第七話
先生は「昔、ここボンドールではな……」とゆっくりと口を開いた。
今から六十年ほど前、この町の小さな奴隷小屋に、ノットという男の子が生まれた。彼の両親はドルスだった。
ノットは生まれた時から素晴らしいほどに頭がよかった。ドルスの身分として、学校に行くことはできなかったが、彼は独学で文字を読むことを勉強した。本が読めるようになると、仕事の合間などに本屋に寄っては、新しい知識を吸収していた。本の種類は、文学、数学、語学、経済とあらゆる本を網羅していた。ある時、町に住む地主の息子が学校の帰り、たまたま道で会ったノットに、冗談半分で数学の問題を問うたところ、紙に書くこともせずに、彼は一息で答えを言い当てたという話もあった。
十五歳になるころには、彼はきりりとした立派な青年になっていた。肌は浅黒く、茶色い髪の毛は少しクセがかかって巻いている。身長はそこまで高くはなかったが、体は引き締まっており、健康快活な風貌だった。
体も強く、肉体労働の仕事でも爽やかにやってのけ、決して根を上げるということはなかった。もしも少しのお金が手に入った時には、娯楽というものには全く手を付けず、本を購入して、それを仕事の終わりなどに読んでいる姿は、たとえドルスだといえ多くの人を感化した。そのような生活っぷりであったために、周りのドルスたちはもちろんのこと、地主までにも彼は一定の信頼を得ていた。
そんな彼の転機は二四歳の頃だった。
彼がいつものように何気なく本を探していたとき、他の本とは違う、いやに重厚な、えんじ色の表紙で織り込まれた本を見つけた。そこには、
『ビブル』と表記されていた。
なけなしのお金を使って、ノットはその本を買った。そして家に帰ると、さっそくその本のページをめくり、小さな豆電球の明かりのもとで読み始めた。
彼は驚いた。最初、彼には、その本に書かれていることがにわかに信じられなかった。
その頃、ドルスの社会ではある宗教が教えられていた。シースト教。それは白い肌の、農園の地主が週に一回、教会や会議所にドルスたちを集めて、説教をしていたものだった。その内容とは、人は罪を持って生まれてきたものであり、その罪を償わなくてはいけない。その贖罪の過程が、人の生きる道である。ドルスはその生きる道、要するに、奴隷としての仕事に従事してその人生を全うすることによって初めて、神の御許へ旅立って行くことができるのだというものであった。ノットも小さな頃から説かれるその教えを忠実に守り、そして信じて、今まで働いて来た。
しかしノットはその本を読み進めるうちに、今まで教え込まれて来たこの宗教は、地主たちの手によって、ある部分が、ねじ曲げられていたことに気が付いた。ドルスはほとんど文字を読むことができなかった。地主たちはそれを利用して、原典にはないねじれた解釈として、本来その記載のない、ドルスの、奴隷の項をその教えに加えていたのだった。
『ビブル』はその宗教の原典であり、教えの根拠であった。その中にはこう記載があった。
人は皆、平等である。
ノットは打震えた。地主たちの説く偽りの教えを、なんの疑いもなく信じ込んでいた自分自身の愚かさに、そして、このような尊い教えであるシースト教を改ざんし、そうして弱みを持った自分たちドルスを、意のままに操っていた白い肌の地主たちに。
彼はその本を静かに閉じた。人はみな寝静まった夜深く、彼の目はぎらぎらと燃えたぎっていた。
翌朝、仕事場で、いつものようにノットは働いていた。
「ヘンリー、ちょっといいか?」
「なんだい、ノット?」
彼はノットの小さいころからの友人で、ノットが一番信頼をおく、親友であった。
「昨日新しい本を見つけたんだ。」
「お!ノットの本の話だな。今回はどんな話なんだ?俺らは文字が読めねえから、お前の話がおもしろくってしょうがない。早く聞かせてくれよ。」
「おもしろい話じゃないんだよ。ヘンリー、真剣に聞いてくれ。」
ノットはその本に書かれていた内容をヘンリーに話した。自分たちが教えられていた言葉は嘘だったということ。奴隷として人生を全うしても天国などには行けないこと。そう教え込もうとしたのは、自分たちを使う白い肌の地主たちであること。最後に、
「ヘンリー、俺たちはシースト教を心から信仰している信者だ。シースト教は俺たちの家に、仕事場に、どこにだって深く根を張っている。それはまぎれもない事実だ。今、その神聖なる教典を、汚辱し、辱め、そうして偽りのものにしている者どもがいる!俺たちドルスはそういった愚物どもに、天からの裁きを下す必要があるんだ!」
ヘンリーは真剣に聞いていた。そうしてノットが感じたのと同じように、彼の心には地主たちへの憎しみがつのった。
「くそう、俺たちはだまされていたってことか!くそっ!」
「ヘンリー、俺に考えがあるんだ。」
「なんだよ。俺はお前に従うぜ。どんなことだってやるさ。」
「ありがとう。ヘンリー。」
ノットには計画があった。それは自分たちを欺いた、地主たち、白い肌の人間たちに対して神聖なる裁きを下す計画であった。
ノットは仕事の合間合間、ドルスたちに説教をした。それは地主や監督者に気付かれないように、秘密裏に行われた。
「皆、よく聞くのだ。小さい子供も、女も、男も、老人も、耳を大きくして私の方を向きなさい。先日、神が私の夢に現れて、私にこう告げられた。『悪魔の蛇は解き放たれた』。この意味がわかるだろうか。
我々はシースト教というものを心から信仰している。その教えは日々の苦悩、嫉妬、憎悪、憤怒から我々を救ってくれる。毎日を意義のあるものにしてくれるのだ。
だが!私は知った。この尊い、神聖な教えに、薄汚れた手で泥を塗っている者があることに!
皆、このシースト教の原典を知っているだろうか。私は神の啓示を受けてからその原典を調べ、手に入れ、そうして私の血と肉とした。そこにはこう書かれていた。
『人は皆、平等である』と。
我々が受けていた教えはどうだったであろうか。白い肌の地主たちから受けていた教えは、違うものではなかったか。奴らは、ドルスが、その奴隷としての人生を全うすることで天に召されると説いていた。その時私は確信したのだ!奴ら、愚物どもは、神聖なるシースト教の原典を汚し、我々を利用するために偽りの教えを加え、それを説いていたのだ!
皆、よく聞け。我々はシースト教を信仰する者として、このような蛮行を許しておくことはできぬ。今こそ立ち上がり、シースト教を汚す、愚かな俗物どもに、神聖なる裁きの鉄槌を下すのだ!
その日時は、神が私に啓示された。天の輪の光臨の日である。太陽が刻々と黒い星に飲み込まれ、最後に天の輪が輝くときだ。空に神が現れたその時、我々は立ち上がるのだ!
皆よ、そのときまでは耐え忍べ。耐え忍んで、光臨の日を待て。そして立ち上がれ!私からの言葉は以上だ。親愛なる諸君、その時を待とう。」
ドルスたちはじっとノットの話を聞いていた。そうして初めて知った事実に驚き、そして怒りをあらわにした。彼らは敬虔な信者だった。それ故に、自分たちが欺かれていたことよりも、地主達が、教えを改ざんしていた事実の方が彼らの心を怒りに燃やした。彼らについた怒りの炎は、もう消すことはできなかった。
ノットの説教はあらゆる場所で行われ、ボンドールのドルスたちはほぼ全員がその説教を聞き、意思を固めた。
「ノット、そういえば天の輪の光臨の日っていったいいつなんだ?」
「その日になればわかるさ。」
「そういうもんなのか。」
ヘンリーはふうんといった感じで、
「みんなの気持ちは一つに固まってきてるみたいだな。」
「ああ、うまくいっている。俺たちが地主から受けた屈辱の数々は計り知れない。皆、その我慢が頂点に達しているんだ。もうこの勢いは止められないさ。」
「そうだな。毎日毎日あいつらに働かされて休む時間もありゃしねえ。」
「母さんも、妹も、奴らに殺されたようなもんだ。妹は……。」
ノットはぐっと血が出るくらいに拳を握り、歯を食いしばった。
「俺は奴らを憎んでる。俺は神じゃないさ。だが、奴らには決して払拭できない罪がある。この俺が、奴らに裁きを下してやる。」
そうしてとうとうその時が来た。ドルスは皆、農園で採取の仕事をしている最中だった。いつもは焼けるように強い日差しが、ふっと少し和らぐような気がして顔を上げた。すると、ぎらぎらと粉っぽい地面を焼いていた太陽が、だんだん左側から黒く欠けてゆく。皆がざわついた。
「おい、採取の途中だぞ。仕事に戻れ。」
監督者が声を荒げた。だが、皆の動揺は収まらない。
ゆっくりゆっくりと、黒く欠けた部分が大きくなって行き、最後に太陽の中に黒い星がすっぽり収まった。その光景は、ノットが予言した通りに、ちょうど太陽の輪郭が輪のように見えた。天の輪だった。
「その時だ!」
誰かが大きな声で叫んだ。その声を皮切りにドルスはみな半狂乱で監督者に向かって行った。
「うわあ、なんだ!どうしたってんだ!」
監督者は逃げようとしたが四方から追いつめるドルスたちに捕まった。
「愚者どもに裁きを!」
ドルスたちは一斉に彼に襲いかかった。監督者は何十人ものドルスたちに蹴られ、殴打され、嬲り殺しにされた。
ドルスたちの勢いは止まることを知らなかった。町のあらゆる農園で蜂起が始まり、現場の監督者を殺すと、次は地主の家に向かった。
ノットは笑った。ドルスの先頭に立って、何百人もの信者たちをぞろぞろと引き連れながら、彼は地主の家に向かっていた。
「その日は来た!奴ら、一人残らず裁きを与えよ!」
数人のドルスがノットに指示され、地主の家の扉を蹴破った。中には白い肌の家族が、角の方で震えていた。その中には小さな子供もいた。
「どうして、どうして、お前はあんなに不平も言わずに働いていたじゃないか。今になってなぜ……。」
地主の男がノットに向かって言った。彼はノットの勤勉さに信頼をおいていたのだった。
「俺は気付いたんだよ。お前らがこそくな手段で、俺たちドルスを洗脳していたことを。教典の改ざんは許されない。罪は、償ってもらう。」
「子供だけは助けてくれ!」
わあと、一斉にドルスたちは家になだれ込み、家族全員を、皆殺しにした。
惨劇は二日間続いた。ノットたちが乗り込んだ時にすでにもぬけの空だった家をのぞいては、ほぼ全ての家が彼らドルスたちに襲われた。
ノットたちの蜂起は、もはやそこに住むものたちでは抑えることができなかった。彼らの怒りは頂点に達し、なおかつその怒りは、ただの不平不満ではなく、宗教的なものであった。それゆえ、彼らは死をも恐れず、黙々と、ことを行うのだった。
そうしてとうとう、彼らの鎮圧に国の軍隊が投入された。
それからさほどの時間はかからなかった。追いつめられたノットは、
「皆、よくやった。我々のこの行為は反乱ではない。シースト教に基づいて、愚者どもに裁きを下したのだ。我々が奴らに殺されたとしても、それはただ単なる死ではない。誇るべき殉教なのだ。」
そう言い残して彼は連行された。
ノットの処刑はひどいものだった。あまりにも突然な、あまりにも残酷な蜂起に、白い肌の人々は恐れおののき、その心情から衝動的に、指導者であるノットに、最も醜い、グロテスクな制裁を与えたのだ。
その時ノットの処刑に加え、蜂起に関わっていない者たちも含めて、何百人というドルスが殺された。こうしてノットが率いたこの惨劇は幕を閉じた。