している大学に友人がいることもあって、京都行きには反対していなかった。
台所から陽が出て来たので、蒼海は勉強しますと言って、二階の自室に戻る事にした。
階段を上がったところに、衣都が立っていた。
怒っている様に感じたので、さっきの話しに納得してくれなかったのだろうかと蒼海は思った。
「お兄様」
下にいる両親に聞こえない様に気を遣っているのだろう、小声で話しかけてくる。
「なに・・・」蒼海が口を開くのを途中で遮って、
「私はお兄様が京都に行っても別に構わないのですけど、お母様とはきちんと話しをつけて下さいね」
言われなくても分っていたが、陽が逃げているのでどうしようもなかった。
「衣都が気分を悪くするのは分る。ホントにごめん」
蒼海が謝ると、仕方有りませんねと頷いた。
話しはこれで終りと思って部屋に行こうとする蒼海を呼び止めて、衣都は急に真顔になって、さっきよりももっと小声になった。
「ところで、お兄様、最近まひると会いました?」
衣都の口から突然まひるの名前が出たので驚いた。
「まひるちゃん?」驚いたせいか少し声が大きくなった。慌てて声を潜めて「まひるちゃんがどうしたの?」
まひるとはあの日以来会っていない。
蒼海の声が大きくなったのを聞いて衣都も慌てた。
「立ち話も何ですから、お兄様、ちょっとお入りになって」
聞かれたくない話なのか、下の様子を警戒して、衣都は自室に蒼海を誘った。蒼海は促されるまま部屋に入った。
「で、まひるちゃんがどうかしたの」
衣都がドアを閉めるのを待って尋ねた。
「どうかしたというわけではないのですけれど、最近様子がおかしいのですわ。だから、お兄様が京都に行くことを話されたのかと思って・・・」
「僕はあさひちゃんを見送った日から会っていないよ」
「そうですの?てっきりお兄様が京都に行く話しをされて、それが寂しいのかと思ってましたわ」
「僕が京都に行ったら、まひるちゃんが寂しいってどういうこと?」
「だって、お兄様の話をすると、彼女真っ赤な顔をするんですもの。てっきりお兄様が好きなのかなと思っていました」
衣都は知らないけれど、あさひの悪戯とはいえキスをしたことは、まひるにとっては蒼海以上に衝撃的な出来事だったに違いない。あれからまだ一週間しか経っていない、蒼海の名前を聞いて赤くなるのは、まだショックから抜け切れていないのだと蒼海は思った。
「それは、僕を好きと言うことではないと思うけれど・・・」
「そうですの?だとしたら、どうしたのでしょう?」
「衣都が気になるって、どんな感じなの?」
「最近一人になりたがるし、一人になったらずっと何か考え込んでいるので、心配になって声を掛けると、何でもない風に装って元気な振りをするのですわ」
「元気な振りをする?」
「ええ、でも、ちょっと目を離すと、眉間のこの辺に皺を寄せて、じーっと何か真剣に考えているのですわ」
衣都は自分の眉の間に指を当てた。
「あさひちゃんがいなくなって、寂しいんじゃないの?」
蒼海は差し障りのない事を聞いてみた。
「私たちも初めはそう思いましたわ」
「私たち?」
「私とあのお馬鹿篤ですわ」
蒼海はまひるの友達の篤を思い出した。感じの良い少年だったと思うけれど、かわいそうに、幼稚園以来、衣都にとって篤はお馬鹿キャラになってしまっているらしい。
「で、あさひちゃんの事ではなかったの?」
「それが分らないのですわ。だから、あさひお姉様がいなくなって、お兄様も京都に行くと聞いたのが原因かと思って、お兄様に尋ねたのです」
「まひるちゃんとは会っていないから、僕の事ではないと思う。それより衣都、どうして僕がまひるちゃんと会っていると思ったの?」
「だって、さっきもお話しした様に、お兄様の名前を聞いたときのまひるの反応を見たからですわ。それにヒロインにはいつも騎士様が付いていますもの」
「ヒロイン?騎士様?」
「そう、まひるはヒロインですわ。お兄様は騎士様、私にとって騎士様は攻略対象ではないので、ヒロインと親しくしても、邪魔は致しませんのよ。だから、尋ねてみただけですわ。まひるに会っていないのならそうではなかったと思うだけですわ」
衣都は少し前までは漫画やアニメだったのが、最近は乙女ゲームにはまっているらしい。
蒼海のクラスにも衣都みたいな女子がいる。ゲームの登場人物に自分を投影しているようで、現実とゲームを混同して見ている気がする。部屋中のポスターといい、蒼海には理解できない世界だ。大丈夫か衣都、と思いながらも、衣都らしいと言えば衣都らしいので黙って見ていた。
衣都はドアを開けて蒼海に出て行く様に促した。
蒼海は促されるまま部屋を出て、自分の部屋に戻った。
机に向かったが、勉強する気も起きず、ぼんやりとまひるのことを考えた。
眉間に皺を寄せてまで考える事といったら、結構深刻な問題ではないのだろうか。もしかして女の子になった事を悩んでいるかも知れないと思った。
朔からまひるの話し相手になって欲しいと、まひるが男の子だった時の記憶を残されたことを考えると、話しを聞けるのは自分だけかも知れないと思った。
しかし、高等部の蒼海が中等部のまひるに会いに行くのもおかしい気がする。家に行ってもいいけれど、小夜さんに内緒の事で悩んでいるならそれも出来ない。
蒼海自身も、放課後は塾で忙しくしているので、まひると会う機会を作るのは難しかった。
どうしたらまひるの悩みを聞いてあげられるだろうと考えていたが、解決策が見つからないまま数日が過ぎた。
蒼海は夜道を足早に歩いていた。塾が長引いてしまい、帰りが遅くなったので急いでいた。
公園の側を通り過ぎようとしたて、ふと、既視感を覚えた。ブランコに座っている人影が視界に入った。御門野が戻ってくるにはまだ早い。蒼海は立ち止まってその人影を見た。
ほの暗い街灯に浮かんで見えたのは、ブランコに乗っているまひるだった。
時間は10時を過ぎている。こんな時間にどうして一人で公園にいるんだ・・・と蒼海は思った。
まひるは下を向いて考え事に集中している様だった。眉間の皺までは見えないけれど、衣都の言っていたまひるはこれか・・・と思った。
蒼海が近づいても気付かなかった。
「まひるちゃん」
声を掛けると、まひるはビックっとしてゆっくり顔を上げた。
蒼海だと分ると安心した様に、「蒼海さん」と言った。
「こんな時間に、何をしているの?」
まひるは黙って俯いた。
「小夜さんと喧嘩でもしたの?」
「違う・・・」
まひるは首を振ったが、そのまま黙ってしまった。
「こんな時間に一人でいるのは危ないよ。送っていくから帰ろう」と蒼海が言うと、
「今、何時ですか?」と聞かれた。
「10時過ぎだよ」
「10時過ぎ・・・もうそんな時間・・・」
時間を聞いても、俯いたまま立ち上がろうとしなかった。
「何があったの?僕で良ければ話してくれない?」
蒼海はまひるの横のブランコの座った。
「・・・」
「まひるちゃんは、女の子になったことで悩んでいるの?」
蒼海の質問にまひるは驚いた目で蒼海を見た。
「蒼海さんは、僕が男の子だった事を覚えているの?」
「覚えている。朔さんが君の話し相手になれるようにと、僕の記憶は変えなかったと言っていた」
「そうなんだ。僕とお母さんにだけ記憶が残っていると思っていました」
「僕で良ければ聞くよ」
「ありがとう、蒼海さん。でも、僕の悩みは違うんです・・・」
まひるは話しても良いか迷っている様だった。
蒼海は黙って待っていた。
「僕は誰の子どもなんだろう?」
まひるの口からこぼれた言葉は、蒼海が思っていたこととは違っていた。その言葉に驚きながら、蒼海は尋ねた。
「どういうこと?まひるちゃんは蒼空と小夜さんの子どもだろう?」
「僕もそう思っていました。でも、先日、お母さんが留守の時にチャイムがなったので、出ようと二階から下りたところで、お母さんが帰って来て、玄関前でお客さんと出会ったみたいでした。僕は階段の途中に立ち止まって、聞くつもりはなかったのに聞こえたんです。訪ねて来た人は、弁護士と名乗っていました。その人はお母さんに向かって、突然僕の父親は誰かと聞いたのです。お母さんはその人に向かって、帰って下さいと叫ぶと、真っ青な顔で玄関に入ってきて、お客さんを中には入れずに扉を閉めてしまいました。僕は慌てて階段を上りました。お母さんは僕がいたことも気付かないくらい慌てていた様でした」
「それで、小夜さんには確かめたの?」
「少しして、お母さんが落ち着いた頃を見計らって、下りていきました。お母さんはお父さんの仏壇の前で泣いていたようでした。僕に気が付くと、慌てた様に台所に立とうとしたので、僕はお母さんを引き止めて、なぜ弁護士の人があんなことを言ったのか尋ねました。でも、お母さんは黙って俯いたまま話してくれませんでした。僕はお母さんを悲しませたくないので、話したくないのなら聞かないと言いました。お母さんは僕を抱きしめて、まひるはお父さんとお母さんの子よ。他の誰の子でも無いわと言ってくれました。僕はそれを信じたい・・・」
まひるは唇を噛んで俯いた。
小夜が話を避けているようにもとれる。そう考えると、まひるは蒼空の子どもではないのかも知れないと蒼海は思ったが、それをまひるには伝えなかった。
「今日、学校の帰りに、門の横に車が停まっていました。先日の弁護士さんと思われる人が、家のチャイムを押しているところでした。僕は会わない様に、そのまま回れ右をして、その弁護士さんが帰るまで時間を潰すことにしました」
まひるはブルッと肩を震わせた。
「僕は誰の子なんでしょう」
再び問いかける声は今にも泣きそうだった。
蒼海は何も言えなかった。隣に座って、ただ話しを聞くことしか出来なかった。
「僕が見た美月さんの記憶の中に、お母さんがウェディングドレスを着て嬉しそうに微笑む姿がありました。親の出席しない友人だけのすごく簡素な結婚式でした。そして、美月さんはお母さんからの電話で、新婚旅行から帰って来たと聞いて、待ち合わせの店に出掛けて行ったのです。その店で蒼空と会って、指輪を投げつけて外に飛び出したところまで覚えているのです」
まひるが話したことは蒼海の記憶にもあった。
それは今でも忘れられない記憶だった。
ずいぶん昔の蒼海がまだ幼かった頃、結婚した誰かに会うからと父に連れられて何処かに行った。僕は出掛けるのが嬉しくてはしゃいでいた。
そこには男の人と女の人がいて、男の人は僕と遊んでくれた様な気がする。でも、女の人が急に何かを父に投げつけて、店を飛び出して行った。僕がビックリして見ていると、女の人の後を男の人が追いかけて出て行った。そしたら外から大きな自動車のクラックションとブレーキの軋む音が聞こえてきた。
父は慌てて僕をそこに置いて店を飛び出した。僕は置いていかれるのが恐くて父の後を追った。そこで見たのは、飛び出して行った女の人と、男の人が倒れている姿だった。
父は呆然としている様だったが、僕の姿を見つけると、手で僕の目を塞いで周りが見えない様にした。その時の救急車のサイレンと、父の手が震えていたのを今でもはっきり覚えている。父はそれから程なくして母と離婚した。
「その結婚式の小夜さんの相手は誰だかわかる?」
まひるがこくんと頷いた。
「美月さんのお兄さん」
あれは確か七夕の日だった。
「七月七日」蒼海は無意識に呟いていた。
「そう、七月七日、美月さんの誕生日」とまひるが答えた。
蒼海は困惑する頭を振り、うかつな事を言ってまひるを傷つけたくなかった。
それで、夜も遅いので、小夜も心配していると思い、帰る様に勧めることにした。
「まひるちゃん。この件は僕も調べてみるから、今日はもう帰った方が良いよ」
「調べるって、どうするの?お母さんに聞くの?」
まひるの目がそれはダメだと言っていた。
蒼海は思わず「父さんの戸籍を調べてみる」と言った。
「戸籍?」
「ああ、そうしたら何か分るかも知れない」
蒼海自身も戸籍を調べて分るかどうかなんて予想できなかった。でも、まひるの不安を和らげるのに役に立つので有ればと思った。
「それでは僕の父親を調べる事は、蒼海さんにお願いしてもいいですか」
まひるは素直に蒼海の意見に従う事にした。
まひるは不思議だった。一人で悶々と悩んでいたことが、蒼海に話して少し気持ちが楽になった気がした。もし、戸籍を調べて父親の事が分っても、蒼海がいてくれると思うと、さっきまで感じていた不安は消えていた。
「まひるちゃん、携帯番号教えるから、何か有ったら僕に連絡して」
蒼海が携帯を出して言った。
まひるも携帯を鞄から出して、「あっ」と呟いた。携帯には小夜から電話とメールが何件も入っていた。
「まひるちゃんが学校から帰ってこないから、小夜さん心配して、こんなに連絡入れていたんだね」
蒼海が早く連絡する様に促したので、まひるは小夜に電話を掛けた。そして、蒼海と一緒にいるから心配しないで、もう帰りますと言った。
小夜に連絡をした後、二人は携帯番号とメールアドレスを交換した。
蒼海がまひるを家まで送っていくと、小夜が玄関前に立って待っていた。
蒼海と一緒に元気になって帰って来たまひるを見て、小夜はホッとした顔をした。
蒼海はまひるを送った後家に帰った。
自分の部屋に落ち着くと、まひるの話しを思い出した。
あの時は驚きが先で気付かなかったけれど、一人になると動揺している自分に気が付いた。
兄妹と思っていたまひるが蒼空の子じゃないかもしれない。
兄妹でなければ思い続けても良いんだろうか・・・その思いが胸の中に広がる。
ふと、窓の外に目を向けると遅い月が出ていた。