身代り人形
保育士の田中芳子は部屋に入って驚いた。
もう誰もいないと思っていたのに園児が一人残っていたからだ。
夕暮れ時の太陽が薄いレースのカーテンを通してフローリングを真っ赤に染め上げていた。まるで大量の血をぶちまけたような床に、その少女は佇んでいた。
「えっと……」
芳子は口ごもる。少女は後ろを向いており、にわかに誰なのか特定できない。
濃紺のワンピース。ショートの黒髪は軽くカールしている。カールの向きがてんでバラバラで収まりが悪そうな癖っ毛だ。
こんな特徴的な癖っ毛の持ち主はこの園には一人しかいない。
「ミサちゃん?」
芳子の問いに少女は微かに肩を揺らし、振り向く。
やはりミサちゃんだった。
色白で大きな目のかわいらしい少女だが、その大きな瞳は闇のような暗さ、深さをたたえていた。
一種独特な雰囲気の美少女だった。
芳子は実はミサちゃんが苦手だ。
あの瞳に見つめられると、なんとも落ち着かない気持ちになるからだ。蜘蛛の糸に絡めとられた蝶にでもなった気がしてくる。
芳子は内心の動揺を気取られぬように当たり障りのない話題はないかと模索する。
ふと、ミサちゃんの手に人形が握られているのに気がついた。
見覚えがないので園所有の共同おもちゃではないようだ。
では、ミサちゃんのものだろうか?
人形の右手が千切れてなかった。
「あら、お人形さんの腕ちぎれちゃってるのね。可哀想。
先生が直して上げようか?」
「麗香ちゃんがやったのよ」
唐突過ぎて意味が良く分からなかった。
「麗香ちゃんが腕を千切ったの。
止めてって言ったのにニヤニヤ笑いながらお人形の右手を肩からもいじゃったの」
戸惑っているとミサちゃんが補足してくれた。
麗香の名前が出て合点がいった。と、同時に陰鬱な気分になる。
麗香ちゃんというのは、この園の問題児だった。
性格は自己中心的で凶暴。
始末の悪いことに園の出資者の縁者の子供のなので、芳子たち保育士は表だって注意をするのが難しい存在だった。
加えて、麗香の両親もかなりの難物、いわゆるモンスターペアレントと呼ばれる人種だった。
子供のケンカにずかずかと踏み込んで来て、相手が子供だろうと親だろうと怒鳴り散らし、それでも足りなければビラやらネットの書き込み等であることないこと風評被害を撒き散らす。
こちらの方が100%真っ当でもあっても相手の剣幕に押されてこっちが謝らざる得なくなる類いの相手だった。
そのため、麗香ちゃんは園で女王のように振る舞っていた。麗香ちゃんは麗香ちゃんで増長して、少しでも気に入らなければ物を壊したり、暴力をふるった。
ほんの1週間ほど前、ミサちゃんも麗香ちゃんに引っ掻かれて流血騒ぎになったばかりだ。
傷はほとんど治っているようだが注意して見るとまだ桜色の筋が頬から耳の下まで伸びているのが分かる。
芳子は心の中で溜め息をつく。
ケンカの原因がなんだったのか今も良くわかっていないが、その後、ミサちゃんは麗香ちゃんに目の敵にされているようだった。
人形を壊されたのも苛めの一環なのだろう。
分かっていながらどうすることもできない自分がもどかしく、また後ろめたかった。
ミサちゃんの目に自分はどう映っているのだろうか気になった。
恐らく、助けてくれない頼りにならない大人と思われているのだろうか。
「先生、身代り人形って知ってる?」
なにか言い訳めいたことを言おうと考えていると、ミサちゃんの方から話しかけてきた。
しかし、今度もリアクションに窮する言葉だった。
「体の一部、髪の毛や爪の欠片、を人形の体に入れて護符を貼るの。そうすると人形が体の一部を入れた人の身代りをしてくれるの。
例えば、その人が足を怪我するような事故にあってもその人は怪我をしなくてすむの。その代わり人形の足が傷つくのよ。一種の御守りみたいなもの」
「ふーん。そうなの……」
芳子は曖昧な返事を返した。正直、話が見えてこない。
「じゃあ、逆に身代り人形が傷ついたらどうなると思う?」
そう言うとミサちゃんはニタリと笑う。
その笑顔に芳子はなぜか寒気を感じた。
「私、帰るね」
芳子が答えられないでいるとミサちゃんは何かつまらなさそうに呟くと部屋を出ようとした。しかし、部屋を出る直前、くるりと振り向き手に持つ人形を芳子の方へ突き出す。
「ね、先生。この子、どうしょうか?
右手がなくてバランス悪いから左手ももいだ方が良いかなあ。それとも燃やしちゃう、川に捨てる。道端に棄てて、野良犬やカラスに任せるのも面白そう」
芳子は耳を疑った。ミサちゃんはうっすらと笑みを浮かべていた。
表情と話の内容がちぐはぐで薄ら寒いものを感じる。
苛めからくるストレスによる異常行動なのか、それとも子供特有の酷薄な一面を垣間見てるだけなのか。
(こ、こんなときはどうする、と教わったかしら)
ケアをするべきか、スルーすべきか芳子は迷った。
「お、お人形さんが可哀想だから、大事にしてあげて」
芳子は掠れた声で答える。結局、様子を見るを選んだ。
「うーん、まぁ、先生がそういうならそうする」
ミサちゃんはそう言うと人形をひっくり返し何か紙のようなものを剥がして丸めてポケットに入れた。
「じゃあね、バイバイ」
ミサちゃんがいなくなると芳子は強い脱力感に襲われ、床にへたり込み、しばらくぼうっとしていた。
そこへ、ドタドタと大きな足音を立てて園長が顔を覗かせた。
「ああ、田中さん。私、ちょっと出掛けるんで後の事宜しくね」
上着を引っ掻けながら早口でまくし立ててきた。
「良いですけど、何か急用ですか?」
「麗香ちゃんの家の車が事故にあったらしいの。
詳しい事は分からないけど麗香ちゃん、右腕切断の大ケガだって」
ミサは一人家に向かい歩いていた。
ふと立ち止まり、微かに口の端をあげ呟いた。
「だから、言ったのよ。止めなさいって。
それに、後悔するよってもね」
2018/03/18 初稿
2018/08/17 形を整えました
古賀進一先生 追悼作品です
ご冥福をお祈りいたします