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第十三話

 コンコン、ドアを叩く音を聞こえた。部屋にいたセイスが、がちゃっと開けると、

「ああ、コルトおかえり。」

「ただいまセイス。」

「こんにちは。」

 後ろからサングラスのエラトーが顔を出した。

「わっ!」急に出て来たエラトーに、セイスは驚いて声を出した。

「ど、どちらさまでしょうか?」

 くっとサングラスを上げた顔をセイスはまじまじと見つめた。

「エラトーさん…?ええっ!」

「当たり!」楽しそうなエラトー。そんな彼女を見てコルトはふふっと笑った。

「どうしてエラトーさんが?」

「あの公園で練習してたら、エラトーさんが声をかけてくれたの。」

「家がそのすぐそばでね。いつも散歩するんだ。サックスの音が聞こえて、よく見るとかわいい女の子が吹いてる。だから声をかけてみたのさ。そしたら前のセッションで声をかけたコルトちゃんだったんだ。」

「前のセッションで?そうなんですか。」

「急におじゃましちゃってごめんね。ギターも見てたよ。君の顔も見てみたくなったんだ。」

「ありがとうございます。あ、どうぞどうぞ。ちょっと片付けないと。」

 ささっとセイスが簡単に片付けて、エラトーの席を用意した。

「すまないね。」

 すっと腰を降ろした。

「今、お茶を入れますね。」

 コルトがキッチンに立った、コツコツと陶器の音が鳴った。エラトーの前に出したカップにお茶をそそぐと、ほわっと湯気が上がって、香ばしくてふくいくとした香りが立ちのぼった。一口飲んで、

「いい香りだね。どこのお茶かな?」

「僕の出身の地域の茶葉なんです。特産ではないのですが、小さい農家でつくっているところがあるんです。昔から飲んでいたので馴染みがありますね。コルトも気に入っているみたいです。」

「いい香りなので。飲むと落ち着くんです。」

「そうか。故郷の味だね。セイス君はラートル出身なんだろう?」

「コルトから聞きましたか?」

「ああ。私も色々な地域に演奏旅行に行っているんだ。ラートルにも一度行ったことがある。私はまだ、全く無名の時だったよ。」

「ラートルに?」

「もう何年も前のことだが、砂嵐が激しい日だった。」


 まっ黄色の砂が舞うラートルの町。こんな日はみな家に閉じこもって外に出ないので、人通りはほとんどない。そんな中、服で顔を覆って、風に逆らう人間が一人。エラトーだった。歳は二十歳前後で、まだ少しあどけなさが残る。背中にはサックスを背負い一歩一歩と進んでいる。そこで目に留まったのはバーの看板。砂嵐でほとんど名前などはわからなかったが、ぎいとドアを開けて入った。

「いらっしゃい。外は嵐がすごかったろう。その服装を見ると、旅の人かい?」

 マスターがにこやかに話しかけた。例のごとくグラスを拭いている。

「本当に。こんなに風に巻かれるとは思わなかった。演奏できるんだろ。ここはバックバンドはいるかい?」

「いるよ。この嵐じゃ到着が少し遅れそうだけれどもね。楽器は?」

「サックスだ。」

 ケースのふたを開けて取り出したのは、緑色に輝くサックス。

「めずらしいね。なかなか。期待できそうだ。」

「それまではちょっと飲ませてもらおうか。そうだなァ。」

 エラトーはずらっと並んだ酒の棚を端から端まで眺めて、

「ターキーにしよう。」「飲み方は?」

「ストレート。」

「かしこまりました。」

 とんと出て来たショットグラスを持つと、豪快にくいっと一息で空けた。こんとカウンターに置いて、マスターを見つめ、

「まだまだ。」「強いんだね。」

 エラトーは、結局演奏前までに10杯もの量を飲んだ。マスターが心配したがエラトーは気にも留めずに飲み続けた。バックバンドの準備が整った頃、ほろ酔いといった状態で彼女はステージに上がった。

「私はエラトー・ムブール。今宵はここで演奏させてもらうことにした。みなさん、よろしく!」

 そう言うとエラトーは演奏を始めた。

 恋の曲だった。静かなサックスのソロから始まる。エラトーはさっきのほろ酔いから別人のように演奏者に変わり、人々はその音に酔った。

 演奏が終わると拍手に包まれた。エラトーはまた酔っぱらいに戻ってステージを降り、カウンターに座った。

「ははは、酔っぱらわなきゃやってられないよ。」

「いい演奏だったよ。でも、切ない音だね。なにかつらいことがあったのかい?」

「マスター、聞いてくれるの?」

 エラトーがマスターを見つめた。その目は猫のようにまるい目だった。

「ああ、今日はいい演奏を聞かせてもらったお礼に、つきあおう。」

「後悔するぞ。」

 エラトーはいたずらっぽく、くすくす笑った。彼女はカウンターに顔をうつぶせて、そこにあった丸い銀の玉のおもちゃを、ころころ転がして指あそびをしながら、

「男と女の話さ。わかんないね。何が正しくて、何が間違っていたのか。世界で一番難しいなぞなぞ。」

 グラスに映った自分の顔を眺めながら言った。

「男と女か。」マスターは静かに頷く。

「私はね、彼に優しくしてあげたいって思うんだ。でも、私の行為は彼にとって、重荷になるんだって。最後にそんなこと言って、結局他の女とくっついちゃってさ。私はいつも一人。」

 はあとエラトーは大きなため息をついた。

「なかなか難しいね。最近のことかい?」

「ついこの前。それでさ、ぶらぶら渡り歩いてるんだ。」

 指ではじいたグラスが、チンッと鳴った。

「不安になっちゃうんだよ。なんだか。自分のところにいてほしくて。行かないでって束縛しちゃってさ。優しくしようとしてるつもりなんだけど、私のは優しさって言わないのかもね。それで彼の方が息が詰まって、最後にはバイバイだよ。私がいけないんだよ。私の恋愛はいつもそう。やんなっちゃうよなァ。」

 ふふっと笑ってから、上を向いたエラトーの目はうるんでいるようだった。

「いつもそうなのかい?」

「そう。どうしたってそこから抜け出られない。色々努力はしてるんだけど、なんでかな。」

「そうか。」神妙な面持ちでマスターがキッチンへ入って行った。戻って来た手には何かの小さな実のようなものを持っていた。お皿にちりちりと何粒か出した。

「これは幸せの実って言うんだよ。」

「幸せの実?」

「古くからこの地方に自生する木から採れる、貴重な実なんだ。ちょっと食べてごらん。」

 一粒を、あーんとエラトーは口に入れた。

「うわっ!苦い!」

 マスターがはははと笑っている。

「マスター……だましたな。」

 じろっと睨むエラトーの目がマスターに向いた。

「いやいや、だましてなんかないよ。その実は世界一苦い食べ物って言う評判があるくらいだからね。でも、もうちょってなめていてごらん?」

 んーとしかめっ面をしながらエラトーはその実を口の中でなめ続けた。そうすると周りの苦い層の奥に、なんだかつるんとしたものがあるようだ。

「中に何かあるね。」

 そのままなめ続けると苦い味は消えて、中にある種のようなものは、やわらかいゼリーのような食感で、ほのかに甘い。そして桃のような風味が口いっぱいに広がった。甘過ぎない、優しい味だった。

「わかったかい?」

 うんうんと目を輝かせてエラトーが見ていた。

「その甘みは、この苦さがあって初めてわかる甘みなんだよ。苦いのがなけりゃ味わえない、かすかなものさ。」

 エラトーが目をつぶってもぐもぐとおいしそうに噛んでいた。

「私は幸せが何なのかわからないけれど、先人がこの実に幸せという名をつけた意味がなんとなくわかる気がするよ。」

「苦みの中の、ほの甘さか。確かにね。」

「幸せの価値観はもちろん人それぞれ。だけど苦い経験が多いほど、もしかしたら幸せに近づいているのかもしれないね。」

「そうか。あはは。今日はここに来てよかったよ。ありがとう。今夜は飲むぞ。最後まで付き合ってよね、マスター?」

「ははは、いいとも。」

「マスターも飲んでよ。私がおごるからさ。ね。」

「わかったわかった。じゃあお言葉に甘えていただくよ。」

 それから二人で飲み明かし、音楽の話や人生の話、恋愛の話などを語り合った。それは旧知の親友が出会ったような、楽しげな時間だった。

 チュンチュンと鳥のさえずりが聞こえる朝。エラトーはカウンターに腕を組んで、いつしかすうすうと眠っていた。背中にはブランケットがかかっている。マスターがグラスを片付ける音で目が覚めた。

「おや、お目覚めかい?」

「うう……ん。頭が痛い。あ、かけてくれたの?ありがとう。」

 目をこすって体を起こしたエラトーは思いっきり伸びをした。

「マスターごめんね。ちょっと酔っぱらいすぎちゃったよ。でも楽しかったな。ふわああ。眠い。」

「それはなにより。たまには酔いつぶれるのも悪くないよ。」

「優しいね、マスター。そんなこと言ってると惚れちゃうよ。」

 エラトーはくりくりした目でマスターを見つめた。

「はは。光栄だ。ほら、水入れてあげたから、飲みなさい。」

「ありがと。」出された水をエラトーはごくごく飲んだ。

 サックスを背負い、コートを着たエラトーは、

「ここは、いい店だね。また来るよ。」

「いつでもおいで。待ってるよ。」

 がちゃっと重いドアを開けて外に出た。朝日がきらきらと降りそそいで、まぶしかった。雲がゆったりと流れている。空は青く遠かった。振り返ると来た時には砂嵐で見えなかった店の看板が見えた。

『マイルストーン』

「私の道標か。」そう呟いてエラトーは町を後にした。


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