第三話
「コルト、今度の日曜に買い物に行かないか?」
ある日、バーの仕込み中、セイスが入って来てすぐにカウンターに手をのせて言った。
「買い物?」
「このバーでずっといるのも息が詰まっちゃうかと思ってさ。色々買いに行かなくちゃならないものもあるし、一緒に行かないか?」
セイスの茶色い瞳はコルトを見つめ、きらきらと光っていた。まっすぐな瞳だった。
「うん。いいよ。」
「決まりだね。じゃあ日曜はちょっと車を出してよね、叔父さん。」
マスターはにこっと笑った。
日曜日、セイスはコルトの部屋をノックし、
「コルト、用意はできたかい?」
ぱたんとドアを開けると、コルトがこっちを向いて少し恥ずかしそうにしていた。
薄い水色のブラウスに、ふわりと風をつつんだような白いスカート。手にはゆるやかな楕円を描く上品な白い帽子。真っ黒な髪が、淡い色の服に艶めくように栄え、美しかった。
「似合ってるよ。」
「ありがとう………。」
コルトは恥ずかしそうに自分の足下を見つめた。
市場があるのはラートルから少し離れたところ、"クナイシュタット"という、昔から活発に物品交換や販売が行われている街だ。商店も多い。ほとんどがれんが造りの建物で、ラートルとは全く異なった雰囲気がある。ここでは日用雑貨から、専門用品まで、ありとあらゆるものが揃うということで、様々な地方から多くの人々が購入にやってくる。もちろんドルスと呼ばれる人々だけでなく、色々な人種が混ざり合う町でもあった。
「叔父さんありがとう。」
「ありがとうございます。」
荷台のついた古びた車から、とんとんと二人が下りてきた。
「じゃあ夕方に迎えにくるからな。セイス、買い物頼んだぞ。」
「わかった。じゃあね。」
街の入り口からさっそく露店がずらりと並び、多種多様な商品がにぎやかに売買されていた。一角では野菜や肉などといった食品、またある一角では調理器具や工具など、そして何の為に使うのかわからないような不思議なものを売っている店もある。
入り口に立ったコルトは、この町に流れるがちゃがちゃとしたあまりの活気に、少し気圧されて、目を丸くしていた。
「にぎやかな街だろ?」
「う、うん。」
「さあ、買い物だ。」
セイスはコルトの手を握って歩き出した。
「まずは、と。」
セイスは露店のある通りをまっすぐに抜けて、階段を上がり、道路に面した小さなお店のドアを開けた。
ちりんちりん。
ドアについた呼び鈴が鳴る。
「おう、いらっしゃい、やあ、セイスか。」
白髪で、白いひげをたくわえた老人がセイスの顔をみて目を細めた。
「ラーズさん、お久しぶり。いつものチーズちょうだい。」
「はいはい、ちょっと待ってな。」
ここはチーズの専門店。小さな店舗ながら、チーズの種類はとても豊富で質がいいので、バーで出すチーズは、セイスがいつもここに買いにくる。
コルトはきれいに並べられたチーズたちを眺めて、目を輝かせた。
「セイス、すごいね。こんなにたくさんチーズがあるんだ。」
フレッシュ、ウォッシュ、シェーブル、青かび、とコルトは小さく呟きながら、うれしそうにぴょんぴょんと店内を回っていた。そんなコルトを見て、セイスは一緒に来れてよかったと思った。
「また来るね。」
「あいよ。」
がちゃっとドアを開けて二人は外に出た。手にはしっかりチーズの袋。セイスが買ったたくさんのチーズを見てコルトは、
「おいしそう。」
目をきらめかせる。
「食べちゃだめだよ。これは売り物なんだから。コルトはチーズ好きなの?」
「うん。」
「そうなんだ。じゃあ帰ったらちょっとだけ切ってあげるよ。叔父さんには内緒だよ。」
そう言ってセイスは口に指を当ててみせた。
「やった。」
無邪気に笑っているコルトを見て、ああ彼女はやっと心を開き始めている、とセイスは思った。その笑顔を見ると、彼の心の奥底に、ほんのり温かい暖炉の炎のような光明が現れて、体温を少し上げるような気がした。
「叔父さんが迎えにくるまでまだまだ時間があるな。コルト、いい場所があるんだ。」
チーズを買った店から少し歩いたところに、噴水のある公園があった。二人はお昼ご飯に露店で売られていたサンドイッチを買って、ベンチに座った。
「ふわあ、いい天気だね。こんな日はこうやってのんびりするのが一番気持ちいいよ。」
「セイスはよくここに買い物に来るの?」
「うん。しょっちゅうさ。叔父さんは人遣いが荒いからね。この公園はお気に入り。ちょっと通りからはずれてるから、そんなに人はいないし、なんたって噴水がきれいだろ。」
太陽の光を全身に含んだ水が、天高く空に伸び上がっている。大きな水の流れが、ざあざあという音とともに上がっては落ち、落ちては上がってを繰り返す。光を体内にめいっぱい含んだ水は、きらきらときらめく、繊細な宝石の首飾りのようでいて、また荒々しく空に舞い上がる、龍のようにも感じられた。
「きれい。」
「そうだろ?このベンチも、ちょうど木陰になってるしね。」
ぱくっとサンドイッチをくわえたセイスは、うんと一息伸びをした。それから、前屈みになって、じっと噴水を見つめた。
「ぼうっとあの噴水を眺めてさ。時々考えるんだ。水が下から昇って、落ちる。昇って、落ちる。確かに同じことの繰り返しだけど、でもひと時として同じ形はないんだよね。昇っては落ちて、昇っては落ちて、全く同じことだとしてもその時間、その一瞬は、特別な一瞬なんだと思う。そして水の柱はずっとそこにある。俺たちの人生だって、昇ったり落ちたり、そんな繰り返しだけど、その一瞬は特別な一瞬。そして俺たちは確かにそこに存在してる。そう考えると、俺はこの先どう生きればいいのか、本当に、真剣に考えなくちゃいけないような気がするんだ。コルト、君はサックスを、どんな気分で吹いてるの?」
「え?……私は……サックスを吹いている時、なんだか、私自身が音と一緒に空を飛んでいるみたいな、私の背中に羽が生えたような感じがする。広くて青い空を飛んで、雲を抜けて、そして最後には、その青色と溶けてしまうの。大きな空の海に浮かんだ雲と、ひとつになるの。でも吹き終わって、音楽が終わると、またもとの自分に戻ってしまう。羽のない、いつもの私になる気がする。」
「そうか。コルトはサックスが心の鍵なんだね。コルトの演奏を聴いていると、音のひとつひとつが、本当に心の奥底まで届くようだよ。それはやっぱり、コルトが、自分を嘘偽りなく、サックスを吹いているからだと思う。」
「そうなのかな。」
その時びゅっと風が吹いて、コルトの帽子が飛んだ。帽子はふわふわと、少しのあいだ空に浮かんで、草むらにさっと落ちた。すっと立ち上り、セイスはそれを拾って、コルトの頭に慈しむように優しくかぶせた。
「さてと、そろそろ行こうか?」
手を差し伸べたセイスの後ろから、太陽が逆光に光り、彼の体が輝くように見えた。コルトは彼の手を取って立ち上がった。
しばらく市場を回っていると、ごうんごうんとクナイシュタットの鐘が五回鳴った。夕刻を知らせる鐘だ。市場は店じまいを始め、町に住む者は家路を急ぐ。
コルトとセイスは活気がだんだんと静まっていく市場を歩いていた。日は傾きつつあった。
「買い物、来てくれてありがとう。」
「ううん。私の方がお礼を言わなきゃ。久しぶりに外に出て、こんなに大きな町に来て、あんまり人が多いから、ちょっとびっくりしちゃったけれど、すごく楽しかったよ。セイス、連れて来てくれてありがとう。」
「そっか。よかったよかった。コルトが楽しんでくれたことがなによりだよ。そうだ、今日はコルトと初デートだね。」
そう言ってセイスはくくっと笑った。コルトの頬にさっと朱が差した。
「ちょっと待ってて。」
セイスはぱっと市場の方へ駆けて行き、お店の人となにやら話しているよう、そして店の商品をうーんと眺めている。そして笑顔で戻って来た。
「コルト、こっち向いて。」
コルトの顔を正面に向かせて、セイスはすっと彼女の首の後ろに手を回した。
はっとコルトが思った瞬間、首に少しの重みがかかったのを感じた。セイスが離れて、彼女は自分の首もとを見てみる。そこには………空に広がっている青色を大きな鍋で煮詰め、そうしてできあがった液体を、珊瑚礁の海の青色と混ぜ合わせ、小さな丸い涙の形の鋳型で固めたような、神秘的な宝石がきらめいていた。
「ラピスラズリのネックレスさ。ここでよく採れるんだ。コルトにプレゼントするよ。」
そう言って笑うセイスの顔が、大人びて見えた。
帰り道は夕日が真っ赤に燃えている。そして夕焼けの空は、地上から天に昇るにつれて赤から水色へ層となっている。地面に消えてしまいそうな西日が、コルトの胸の宝石を照らした。そうするとその深い青色はいっそうその奥ゆきを増して濃くなり、そしてきらめいた。
「おおーい!遅くなってすまなかったなー!」
西日の向こうの方から叔父さんのぼろ車が長い影法師をつけながら、ごとごととやってくる。町の夜がやってくる時間に、コルトたちはラートルへの家路をたどる。
「セイス。」
「ん?」
「これ、おまもりにするね。」
コルトは首元の宝石を見つめて、それをきゅっと握りしめた。そしてセイスの顔を見てにこっと笑った。
車が揺れる帰り道、燦々と照る太陽は己が務めを終えて、地球の裏の家に帰る頃、夜は急に勢いをまして大きくなり、その真っ黒なとばりを広げて、世界をすっぽりと包み込んだ。賑やかで明るい昼が終わって、ひっそりと静かな夜になった。