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妄想論

シェアワールドともう1つのもの

作者: とびうお君

 どうもなろうの読者が異世界ファンタジーが好きってのが違和感がある。それは多分不純物のせいだと思う。初期のネット小説にはそういった読者の好みが強く感じた。だが今の流れはどうだろうか?と思う。ええーっとランキングに表れる読者の好みを考えてるわけじゃない。そのランキングの結果がなろうだけの特殊な好みによるものじゃないか?こういう視点に立ったものになる。


 どこにでもあるような王道の好みなのになろうのランキングが特殊なら、それは読者の好みが特殊なわけじゃなくて、ランキングと言うシステムそのもの問題だと見てるからになる。多くのなろうエッセイはその点ランキングの結果に対して読者分析が単純すぎる。ランキングの結果が特殊なので、読者も特殊な好みを持つんだと見るのだが、私から見るとその辺りなんとも言えないものがある。


 そこで私は3本柱を持ってきた。文字と自己投影と異世界ファンタジーである。前の二つは自信を持ってるし、かつ自己投影は所詮程度問題にすぎないと割り切ってる。全く分離する様なものじゃない。なろうは極端だから面白さが理解されにくいだけだと思ってる。頭の悪い生徒と教師みたいな関係になる。


 頭の良い生徒ばかりだと教師は特に生徒に歩み寄る必要が無い。関心が無い生徒をどう関心を持たせるか?など面倒な作業をしなくていい。自己投影と言うのはこういうものになる。外の作品は関心が無い人にどうやって関心を持ってもらうか?の工夫が多い。自己投影にはそれが薄い。最初から分かるやつだけ楽しめればいいってものになる。


 だからなろうがつまらないって人が多いのは当たり前と言えば当たり前なんだ。できの悪い生徒のように無関心な生徒を楽しませる工夫が無いから。自己投影はこれでほぼ片づけられると思う。頭がいいとか悪いは比喩であってなろう読者が賢いってわけじゃない。最初から自己投影での楽しみが分かるやつ以外排除した結果なので、そこに対する工夫が足りないんだ。


 文字は分かるだろう。文字物語は大きな衰退の流れにある。その受け手がマイノリティ、少数派であるのはすぐにわかる。もし分からないなら、何十年前の感覚なんだと馬鹿にしたような目線になってしまう。


 この2つが特殊だというのは確信が持てる。自己投影は再度書くが、それらはなろう外にも当たり前にある。だがなろうは極端すぎる。それがそもそもそうじゃない視点で作品に関心を持ってもらう部分に決定的な違いがあるから。それは下手なんじゃない。必要が無いからやらないんだ。他のところに労力を割いてほしいのでなろう内では特に意味のない力なんだ。ただそれが外で満たれた場合、下手や素人と見られるのは仕方がない。分かるやつだけ分かればいいと割り切った方がいい。


 さて問題は異世界ファンタジーだ。これどうも私最近のものはあんまり強くないんじゃないか?と思ってる。正直なろうで異世界ファンタジーに対する好みってそれほど重要だと思わない。前の2つに対して、大きく落ちるものとして2、5本柱程度だと見てる。その原因は、初期の異世界ファンタジーに対して、漫画アニメであふれてるバトル物の要素がふんだんに突っ込まれたからだと思う。


 なろうの初期のころから現代までの時間経過は、こういった漫画アニメでありふれてるバトル物を取り入れていく流れだったと見ている。初期の頃のネット小説だけの特別性のエッセンスがかなり薄まって、ありきたりな漫画アニメに近づいた結果だと見ている。


 よって最終的に残った僅かな残滓について語ることになる。実際の好みとずれる原因はバトル物の要素だけじゃない、前回書いたシェアワールドが大きい。ただ、これだけじゃない、ここが重要な部分だと思う。なろう最大の特徴は異世界ファンタジーじゃない。中世欧州的ファンタジーだって点。


 これを言えばシェアワールドがどれほど重要か分かると思う。よってこれに対するシェアワールド以外の部分はないのか?これがテーマになる。何故鬼滅が無いのか?でここもかなり大きい。ただ鬼滅に関しては男女差がとても大きな要素としてあるので、そっちの方が語りやすい。


 なろうは男性と女性のすみわけが恋愛によってなされてるのが外とずれる大きな原因だと思う。その点扱いにくいので保留にしたい。どのみち鬼滅は性別無視でもなろうに合わないと思う。それはノーストレスとかだけじゃない。世界観が違うからになる。大半はシェアワールドだろう。


 なろうのシェアワールドに大きな影響を与えてるのがゲームにそれが多いからに尽きると思う。もしゲームが和風ファンタジーから発展していたら、鬼滅もあったと思う。ゲームで最初に基礎をつくられたのが中世西洋ファンタジーだったから。これだけだと思う。そこに好みはないのか?なら、あえて言うならない。


 ただし、慣れと言うか習慣と言うか洗脳と言うか、これは文化や宗教と全く同じ。長い時間それに慣らされたなら、それはもはや好みと言えるようなものを形成してしまう。


 そして最大の問題は、後から作った和風ファンタジーが、和風ならではゲームシステムを根本から変えるようなものを持たなかったからになる。分かりやすく言うとRPGツクールって知ってる?となる。あれは中身の世界観はいくらでも変えられる。和風だろうが洋風だろうが隙に作れる。


 和風なら洋風とは全く違うシステムが必要でかつ面白いってものが必要になる。そうじゃないとシェアワールドの利便性につぶされる。側だけ変えて和風ファンタジーを作っても面倒なだけになる。同時に慣れってやつもかかわってくる。ただこの慣れってのが曲者で、新奇なものを好む部分もある。


 だからトレードオフになると思うのだが、飽きる食傷感より多分慣れは上位に位置すると見ている。多分これが平均的人間は等価の価値にならない。単純な好みじゃない慣れ。後この慣れが複雑なのは宗教とか文化と同じで、生まれたときに自分にはどうにもならない形で、すでに慣れるための素材が埋め尽くされてる。


 最初から選択肢が無い。前の世代の慣れによって、勝手に社会的にそうなってしまってる。そして次の世代もこの慣れが好みになっていく。本来世代交代はそれほど真剣に考えなくていいのだが、この慣れの継承が上手くいかないことも多々あり、あくまでゲームはって話で、なろうの中の継承は上手くいくのか?疑問があると書いてる。


 本来語るべき好みとは多分なろうの西洋ファンタジーの偏りは違う。これはおそらくゲームから続くシェアワールドと絡んだ”慣れ”から発生する好みによるものである。


 もしゲームの歴史が違っていたら、なろうの外と違う特殊性は全く違っていたと断言できる。日本人は単純に西洋ファンタジーが好きだと私は思ってない。


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