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第二十話

 一方セイスはというと。

 彼は今、財布の底を眺めていた。ひっくり返してぽんぽんと叩くとほこりばかりがはらはらと落ちた。

「お金なくなっちゃったなァ。」

 コルトとラートルを出てから、腰を据えて仕事をする時間もなかったので旅を出発する際に持って来たお金は底をついてしまっていた。

「仕事をしてお金を稼がないと、飢え死にしちゃうな。」

 ソファに寝転びながらそう考えていると、ちょうどテーブルにおいたチラシの中に、求人情報のビラが入っていた。セイスはそれをぴらりと取って眺めた。

 セイスはもう物心ついたころから働いていた。工場で何か作ったり、荷物を運んだり。それと同時に叔父さんのバーの手伝いもしていた。だからどんな仕事であってもなんとかなるだろうと考えていた。

「点検作業か。これにしようかな。集合は明日の朝五時、駅前ロータリー。か。よし、決めた。」

 朝起きて外に出ると、まだ日は昇っておらず真っ暗で、夜中のよう。ひとけもなく、街はひっそりとしている。少し肌寒い。

「ふぁぁぁあ。眠いや。」

 セイスは大きなあくびをして、ぶるるっと震えた。駅前に歩いていくともう何人かは集まっているようだった。おのおの本を読んだり、ぼうっとしたり、いつもここで働く人もいるようで、その人たちはおしゃべりをしていた。

「どうも、おはようございます。」

 セイスが元気に挨拶をすると、みな軽く会釈をした。

 しばらくすると大きな車がやって来て、目の前に止まった。中から作業服の男が出て来て、

「さあ、乗って乗って。」

 言われるままにセイスは車に乗った。すでに乗っている者もあり、奥の席で眠っているのもいた。セイスも朝早かったのでぼんやりしているうちに眠ってしまった。

 車に揺られてかなりの距離を移動したようだ。がちゃっとドアが開いて、

「着いたよ!ほらみんな出て出て。」

 車を降ろされるとそこは大きな工場だった。ここの設備点検をするらしい。

「はい、じゃあこっちに集まってください。今日は五班に別れて作業します。君と君はこっちで、」

 その男はさくさくと班分けを始めた。セイスは四班になった。そのまま連れられて工場の中に入る。途中から階段を降りて地下に入った。

「今日はここで点検作業をします。まずはこれを運んで下さい。」

 セイスは、なにやら重そうな作業機械を前にいた体格の良い男と二人で持ち上げた。

「おう、兄ちゃん。ここは初めてか?」

「はい。そうです。」

「そうか。」

 ぶっきらぼうな男はそれだけ聞いて何も言わなかった。周りの人間の態度を見ていると、どうやらこの男はこの仕事の中ではかなりの古株で親分のようだということがわかった。

 午前の作業が終わり、お昼ごはんに弁当が配られた。さきほどの男の周りに何人か集まって食べ始めた。セイスがそれより少し外れて食べていると男が、

「おい、お前もこっちへ来いよ。」

「ああ、はい。どうも。」

「俺はボンズ。兄ちゃんの名前は?」

「俺はセイスっていいます。」

 ばくばくと大きな口でボンズは弁当を食べている。目がぎらぎらしていた。

「兄ちゃん、何やってる人だ?」

「音楽をやってます。」

「音楽?何するんだ。」

「ギターです。好きなんですよ。」

「ほう、ギターか。」

 そう言って回りの子分のような人たちと目を合わせた。

「俺らは毎晩仕事の終わりにどこかしらへ飲みに行くんだ。酒場でよくギターを聞くぜ。お前も今日行くかい?」

「え?……ううん、そうですね。ちょっとお金がないんでやめておきます。すみません。」

「お前がいい演奏を聴かせてくれりゃ、酒はただにしてやるよ。なあ、行くよな?」

 ぐいっと肩をかけられて見つめられた。セイスは参ったなあといった風に、

「はは、でも……。」

「セイスよ、い、く、よ、な?」

 もう一度ぎらりと見つめられて、

「え、えーと。……じゃあ行きます。」

「ははっ!そうこなくっちゃあな。」

 どうにもこの男は押しが強かった。悪い人間には見えなかったので、セイスは仕方なく了承した。

 仕事は夕方ごろに終わった。地下から外に出ると、もうすでに日は暮れかかっていた。朝日を少し浴びただけで地下に入り、出て来た時には日が沈んでいる。セイスはなんだかタイムマシーンに乗ったような気分だった。

「よし、行くぞ!」

 ボンズの大きな声とともにみなぞろぞろと歩きだした。

「ほら、お前もだ。」

 セイスは強引に腕を引っ張られて連れて行かれた。向かった先はガード下の酒場だった。ゴトゴトと列車の通過する音の下で、それにも勝るとも劣らないくらいに賑やかに酒盛りが始まった。店の前にはイスやテーブルが置いてあり、串に刺した肉や野菜といったおつまみが盛られている。みな大きなジョッキで色々な種類のビールを楽しそうに飲んでいた。

「お前も、飲め飲め。ここのは地ビールだ。他では飲めねえよ。」

 ボンズが、バーカウンターに座ったセイスの前に、どんとジョッキを置いた。

「ありがとうございます。」

 泡とともにぐっと飲み込むと、炭酸のシュワシュワした感覚とともに喉を爽快感が走った。汗をかいた仕事終わりの体に染み渡るようだった。

「うまい。うん。」

「だろう?ははは。」

 ボンズはにんまりとして鼻の頭が赤い。少し酔っぱらって来ているようだった。

 セイスはぼんやりと棚にある酒を眺めた。カンカンというジョッキをぶつける音や、わいわいと騒がしい人の話し声、それらがみんな、なんとなく遠くに聞こえた。

「しめっぽい顔だな。なんかあったのかい、兄ちゃん。」

「えっ?いやあ、うーん……恋の悩みですかね。あはは。」

「へえ、恋の悩みか。青春ってやつかい?」

 ボンズはふっと店の奥を見て、

「おっ、そうだ。ギターを弾いてくれるんだったな。あそこにあるから頼むぜ。」

 奥には古びたエレキギターとアンプが置いてあった。かなり使い込まれたもののようで、塗装はほとんどはげている。セイスはイスから降りてギターの方に向かった。

 チャンッと一度鳴らす。使い込まれたギターが手に馴染んだ。それから弦の音を合わせた。古い真空管アンプにシールドをつなぎ、電源を入れた。

 プツンッ。

 電気が通った音がすると、騒がしかった店内の空気が一瞬止まったように感じた。すぐに賑やかになったが、横目でセイスの方を見ている人もちらほら。みな、酒をがぶがぶ飲んで酔っぱらっているが、ギターは好きなようだ。そこらにあったピックをつまんで、セイスはギターをゆっくりと弾き始めた。

 耳にかすかなスリーコード。誰もが一度は聴いたことのあるようなブルース。静かに始まったその音は体に染み入るアルコールのように店内に広がった。たばこの煙でもくもくと煙った空間にさびたギターの音が同化する。酔っぱらいたちはおのおのの酒を握りしめながら、目を細めてその音楽に耳を傾けた。コロンと氷の落ちる音が鳴った。

「おう、今日はギターの先客がいるな。珍しい。じゃあ俺もまぜてもらうぜ。」

 白髪がもじゃじゃと無精に生えた、背の小さい猫背の男が、置いてあったもう一つのアンプにシールドを差した。ギターは自前のようだ。いつも演奏している人のようだった。フワァァァンとボリュームを上げる。

 セイスは静かにバッキングを刻んでいる。そして、その男に目配せをした。

 にこっと笑ってその男がソロを弾き始めた。少し荒いが、堂々とした力強い音だった。弾いている途中途中でビールをぐいっと飲んで、だんだんと顔が赤くなってきた。しばらくして、交代だというように男がセイスに目で合図を送った。

 セイスは、ジャッと弦を弾いた。それから静かにソロを弾き始めた。男もそれに合わせてバッキングの音量を下げる。

 セイスは目をつぶって弾いていた。賑やかだが、どこか物憂げな酒場の空気が、肺の中いっぱいに入ってくる。真っ暗なまぶたの裏に、おぼろに何か浮かんで来た。コルトの笑顔だった。セイスは胸がぐうっと痛むように感じた。

 別れたわけじゃない。むしろお互いのために今こうしているはずだ。しかしコルトと離れて、セイスにはしこりのような葛藤が残っていた。一度は納得したはずなのに、冷たい風に吹かれた寂しさから、その傷のような跡がうずくのだった。ただ、コルトががんばっているのを応援してやるだけ。なのに、他の誰かといるのではないかという現実味のない嫉妬や、もしかしたらもう自分のもとからいなくなってしまうのではないかという不安に包まれてしまう。コルトが言ってくれたことを疑うような、そんな自分という人間がとても卑しい者のように思われた。そのタールのようなどろりねばねばとした感情がセイスを苦しめた。

 しかしそんな悩みが、ギターを弾くにつれて、少しずつ癒されていくように感じた。心の中のそのどす黒いタールが、ギターによってわずかずつ浄化されていくのだ。ギターの弦、一本一本を伝ってその濾過されたものが外へ流れる。セイスの指から紡ぎだされるギターの音色は、まるで人が泣いているように聴こえた。人が涙を流して心を落ち着かせるように、セイスの弾く古びたギターが泣いているのだった。そのゆらぎは聴く者たちの心の糸も優しく揺らした。細かな音の涙が、みなの耳に入り込んで、しっとりと濡れる。セイスの苦悩はギターを通して、美しくきらめきながら昇華されるようだった。

 セイスのソロが終わった。すると、みな立ち上がってばんばんと拍手をし、一気に賑やかになった。テーブルに立ち上がって高らかに吠える者もいたし、ジョッキをガンガンとぶつける者もいた。決してコンサートの喝采のような上品なものではないが、それが返ってセイスには嬉しかった。

「いいぞ!兄ちゃん!俺もまぜろよ。」

 両肩にタトゥーの入った大きな男がドラムセットに座って叩き始めた。いつのまにかベースを持つ人も現れ、セッションタイムになった。先ほどのしんみりとした曲調とはうってかわって、明るく楽しい雰囲気になった。みな知っている曲のようでビールを片手に肩を組んで歌い合った。

「俺も飲むぞ!」

 セイスはギターを誰かと交代し、カウンターにどんと手をついてビールをもらった。

「兄ちゃん、いいぞいいぞ!飲め飲め!」

 と誰かが声を上げた。セイスがテーブルに立ち上がって一気に飲み干すと、店内が割れんばかりの大歓声に湧いた。対抗して何人か立ち上がり、その者たちで飲み勝負が始まった。

 セイスがカウンターに戻ってくると、

「いやあ、お前。なかなかよかったぜ。泣けるギターだ。」

 ボンズがセイスに肩を組んで話しかけた。

「ははっ、ありがとう。喜んでもらえてなによりさ。」

「約束どおり今日はおごってやるよ。」

「いいのかい?」

「そのかわり、俺に負けないくらい飲まなきゃあいけないぜ。」

「わかったよ。今日はたらふく飲んでやる!」

 酒場の夜は、昼の都会の喧噪よりも賑やかだ。そこにいるものはみな、昨日は知らなかった誰かと肩を組んでわいわいと騒ぎ、酒を飲みかわす。元気のあるものは勢い余って道路に飛び出し、クラクションを鳴らされていた。ガード下には店が建ち並んでいるので、あっちこっち入り乱れてもう何が何やらわからない状態になっている。ぽっかりと浮かんだ月の下で、酔っぱらいたちの夜はそうして更けて行った。

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