1-4:帰る場所
その日は食事抜きだった。どうやら殴ったくらいでは監督の怒りは収まらなかったらしい。建物の作りや食事の質はずさんなのに、罰を与えることに関しては熱心なのはなぜなのだろう。
俺は周りの人たちに食事が配られるのをぼんやりと眺めていた。
手持無沙汰で、何気なく横目で隣を見た。例の少女は受け取ったパンを手に持ったまま、それをじっと見ていた。食べようとする気配はない。他の人たちは貰ったらすぐに食べ始めているのに。
「………………」
俺はなんとなくその意図を察して、もう眠ってしまうことにした。腕を枕にして仰向けになり、目を閉じた。
しばらくして食事も終わり、明かりは消された。
俺は少しだけ目を開けた。目を閉じていたから暗闇には慣れている。
屋根と壁の隙間から月明りが照らす宿舎。
消灯してしばらく時間が経ち、他の奴隷たちが寝静まった頃になって、隣の少女が起き上がるのが見えた。そして彼女は手探りで俺の体を探り当てると、きゅっと握った。
おもむろに顔が近付けられた。
「……ねぇ、起きてるんでしょ?」
「…………何か用か」
囁き声に思わず顔を背けながら、俺は答えた。
「お昼のこと、ちゃんとお礼を言えてなかったから」
彼女は言った。
「助けてくれてありがとう。……でも、どうして助けてくれたの?それが分からなくて……」
「別に、理由なんてない」
「そんなわけない。だって、理由もなしに自分が痛い思いをするなんて、そんなこと普通はできない」
「じゃあ、俺が普通じゃないってことだ」
「………………」
不満げな吐息が聞こえた。
「……あ、そうだ、これ――」
そう言って差し出されたのは夕食のパンだった。
「食べてないでしょ。食べてよ。今日のお礼。こんなんじゃ足りないけど、とりあえず」
「いらない。礼が欲しくて助けたわけじゃない。お前が食え」
「なら、なんのため?」
「………………」
「受け取ってよ。だって、他に返せるようなものなんてないんだよ」
「礼はいらないって言っただろ」
「私が納得できないの!いいから――」
それから俺たちはしばらくひそひそ声で格闘していた。幸い周りの奴隷たちは深い眠りについてしまったようで気付かれることはなかった。
結局、最終的に俺が折れた。
「――ただし、半分だ。それ以上は受け取らない」
しかし、受け取ったパンは明らかに半分よりも大きかった。
しかも、証拠隠滅のつもりか、彼女はささっと一口で頬張ってしまった。
俺は突っ込む前に思わずふっと笑ってしまった。
……久しぶりに笑った。本当に、久しぶりに。最後に笑ったのはいつだっただろうか――。
「……いただきます」
俺は少しずつパンを噛みしめた。いつもと同じパンだ。固く、パサついていて、味気ない。量だっていつもより少ない。
そのはずなのに、そこにどこか温かさを感じていた。これを美味しいと思えたのは、奴隷生活三か月の中で初めてのことだった。
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俺がゆっくりとした食事を終えてもまだ彼女は起きていた。俺の横で座り込んで、じっと俺を見つめていた。
「……まだ何か用か」
「………………」
彼女は言うかどうか迷うように息を漏らした。
「……私が怪我させたから。痛いでしょ?」
「もう平気だよ」
俺は本心でそう言ったのだが、彼女は遠慮として受け取ったらしい。また手がきゅっと握られた。
「…………私だったら治せるの。魔法が使えるから」
一瞬、体が強張った。「魔法が使える」というワードに反応してしまったせいだ。
「……だから――」
しかし、その後が続かない。
「だから……」
「さっきも平気だって言っただろ。嘘はついてない。だから、治してもらう必要もない」
それに、と俺は続けた。
「もし仮に治してもらうにしても、嫌々治されるのはごめんだな」
「違っ、嫌ってわけじゃないよ……!?」
慌てたのか、少し大きな声が出た。
彼女はすぐに我に返り、ぱっと口を押えた。
俺たちはしばらく息を殺して周囲の様子を窺ったが、全員寝息を上げてぐっすりと眠っているようだった。思わずほっと胸を撫で下ろした。
「……違うからね?」
「……今のは俺が悪かった」
「治したくないわけじゃないの。そうじゃなくて……魔法を極力使いたくなかったの」
そして、彼女は小声でぽつりと言った。
「――ここから逃げ出すために、魔力を残しておきたかったから」
「――!」
俺は目を見開いた。
逃げる。
ここから?
逃げ出そうなんて、思いもしなかった。
いや、思わなかったと言えばうそになる。しかし俺ではどうやっても逃げ出せないから、諦めていただけ。
でも、目の前に座る彼女は諦めていない。
ここに居る奴隷たちにはもうそんな気概は残っていない。
毎日使い潰され、摩耗し、やがて壊れてしまう道具でしかない。いつか来るであろう終わりの日まで諦めの心を抱いたまま過ごすだけの日々。いつしか俺もそれが当たり前になっていた。
だから、彼女の言葉が眩しく感じた。
まだここに来て日が浅いからそんなことが言えるのだ。
裏を返せば、まだ熱意が残っているということ。
だったら。
――……だったら、賭けてみるか……?
黙り込んだ俺をよそに、彼女は力なく笑った。
「……でも、だめみたい。魔力が足りないの。普段の私だったらこんな枷、楽々壊せるのに……」
そう言って彼女はこつんと自身の足枷をノックした。ぽつぽつと語るその声は震えていた。
「……魔力は命の源。疲れた体を回復させようとして、魔力がどんどん消えていく。溜まるどころか減るばっかりで……もし枷を壊せても、遠くまでは逃げられない。……やっぱり、ここからは逃げられないみたい」
「……逃げたいのか?」
「逃げたい。本当は……こんなところでじっとしてる場合じゃないんだ、私」
「逃げて……それからどこに行くんだ?」
「……秘密、かな」
彼女ははぐらかした。しかし、目は真剣そのものだった。
「……でも、どうしても……絶対に帰らなきゃいけないの。――私が、自分自身の目でどうなったのか、ちゃんと見届けないといけないから」
「……そう、か」
帰る場所。そうか。俺にはない。俺にとってのそんな場所はもう、どこにもないのだ。
だから――だから、逃げ出そうなんて考えもしなかった。
突然に沸き上がった感傷を、気付かれないように必死に抑え込んだ。努めて深い呼吸に切り替え、吐き出す呼吸に湿った感情を乗せ、外へ追い出していく。
魔法が使えないと分かった時点で、俺は祖母の元へ預けられ、以後祖母の手によって育てられた。祖母が俺にとっての本当の親だった。そんな祖母は一年前に死んだ。寿命だった。
だから、俺にはもう帰る場所がないのだ。
でも、彼女にはある。
帰る場所があるのなら、帰してやりたいと思った。要は同情だ。俺だからこそ、彼女の帰りたいという気持ちは人一倍深く理解できる。
――決めた。
「――帰りたいんだな?」
「……うん」
「なら、脱走するために手を貸してやる。それでここから逃げろ」
「えっ!?」
彼女は驚いたように目を瞬かせた。
「む、無理だよ。さっきも言ったでしょ?魔力が足りないの。枷を壊せても、そこから先が――」
「――要は、魔力があればいいんだろ」
俺は遮って言った。
「それなら……それだけなら、力になれる」
宿舎に差し込む月明り。俺は四角く切り取られたそこに、自分の右腕を出した。
彼女は一瞬怪訝な表情を浮かべ、それはすぐ驚きのものに変わった。
「……うそ。怪我が……ない……?」
昼間に負った傷のほとんどは塞がり、治りかけていた。