第九話
次の日、朝起きて二人は辺りを少し散歩することにした。
日が燦々と照っている明るい朝だったが、夜ではわからなかった色々なものが見えた。まずこのドルスの地域は、町から少し離れた場所にあり、軒を連ねているのはかなりの古さのある建物か、あるいはやっと雨露をしのげる程度の掘建て小屋であった。洗濯物の多くは壁と壁とにつないだ縄にずらっと干されており、それらは各国の国旗が並んでいるように見えた。この風景は二人が初めてこの町に入った時の印象と、天と地ほどの差であった。ゲットーと呼ばれるこの地域は衛生状態も悪く、しばしば病気も蔓延するとノーマンが言っていたこともわかるような気がした。そこは貧困そのものだった。
だが、不思議なことにそこに住む住民は必ずしも絶望しているようには見えなかった。確かに、貧困という悲しみはあるのだが、それが地域全体に、陰鬱に漂っている訳ではなかったのだ。クナイシュタットの市場ほどではないが、この地域にも市場が並び、幾種類もの食品や日用品が売られ、活気を呈している。店の人々も陽気とまではいかないが、とても明るく、商売を楽しんでいるようすだった。それは、この町の歴史の悲惨さを知って落ち込んでいたセイスを、幾分か安心させた。
「俺が思っていたより、ここに住む人たちは強く生きてるんだな。」
「うん。そうだね。」
二人はそんな彼らを見て、元気をもらうような気がした。
「おう、お二人さん。」
大きな男が現れたと思ったら、ノーマンだった。
「やあ、昨日は宿まで用意してもらって、なんていってお礼をしたらいいのか。ノーマン、ありがとう。」
「まあ気にするな。これも神の思し召しというやつさ。」
ノーマンはそう言うと、右手に持っていた帽子をがばっとコルトの頭にかぶせた。
「わっ!」
いきなりの出来事にコルトはびっくりして声を出した。
「お嬢ちゃんは、目の色が違う。ここらではそれが気に入らんやつもいるかもしれんから、念のためにな。ちょっと大きすぎたか?はっはっはっは。」
「あ、ありがとうございます。」
大きな帽子をかぶったコルトは、髪こそ長かったが、かわいい少年のようだった。ノーマンのざっくばらんな優しさが二人を笑顔にさせた。
「そうだ。セイス。今日の夜、ちょっとしたことがあるから、夕飯が済んでずっと夜が更けたぐらいに、宿に迎えにいくぜ。お嬢ちゃんも一緒にな。」
「ちょっとしたこと?」
「まあ、夜まで待ちな。」
なんだろうときょとんとした顔で二人は目を見合わせた。
「じゃあ俺は今から仕事があるから。またな。」
「ノーマンさん、帽子ありがとうございます。」
コルトがぺこりとおじぎをすると、ノーマンは照れたように鼻をこすり、手を振った。
二人が部屋で軽い話をしていたころ、ノーマンが向かえに来た。太陽はとっくに沈んで、もう家の明かりもちらほらとしか灯っておらず、外は暗かった。
彼に言われるままに、セイスとコルトは薄暗い路地を歩いていた。
「今日はお祈りの日なんだ。」
ノーマンが真剣な顔で言った。
「お祈りの日?シースト教の?禁止されてるんじゃなかったのか。」
「ああ、禁止されている。でもこうやって定期的に行なってるんだ。それを見てもらおうと思ってな。お前らは旅をしてるんだろ?ちゃんと俺たちの生き方を見てもらわないと過去の話ばかりじゃ真っ暗だろ。」
「そうなのか。わかった。」
どれくらい歩いたろうか、暗闇の中なので距離はわからないが右へ左へ細い道を進んだ。そうすると小さな小屋が見えた。周りは寝静まったように静かで、街灯もない。その小屋だけから橙色の明かりが漏れていた。
「ここだ。」
その小屋に他の何人かが入って行くのが見えた。
「俺たちはシースト教を信仰することを禁じられている。もしこの信仰が見つかると、むち打ちの刑だ。だからこうやって深夜に見つからないように集まってる。」
中に入ると多くのドルスたちがすでに集まっていた。
「おう、ノーマン。よく来たな。そいつらは?」
「この二人は旅のもんだ。」
その小屋は外に音が漏れないように、窓などには毛布がかぶせてあった。ドアががちゃっと閉められた。
「なにが始まるんだろう。」
コルトはその異様な様子を見てそわそわしているようだった。
しばらくすると集まった皆はおのおの文字の書かれた紙を持って真ん中の方へ集まって来た。
歌が始まった。
その歌は『神の恩寵』 と呼ばれる歌だった。彼らは小さな小屋で、人に聞かれるのを恐れながら、だがとてもはっきりした意思を持って歌っていた。青年も、老人も、女性も、子供も、皆まっすぐに天に向かって、一辺の曇りもない精神で、歌っていた。それは荘厳という言葉でもって、言い尽くせない程の力があった。
「私、この歌を知ってる。」
聴いていたコルトがそっとセイスに言った。
「でも、私が知っている歌とは全然歌い方が違う。この人たちが歌っている方が、もっともっと伸びやかで、きれい。」
「そうか、わかったよ。コルト。」
「え?何がわかったの?」
「ここに住む人たちが、希望の火を捨てない理由が。」
彼らは一心に歌っていた。一曲が終わり、そうするとまた別の曲を歌い始めた。それらの全てが神の歌であり、信仰の歌だった。彼らの歌は、明るい歌でも、決してうわついたようなものではなく、そこには反省と落ち着きがあった。そして悲しい歌でも、それがただ悲しみの淵に沈むようなものではなく、その奥底には希望というらんぷが燃えているようだった。セイスとコルトは彼らの歌をじっと聴いていた。この歌こそが、彼らの信仰の方法であり、そして救いであることが、体全体に響くように伝わって来た。その響きは風となって二人を包んでいるようだった。
やがて歌は終わった。だれが何を説教するでもなく、歌が終わるとともに、この集まりは解散した。
帰り道にノーマンが、
「これが俺たちのやり方だ。」
セイスはその言葉を噛み締めた。彼は今の状況を変えるために、何か別の新しいことをしなければいけないと思っていた。だがそれは違うということにはっきりと気がついた。彼らはここに集まり、そうして歌うことで、自分たちの生きる意味を再確認している。それは暴力に訴えて、現状を破壊することでも、新しい制度をつくって政治を変えることでもない。ただ雑念なく、音楽に身を委ねて、そうして毎日の生きる希望を見いだしているのだ。
それはラートルに住む自分たちと同じように感じた。
宿に戻ったセイスはコルトに向かって言った。
「音楽は俺たちを救ってくれる。音楽でみんながわかり合えるかもしれない。」
コルトはいきいきとした目をしたセイスを見て、うれしくなった。セイスの希望の光も、明るく灯っていた。