悩み、不安、迷い、それが過ぎれば幸せかも?
私は暗く、自分のことをこれぽっちもいいとなんて思わない、それは作品もしかり、私には作品を語る資格があるほど、自惚れてはいないし、書くための努力たるものを放棄している場合だってある。
だけど、人間、駄文を書くことにも人間の趣を感じられる点がある。
たとい、誰が評価をせずとも、自分の心のうちにある世界は、広がってゆく、本来は縛られてなるものでもないのだ。
だけど、最近の私は、見えない鎖に縛られているようでならない、それは、まさしく自分を痛め付けてるようでならない。
心が病むとまではいかないが、人の生きる上での身勝手さ、怠惰に敏感になってゆく自分がいる。
世界には、貧しく学を学びたくとも、学ぶことができない人もいる。なのに、最近は、自分のことしか、自分だけしか考えられなくなっている。
優しくしたくとも、それ自体がいらぬ迷惑として捉えられてるかもしれないと自分の自意識というものを感じる。
反対に、堕落はなぜ、批判されない、悪はなぜ、罰せられないのかと思ってしまう。
悪に甘く、善いことには厳しい、社会、歯車が狂ってしまうのは、人の心もやんでいる証拠のように思える。
論理的に解決しようとも、うやむやになる悩みは相談しようかとも思うたが、気が引ける。
どうしても、自分なんて……という見えない籠に閉じこもる。
世界は、身勝手でどうこうしてくれない、自分一人の力と判断が大事なんだと、思っていても大衆の意識に遮られ、変わることを許されぬ時代に直面してしまえば終わりだと思う。
平和はこれからも続くのだろうか、最近の人は、思考の苦しみを放棄するかのように、スマホに夢中になっている。
生きるための意義、それ自体を失っていくように思える。
かくいう私もスマホをいじってしまってる。
だけど、善い使い方もあればきっと変われるのだ。
うやむやな心と思考はあやふやになってないかと心配になるし、自分さえも何を書いているのかもわからなくなってくる。
文の上での不思議の国、奇書的なエッセイになったりしてないか不安は口にしても駄文、駄目だ。
ちなみに少し、言葉遊びをしてみた。
誰も彼も見ないと思って書いているから、心の赴くままに書いている。目につく他人の目とかを書いている間だけは、忘れてられる。
帰ってきたら、ゲームをして、怠惰に過ごすのも自由、されど公の場では、つとめを果たすためのことのメリハリはつけておきたい。
もちろん、この怠惰も有意義な怠惰として、人生の糧とし、薬としたい。
私は、少し、肩を入れすぎて考えに凝ってしまう癖がある。
どうやら、今日も憂鬱を晴らすために書いているのだと思うた。
そして、相変わらずタイトルの付け方も直情的につけたもので、私は、もしかしたら、絵を描くことの方が向いていると考えつつも、私は、物書きを書くのも好きだという矛盾を背負って、自己を内省して、心の鍛練に励めればと思う。