第八話
「ひどいものじゃった。それからじゃ。そんなことが起こったとしても、労働力を持たない地主たちは、ドルスの力が必要じゃろう。ドルスにとっても、他に行く当てなどないものばかりじゃ。また以前と同じようにこの畑で働く生活になった。ただ残ったのは、お互いのはっきりとした区別とシースト教信仰の禁。今の、異常とも言える区別は、この名残りがわしらの生活に溶け込んでいるからなんじゃ。」
先生が話し終わっても、しんと、誰も口を開かなかった。コルトは話の途中から、恐怖のあまりふるふると震え始め、セイスは横に座って彼女の肩に手を当てていた。
「そんなことが……。」
セイスはため息をついた。
「そうするしかなかったんでしょうか。」
セイスの問いかけに、先生は、
「それは誰にもわからん。彼の行動が正しかったのか、それとも間違っていたのか、それは誰もはっきりと言うことはできん。じゃが……やはり残るのは大きな悲しみじゃ。」
その夜はノーマンに教えられた宿に泊まることになった。先ほどセイスたちが泊まろうとしていた宿よりも古かったが、家庭的な印象で、逆に落ち着くような気がした。
食堂ではほとんど料理を食べなかったので、
宿の人が軽い夕食を作ってくれた。それを二人並んで小さな部屋で食べていた。
「セイス、気分悪いの?」
「いや、大丈夫だよ。さっきの先生の話を考えててさ。」
人参のスープをすくったまま、ぼうっとするセイスを見て、コルトはまた不安になった。セイスの心に降る、雷まじりの大雨が、コルトの体を寒くした。
その日、セイスはあまり口を開かなかった。
夕食も普段なら人が驚くほどの量を食べる彼が、少し手を付けただけで、ごちそうさまと残してしまった。
コルトにはどうしようもなかった。その時、コルトは自分がいかに無力であるかを実感した。
そのまま二人は床についた。おやすみとひと言、布団に入った。夜は静かだった。真っ暗で、風の音しかしない。コルトはゆっくりと眠りに落ちた。
ふと深夜に目が覚めた。窓の方を見てみるとセイスがベッドの淵に座ってぼんやりと窓の外を見ている。電気はついておらず、部屋は月明かりに照らされて、光りを纏った透明な水が、床に薄く、ぴちゃぴちゃと歩けるように張っているようだった。コルトはベッドから立ち上がってセイスに声をかけた、
「眠れない?」
コルトに気付いたセイスは少し下を向いて、
「うん。」
コルトはセイスの横に座った。月がおぼろに町を照らしている。
セイスは小さな声で話し始めた。
「今まで、ある程度は世界のことを理解してるつもりだった。ドルスに対する差別がどんなものか、奴隷の解放ってなんなのかとか。でも、実際この町に来て、知らないことばかりだった。宿を探してるとき、あのおばさんに、俺がドルスだから泊めないって当たり前に言われて、びっくりした。俺の肌の色が、目の色が、そういう差別を引き起こすっていうのが一瞬信じられなかった。ばかだよな。ご飯を食べてるとき、人の目が気になった。こんなこと今まではなかったから。そういうふうにみんなに見られると、なんだか自分の足下がぐらぐらしちゃって、まともに立っていられないような、そんな気分になる。自分がここにいないみたいな、いちゃいけないみたいな、なんだろ、心臓がロープで縛り上げられてるような。わかってたはずなんだけど、現実に直面して、手も足も出ない。俺はそんなのをなくしたいと思ってたのに、考えても考えても、なんにも解決策が浮かばない。」
はあっとセイスは大きなため息をついて、
「こんなんじゃコルトに頼ってなんて言えないよな。」
コルトの方をみてふふっと笑った。コルトにはセイスが泣いているように見えた。そんなセイスを見て彼女の胸はいっぱいになった。弱さを見せないように、つらさを隠そうと笑うセイスをなんとかしてあげたいと思った。
そっとためらいがちに、コルトはセイスの手に自分の手を重ねた。
「セイス……無理しなくていいんだよ。」
コルトの手の温かさが、肌を通してセイスに伝わってきた。それは彼の心に、ぽうっと仄かな明かりを灯した。
「セイスが私に言ってくれたでしょ。無理しないでいいって。ありがとう。私はその言葉で救われたんだよ。思い詰めてて苦しかったこと、少し楽になったんだ。だから今度は私がセイスの力になる。私なんかじゃ頼りないかもしれないけど、セイスの力になりたい。だから、無理して、痛いのを我慢しなくてもいいよ?苦しいときは苦しいって私に言ってほしい。」
顔を向けると、自分を見つめる目は青く澄んでいた。そして、その真剣なまなざしは、深い慈愛に満ちていた。
「コルト……。」
セイスはコルトの手をぐっと握った。すると急に涙があふれてきた。
「ありがとう。」
ぽたぽたと涙が、握った二人の手に落ちた。
「なんで人は憎しみ合うのかな。どうして人はお互いを傷つけ合うのかな。そんなの苦しいだけだろう?わかるよ。先生が話してくれたように、苦しい境遇で、それが誰かのせいだってわかったときに、怒りに変わって、そして殺し合うってことは。わかるけど。それで何が変わるだろう。それで本当に幸せになれるのかな。俺にはどうしたら解決できるのかわからない。そうしなければならなかったのかもしれない。でも、もっと違う方法はないんだろうか。俺とコルトは全く違うよね。生まれも、境遇も、全部。だけどこうやって一緒にいて、楽しい。お互いのことをわかろうとしてる。そんな風に、人は、生きられないのかな。」
「そうだね。きっといつか、そんな時代が来るよ。私たちが、そうしようとがんばっていれば、きっと。」
暗い海のような空に、ぼんやり浮かんだ月と、砂金をまいたような星たちが二人を静かに見守っていた。